住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

「高度なチームプレー」 一伯楽の退職

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「いいかオカザワ、陸上競技っちゅうのはなあ、高度なチームプレーなんだ」

僕は高校時代の3年間、陸上競技部に所属した。僕が入学した頃の陸上部は小規模で、どちらかといえば弱小な部で、県内はもとより市内にあっても格別注目を集めるような部ではなかった。それが、卒業の時点では、長野県内では屈指のアスリート集団になっており、男子の中長距離や男女投擲種目などにおいては、インターハイや国体で優勝や入賞をする選手を輩出し、全国クラスとまでは行かなくても、僕のように北信越や県内では入賞ラインに届く選手が続出するチームに大変貌した。それが、篠ノ井高校陸上部であり、その弱小部を最強アスリートチームへと短期間で覚醒させたのが、この春をもって退職することになった中澤次生先生である。彼の教え子の一人で、修行者のように黙々とトレーニングを重ねてハンマー投げで全国トップ3まで駆け上がったスギムラシゲミ君と、同じく幅跳びでトレーニング中にインターハイ入賞ラインをバンバン跳びながら怪我に泣いた「コーマン」ことタキザワコーイチ君の誕生日である3月1日の夜、メルパルク長野でその退職祝賀会が開催された。

陸上はな、高度なチームプレーなんだ・・・。まるでバラバラだった僕らの心を束ねるために、就任した当時の中澤先生は、その言葉を時には熱く、時には熱烈に、時には激昂し、時にはぶん殴りながら、時には蹴飛ばしながら、そして時には部員が誰もいなくなったトラックに一人残って小石を拾い集めながら、口にし続けた。

その言葉が、教え子の心にどう響いていたのか、たぶん先生だって心のどこかで案ずることもあったであろう。しかし、至らぬ教え子たちは先生の新たな門出を祝すために、発起人の声を応じて各地から100人もが詰め掛けることで、ちゃんと高度なチームプレーで応えたのである。

人間というものは案外ぼんやりしていて、例えば人生において大切な存在、例えば女房や旦那との初対面の場面をちゃんと覚えている人は少ない。ところが、僕は中澤先生との初対面の決定的瞬間を鮮明に記憶している。

「おい!」

入学して間もなく、校内説明会のために新入生が体育館に集まるためにぞろぞろと歩いていた。僕が2階から1階へと階段を降りていると、突然馬鹿でかい声がして、肩をグイと掴む人間がいる。

「お前は髪形がマラソンの瀬古と似てる、絶対に強くなる、俺が強くして見せる、陸上部に来い、いいな、俺は顧問の中澤だ、いいな、待ってるぞ、今日の放課後は校庭に来い、いいな!

「????????????????????????????????瀬古?髪型が?マラソン?」

中学時代は野球部に所属し、当時ワールドカップがあってサッカーへの関心も高まっていたから、そのいずれかに入部しようと思っていた。けれども、階段で突然異様に張りのある声で迫ってきた声は、不思議な抗いがたさを持って僕の進路に介入してきた。その中澤先生というのは、見るからに恐ろしげな体育会系(噂では母校国士舘大学陸上部時代に「喧嘩のお次」という称号があったとか)で、体内から力と気迫が充満してあふれ出すような精悍さを振りまいてのしのしと歩いていた。

放課後、行くだけ行ってみようとグランドの方へ足を運ぶと、校舎を出たところで、あの怒鳴るオペラ歌手のような声が早くも聞こえてきた。しばらく他の新入生に混じって見学していると、視力のいい中澤先生(噂では当時5.0の視力を保有)が、目ざとく僕らを見つけてでっかい声で呼びかけた。

「おおい、お前た、そんなところいねぇでこっち来い」

すると休憩ということになってグラウンドの各所で練習をしていた先輩たちが集まってきた。今にして思い返せば、この始まりは一編の青春時代の物語としてはなかなかいいオープニングだった。

「ここにいる諸君は、新しい仲間だ」

「??????????????????」

そこには、僕のほかに、何人かの新入生がいたが、その時に目があった一人の男は、後で聞くと本当はサッカー部に入るつもりでいたという。が、やはり廊下で肩を鷲づかみにされて「お前は天才」というようなことを馬鹿でかい声で言われて来たのだと言う。僕より一足早く仮入部ということになっていて、デイバッグを買わされて入学早々なのに松代から走って通学していた。

「オレは瀬古と似てるって」

「デイバッグ、買っておいたほうがいいよ」

見るからにサッカー少年で、事実中学時代もサッカー部だったムロガエイジと僕は、かくして入部。半信半疑の気持ちを引きずったまま、走ったり投げたりという高校時代が始まったのである。

このままいくと長編になってしまうから、こんな始まりだったことを記してまとめるが、中澤先生は愛して止まない陸上競技において教え子を「強くしたい」という情熱を持っていた。その強烈な競技への愛と、教え子を育てたいという情熱は、いつも沸騰していた。気をつけないと火傷してしまう。しかし、その陸上への強力なベクトルが、少しずつ半信半疑の子どもたちを引き寄せて同じ向きのベクトルにしてしまう。

そして何より、強くしたいという気持ちとともに、結果の出なかった努力に対する温かさを持っていた。皆が強くなれるわけではない。自己記録が伸び続けても、大会で賞をとるまでにいくのは限られた人だ。多くは、平凡な選手である。特に、陸上競技は努力だけでは越えられない壁がある。

僕は途中で中距離から槍投げに種目を変更した。先生は最後まで「瀬古とにてるのに」といい続け走らせようとしていた(危うく競歩もするところだった!)が、結局僕は槍投げ選手になった。そして長野市では優勝できるほどになったし、3年になる頃にはインターハイにも届くかもしれないという手ごたえを感じていた。だから、筋力トレーニングも、ダッシュも、フォームづくりも必死に取り組んだ。もちろん先生も熱心(すぎるくらい過剰)に指導してくれた。

でも、結局はもう一歩の壁がどうしても越えられず、県大会を最後に引退となった。

あの時、最後の投擲は初夏の空にとても美しいアーチを描いた。記録もそこそこであったが十分に満足できるものとはいえなかった。ベストに近かったが、全国大会への切符には届かなかった。

「もっと遠くまで投げられたのではないか」という思いが脳裏を掠めた。片づけをしてフィールドを後にしていく時にもう一度振り返った。すると、そこに中澤次男先生が立っていたのだ。

「オワァ、よくやったぞ」

先生は腕組みをして帽子を深めにかぶっていたが、口元には笑みがあった。不覚にも、涙がこぼれてしまった。それは先生の熱烈な指導に応えられなかった自分の不甲斐なさへの怒りと悔しさであったように覚えている。しかし、スタンドの一角に設けられた篠ノ井高校陸上部の応援席兼控え所に戻ると、何人もの仲間や後輩が拍手をして「ご苦労さま」と声をかけてきた。みんなが、僕の最後の投擲を応援し、見ていてくれたのだった。「高度なチームプレー」と呪文のように言い続けた先生の想いは、そんな形になって現れていたのだ。その時は、悔しさを忘れ、こんな仲間と一緒にやれてよかった、という思いの嬉し涙となっていた。好き勝手にさぼり、茶臼山遊園地で昼寝し、棒高跳び用のマットに寝転んでばかりいたバラバラの群れが、いつの間にか仲間の努力への共感を持つまでにチームが成長していたのだ。

陸上競技は、球技と違い個人技の世界である。一人ひりとが、自分の持っている能力と努力をぶつけ合う。それは、一見するととても個人的で孤独な世界だ。事実、基本的には個人の世界であるのだが、一人であるだけに努力も怠慢もまた個々の心がけ次第となる。しかし、種目は別々でも、同じ志を持っているアスリートであるというチーム意識があると、ベストを尽くしたくなってくるから不思議だ。もっている力以上の力が出てくる。

高度なチームプレーということについて、先生は祝賀会の謝辞の中で違う言い方をしていた。

良かれと思って昔は山にみんなでヒノキや杉を植えたもんだ。あいつらは家を建てるのに役に立つからな。ところが、今になってみるとその山は荒れ放題で花粉ばかり出す困りものだ。根が弱いからすぐに崩れるしな。ところがどうだ、雑木ばかりの雑木林をみてみろ。一本一本は、ヒノキみたいな役には立たないけれども、山全体が水を保ち浄化し、花を咲かせたり動物を育てたりする。みんながヒノキにならなくたっていいんだ。雑木林が大事なんだ。

まるで、お坊さんの法話のようだ。

強い選手を育てることに優れた先生であったが、今となってみれば、よき人間を育てようとしていたのだ。

 

 

 

 

 

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