「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」
お坊さんタマゴ 幻の原稿発掘
以下は、私のパソコンの奥の奥に、ある事情によって秘蔵されていた幻の原稿である。
昔の話が中心であるが、本日たまたまこの関係者から懐かしい電話があったので、ここに後悔して、いや公開して、電話の「教え子」への御礼に代えさせていただきましょう。
◆お坊さん学校
私は今、京都のある大きなお寺の「お坊さん学校」で、平均年齢が二十七歳弱の若者二十八名が暮らす寮で生徒監という仕事をしている。生徒監とは、この若者達の生活指導というのが主たる任務で、それに並行して基本的な作法やお経の唱え方の勉強を手伝ったりするのである。我々は、彼らを「お坊さんタマゴ」と呼んでいるが、お坊さんタマゴは性格も学歴も職歴も思想も価値観もまちまちである。意外かもしれないが、尼僧もいるので我が校は「男女共学」なのである。
このお坊さん学校は仏道修行の道場である。が、滝に打たれたり断食をしたりすることはない。そういうことに意義を認めないのではなく、そんなことをすると坊さんになる人がいなくなってしまうのだろう。朝早くからお経を読んだりお掃除をしたりする基本的な日課の様子は、いかにも修行僧らしい姿だが、月曜から土曜日まで午前と午後にそれぞれ授業があり、仏教概論とか仏教史とか声明という伝統的な仏教音楽の唱え方を習う授業や、専門的な作法を学ぶ授業などのカリキュラムが編まれていて、そういう姿は普通の専門学校と一緒である。ただし、日曜日は一日中境内の掃除なので、休みが無いところは専門学校と大きく違っている。
◆人格者を目指して
普通の専門学校では、それぞれの専門的な知識や技術を学び習得するという目的に向かっていけば十分だと思うが、お坊さん学校では、それに加えて人格的な練磨が求められる。しばしば我々のお坊さん学校は「全人教育の場」といわれるが、お坊さんという職種の特徴として、一般の人より忍耐力があったり包容力があったり、時には指導力や優しさがあると世間一般に思われている節がある。しかし、お経を唱えたり掃除をしたり仏教概論の授業を受けても、人格というものは立派になったりしない。しかもお坊さんの場合はただの人格者ではだめで、お坊さんらしい人格者であることが期待されている(今なおそういう面が若干ある)ので大変である。お坊さんらしい人格者というのは、先に述べたように一般の人より忍耐力があったり包容力があったり、時には指導力や優しさがある上に、言動や佇まいから慈悲と宗教的な威厳を漂わせているような人をいうに違いない。この業界に入ってだいぶ経つが、なかなかそういう人に会ったことがない。私が会うのは一般の人より忍耐力がなく排他的で協調性のないケチな人で、色つやが妙によくテカテカしていて肝臓が強く、よくタバコを吸い、言動や佇まいから跡取りの物悲しさと根拠のない威圧感を漂わせている人である。たまたま私の周囲のお坊さんが人格者でないのか、私が人格者でないばかりに周りが全部人格破綻者に見えてしまっているのかもしれない。ひょっとしたら、どこかにそういうお坊さんもいるかもしれないし、歴史を紐解けばかつていた可能性も十分にある。可能性だけだったら、私がそのような人間になったりすることもあり得るが、ともかく、そのような幻の人格者を目指して、タマゴたちは今日も修行に励むのである。
◆精進
そういう若い修行僧たちなので「精進します」という言葉を多用する。何かというと「精進します」という。人格者な僧侶になるためには精進しなくてはならないと思っているのだ。本人達も何の確証もないままに、そう思っているのだろう。精進したり精進という言葉を多用したりすれば人格者になれそうな気がするのかもしれない。何しろお手本になる人格者がいないのに、そうなろうというのだ。藁をも掴みたい気持ちで闇雲に精進しているに違いない。そのせいか、精進しますという時のタマゴたちはどこかうわの空である。
ところが、彼らの食事はショウジンではない。トンカツもあればカレーライスもある。お替りも自由だ。目を剥くのは朝食時である。大きなゴハン茶碗に山盛りもって米をたべる。一汁一菜が基本だが、漬物や大根おろしやナメタケや味付け海苔や葱がたっぷり用意されている。これがいけない。味噌汁の表面が隠れるほど葱を入れたり、漬物や大根おろしやナメタケや味付け海苔をご飯にまぶしたりするので、実にアサマシイ食卓になる。
「日常茶飯事」といって、日常生活の細部まで厳密に作法としての「行」がプログラムされていたのは昔の話である。日常生活で厳守すべきラインが俗よりに後退したのだ。古老に聞いたところでは、戦前頃の食糧難の時代に、学問や修行も出来ない状況で本山を守る修行僧に「せめて飯粒だけでもたらふく食べさよう」と老僧や檀信徒が米を用意したそうである。たらふく食べることだけが伝統になってしまったのだろうか。
◆修行僧の深い眠り
さて、腹いっぱいの朝食の後、一時間の掃除がある。これを我々は「作務(さむ)」と称している。各班が担当のお堂や庭にいって定められた清掃をするのである。昔から僧堂では「一に作務、二に作務、三、四が無くて五に勤行」といって作務もまた重要な修行である。したがって私は生徒監に就任した時、この作務に力を入れようと思って、サボったりしないよう力説し、タマゴたちに作務大好きになってもらおうとした。なかなか体を動かす機会の少ない生活なので、みんな喜んでバリバリ作務をするようになった。お堂や境内も、これまでよりきれいになったと、他のお坊さんたちにも喜ばれた。
ところが、である。朝のお勤めは六時からであるが、そのためにタマゴたちは一時間前にお堂を開けて準備する。したがって、起床は四時半ということになるが、四時半に起きて六時から大声で朝勤行をして七時過ぎにオオメシを食らって八時からバリバリ作務を終えると九時になる。着替えて朝礼が九時十五分。そして午前の授業開始が九時三十分である。
この時点で、タマゴたちがどうなっているかというと、ほとんどが朝練をした野球部員のように朦朧としているのである。早起きして朝から大声出してバリバリ体動かしてオオメシ食らって坊主頭なので、両者の違いは「精進します」と言うか「オッス」と言うかくらいしかない。仏道と球道は似ているのか。ひょっとしたら、タマゴたちは「オッス」の変わりに「精進します」と言っているのかもしれない。そう思うとなんだか「精進しまっす」といっている気がする。修行僧たちは授業が始まるや、机に向かってヘッドスライディングしているのだ。
◆食べても太らない修行
ほとんどのタマゴが高校球児と化して半日を眠って過ごすと、昼になる(と空腹のため目が覚める)のである。懸命な読者には昼食の有様について改めて説明する必要はないであろう。でも、タマゴの名誉のために言っておくが、入学して太ったものは数名である。中には三十キロ痩せたものもいる。どんなに食べても太る要素の少ない料理が中心だからである(ただし、胃は確実に成長しているから、卒業後も同じ勢いで食べるのは危険行為である)。太ったものは、入学以前の生活があまりにも不健康だったので、規則正しい生活をしたらそうなっただけであり、三十キロやせたものは焼肉屋の常連だったそうである。タマゴ球児は、午後もヘッドスライディングする。
夕方になると、夕べの勤行がある。それが済むと各お堂の戸締りをする。その後は夕食である。気合を入れて夕食に挑んだ後には温習という時間があって、主にお経の稽古が一時間ほど行われる。そして入浴があり、点呼・就寝の午後十時までがわずかな自由時間となる。タマゴの生活は、これが三百六十日繰り返される。
◆修行はキャッチボール
この一年間で、タマゴたちは野球でいうキャッチボールや基礎体力に当たるものを学び身につける。我々は「きちんとキャッチボールの出来ないものに華やかなファインプレーは出来ない」と彼らに言う。立ち居振る舞いや礼拝や歩き方、あるいはていねいや挨拶はキャッチボールだ。これがきちんとできるようになってくると、不思議なことに、授業中にヘッドスライディングをしなくなる。浅ましい食事風景が少なくなってくる。
我々は生活指導において、あれをしろと言うより、自分でそれをしなくてはならない。タマゴは、それを見る。それを言う前にするということが、タマゴたちとの信頼関係の基礎になっている。つまり、それを言う前にする、ということをしていて初めて「あれをしろ」といって、聞いてもらえるのだ。タマゴたちが言うことを聞いてくれないと嘆くなら、それはその生徒監が「口先だけである」ということになる。
キャッチボールは、とても大切である。
◆厳しい制限
タマゴたちは、好きな時に好きなものを食って、好きな時に寝たり外出したり、好きな人とケータイで話したり、恋人や家族と親密な時を過ごしてきた若者たちである。彼らが、そのような意味での自由を全く断念して、制限ばかりの生活をする。制限ばかりというと、消極的であるが、それは僧になる(というよりは、住職になる)ということにむけた積極的な「環境」なのである。〈自由〉を制限された環境において、僧侶として、住職として、最低限、身につけるべき振る舞い、知識、技能、そして観点に対して、身体や意識を集中させていくのである。つまり、ここにある制限・不自由は、一定の期間で人が何者かに「成る」ための力を保ち出し切るためのものである。限られた力を無駄遣いしないということだろうか。したがって、その妨げとなるもの(無駄遣いを誘発する物事)は排除しなければならない。この制限・不自由は、僧侶に成りたいと思う者にとっては苦にならないが、その意思が不安定なもの、つまりこの「集中」の意義に気がつかない、あるいは認めない者にとってはとても辛いものになる。
こうした環境、辛さの中で、長い正座で足がおかしくなって涙を流すものもいる。恋人と話したいばかりに、寮を抜け出して公衆電話で我々に見つかってしまうものもいる。買出しの外出で密かに持ち込んだエロ本が見つかってしまい罰として写経をさせられるものもいる。ストレスから殴り合いの喧嘩に発展する人間関係もある。
これらが、この学校の一年である。この限られた期間内に、〝キャッチボール〟を身につけることが出来るのは、それを強く求める者だけである。
◆啐啄―そったく―
母鳥は、温めている卵が、羽化しようとする機を逃さない。内側から、殻を破ろううとする嘴の動きを敏感に察知して、同時に外側から殻を突く。内からの嘴と外からの嘴が同時でないと、固い殻を破ることは出来ない。禅では、これを啐啄同時といって、師が弟子の成長の機を逃さずに外からの働きかけをすることによって、内発的な悟りへの働きを援護する。ここには教育の要点がある。
我々のスタンスは、我々の仏教への憧れがタマゴたちに伝わっていくことである。彼らもまた仏教が好きになることである。生活指導といっても、要は好きな仏教を大切にするということを起点にしている。堅苦しい作法やお堂の飾り方に関する無数の決め事も、一見無意味なもののようでありながら、仏に対する思慕を育むためのものなのである。常に、仏法へとチャンネルや周波数を合わせておくために、細かな作法はある。
そして、いつの日か思慕の嘴が内側からタマゴの殻を突く時がある。その機を逃さず、外から殻を突くのが、師なのである。その意味で、師を求め、善き師と出会うことに増して幸福なことは無いと言えるであろう。
◇
生徒監もまた、そんな機を逃さないものでありたいが、そんな眼差しが養われる頃には、悲しいかな「異動」がある。教育のスペシャリストが不在のまま、「ひな鳥」たちはどうにかこうにか殻を破ってはみたものの、ちゃんと外に出ることが出来なかったり、外に出ることができたとしても、師たるべき親鳥が見当たらずにウロウロして最初に目に入ったものを「親鳥」と勘違いする迷子のような雛も多い。昔の言葉の通りである。
名馬常にあれども伯楽は常にあらず。
伯楽になれずとも、お坊さんタマゴを温め、その羽化を手伝う専門家の養成は望まれるところである。
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啐啄同時は
小生の親父も
自身がお弟子さんに渡す
月々の言葉の中に
書いていたのを思い出します
おお
この言葉に再開するとは…
幽黙さま
この禅の言葉を知ったとき、禅者たち、老師たちの人間の機微を捉える眼差しの深さに感じ入ったものです。でも、こういう感覚は、学校にも必要ですね。