住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

春のお祭り いまむかし

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昨日は、長谷観音の春のお祭り。昔は大変な賑わいだったそうです。塩崎がまだひとつの独立した村だった頃、このお祭りは、桜咲く春の訪れの中、農作業がいよいよ本格的に始まることを告げます。そして、農業が中心だった共同体の願い、「五穀豊穣・風雨順次・天下泰平・万民豊楽」がお祈りされ、農作物の豊作が祈られました。

共同体の構成員たちが、ひとつの場所に集まり、その土地の神仏にひとつを願いをかけて祈るとき、その祈りを通じて人々は共同体の合意を形成していった。地域の思いをひとつの思いに束ね、その「ひとつの思い」へと皆の心を合わせていくように寺社の境内で絆を深め合う様々なイベントに参加した。長谷観音は、そんな地域の心のベクトルを集約していく一点のシンボルとして、老若男女が集まった。まだ塩崎村として自主独立の半世紀ほど前までは、小中学校もこの日は休みになったり半休になって、子供たちも朝から心を弾ませて露天の並ぶ仁王門に我勝ちにと駆けて行ったといいます。

それが、昭和40年頃に篠ノ井市と合併したころから、次第に趣が変わり、やがて篠ノ井市が長野市になった頃には、かつての塩崎村の自主独立の自治意識は低下し、農業中心だった地域住民の生活の変化も伴って、春祭りは住民意識の合意形成という働きを喪失し、伝統行事の維持という目的ばかりが際立つ行事になってしまった感がある。

しかし、大長野市のベッドタウンのひとつのなってしまったような故郷を見るにつけ、歴史的な合併推進の流れは、地域の自主性や自治意識の低下を招いたことの悔しさのような思いが募る。地域発展のために、住民代表は市の窓口や議員にお願いをすることが中心になってしまい、肝心の地域発展という言葉の内実がいったい何を目指すのか住民それぞれの意思も図れなくなりつつある。仮に、合意を形成したいテーマが潜在していても、それを持ち寄っていく「場」も見当たらない。次第に、単に同じ土地に住んでいるだけになり、合意として形成すべき「共通の願い」さえ見出せなくなっているのではないか。 今日の地域の合意は、もっぱら正しいゴミの出し方などが中心で、後は不審者への対応や安全がメインではないだろうか。そんなふうに考えると、合併というのは、行政側にどんなメリットがあるのかは知らないが、少なくとも地域の自主独立の力が低下したことだけは確実で、むしろそこにこそ狙いがあったのではないかとさえ思えてくる。

けれども、昨今の行政は、そうやって低下してしまった地域性の再生を求め始めている。なんでも行政任せになってしまった市民の意識を、かつてのレベルまで戻すのは至難のことだと思うけれども、行政側としては何でもかんでも引き受けてきていた行政内容を見直して、地域に押し返したい部分は押し返し、少しでもスリム化をすすめたいということなのだろう。

なんだか、身勝手な話だ。

とはいえ、あらためて地域住民が、いわゆる地域の活性化とか発展や安全のために、自分たちで問題を掘り下げその克服のための事業を行うのは大変苦労もあろうが決して悪いことではないはずだ。面倒くさいかもしれないが、結局、市民社会というのはそうあるべきものであって、一人ひとりが地域社会を構成するものとして主体的に参加していくようになるほかはない。

ところが、今更のように、そんな機運が芽生えてはいるが、地域住民による自主性や自治意識が低下してしまった今となっては、僕ら自身が市民として地域の参画していくきっかけとなる『場』が見当たらないのだ。

そんなことを考えていくと、神社や寺の春祭りや夏祭り、秋祭りが、個々の祈りを大きなひとつの願いへと集約していく装置として機能していたのは実に素晴らしいことだったのだと思う。これから、地域が共同体として、せめて安全なり安心を最低限の合意として共同化できる「まつり」を新たに創出していくことが求められるのだと思うが、神仏のポジションが以前とは大きく違う今、何に向けて僕ら市民の思いを集約していけば良いのだろうか。

おそらく、選挙が今のところの代替案なのだと思うが、これまた日本ではどこも盛り上がらなくなっている。なぜだろうか。何か、日本人の性に合わない面があるのかもしれない。やはり、市民、という感覚がどうにも根を下ろしていない気がする。どうして日本人の根っこというのか、生活感覚の基本に市民という感覚が染み込んでいかないのだろうか。かくいう僕にも、「共同体の政治的主体」と定義されるような市民感覚を問われたら、ぴんとは来ないのが正直なところだ。こんな僕みたいな日本人にピンと来させようとして、「自己責任」なんて言葉がいずこからともなくのさばっているのかもしれない。かと思えば、このピンとこないのをいいことに、地方行政も国政も、なんだか好きな勝手なことをしているような気がしてならない。どうせ分かりゃしないから空いてる田んぼにゴミ処理施設作っちゃえ、という感じかな。

でも、市民として目覚めてもらわないと地域の自主性は活性化しないし、また反対に市民として目覚めればいい加減な行政はたちまち壊されることになる。住民にとっても行政側にとっても、一長一短だ。が、やはり、市民として覚醒していくべきなのだろう。でも、何か相変わらずよそよそしい。でも、でも、でもが続くまるで聖火リレーだ。

結局、「日本語」の問題なのだろうか。日本語で思惟する限り、深層まで浸透しない概念というものがあるのではないか。

そんなことを考えてみると、仏教も古代国家が中国から輸入してから何百年もたって日本化していったのだから、外部からの世界観や思想が浸透していくには、長い年月が必要ということなのだろう。

 

 

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