「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」
2008年5月アーカイブ
ストリップを見ることが、人間の道をきわめることだと言いたいわけではもちろんない。
また、いかがわしい、という言葉だけが重要なのでもない。
でも、何か、井上陽水の名言が示すところのスタンスには、お坊さんにも必要な覚悟が見え隠れしている。
例えば、曼荼羅という世界認識を探求し得た昔の偉大な仏教者たちは、あるいは唯識といわれる仏教心理学を構築した僧たちは、どうだったであろうか。
煩悩といかに向き合うかを一貫したテーマとしている仏教である。
視線の行方を気に病むことなく、観察すべきは観察したであろう。
誰かの様子はもとより、自分自身の煩悩性の露出こそ直視しようとしたのだろう。
サングラスがなくとも、人間性の清も濁も善も悪も、見極めようと試みたであろう。
仏眼所照という言葉が立ち上がってくる。
泥中の蓮、という言葉もまた。
◇
本日より、国家公務員になりました。
鳩山法務大臣より、保護司としての任命を受けたのであります。
隣のお寺のご住職様が長年お勤めになっていたのですが、急逝され、地域の保護司に欠員が出ていました。
ある日、区長会長さまが来訪され、「ついては住職にお願いしたい」と突然のお申し出。
「?ホゴシ?僕がですか?」
更生保護をするには、あまりに経験不足、人格不足ですよ、とお断りしていたのですが、区長会長さんが「大丈夫です。この地域の保護司さんは暇ですから」と、微妙な説得攻勢。
今年は厄年ということもありだいぶ悩みましたが、会長さんの「いやだったら2年の任期でやめていいですから」というこれまた微妙な説得と、本山でお世話になった保護司である先輩僧侶の進めもあり、思い切って引き受けることにしました。
息子とヨモギとりをした。全国的なこととは思えないが、この季節、私の母校でもある塩崎小学校では全校児童がヨモギを取って持ち寄り、それを業者に買い取ってもらって現金化し、体育館のボールを買ったり楽器を買ったりした。
◇
子供の頃、近所の子供たちと連れ立って裏山の「猪ノ平」までヨモギを摘みに行った。
大きな袋を満タンにするまでとりまくった。翌日、サンタクロースのような子供らが方々から登校してくる。
中には10キロにも及ぶヨモギをとって、親が軽トラックで運んだりしていた。
次第にヨモギ取りにも熱が入り、学校帰りには競争で「産地」を求めた。学校から近い子供たちは、帰宅するや自転車でヨモギ取りに散り掛かる。
しかし、僕らのように片道30分も歩くような子供らは実に不利だった。
まだランドセルを背負って歩いている僕らの横を、自転車に乗った友達がヨモギ取りの袋を持って収穫に向う。
悔しいので、むやみに早起きしてあちこち取りにいった。
そうやって収穫し持ち寄ったヨモギを、体育館の秤で重さを測るのが楽しみになる。
楽しみにしている間は可愛いが、重さに対する執着が生じてエスカレートしてくる。
子供なりに悪知恵を働かせヨモギを摘むのに茎のほうから葉っぱもたくさん摘んで混ぜたり(本来は頭の部分しか商品にならないと後で知った)、登校直前にスプレーで水を大量に含ませて重さを稼いだ。
かなりズルイことをしているという自覚もあったが、「多いほうがいい」「重いほうがいい」という、まさに高度成長期の児童らしく数字だけを目指していた。
井上陽水にこんな言葉がある。
「時にはいかがわしい場所で人間の道をきわめるため」
サングラスをかけている訳を質問されて、それに答えた言葉だという。
◇
いかがわしい場所とはどんな場所だろうか。
そこで極められる人間の道とはどんな道なのだろうか。
時には、と言うが、それってどんな「時」なのだろうか。
5月12日から16日まで、京都に行って参りました。
■大曼荼羅供
長谷寺は現在真言宗智山派に属していますが、その総本山が京都東山七条にある智積院という大きなお寺です。
このお寺で、大曼荼羅供という大きな法要がありました。
そこで私もお手伝いにいってきたのです。
宗派のあらましとか、この法要がどんなものなのかということには触れませんが、要するに伝統的な仏教教団の中のひとつの真言宗智山派において、この宗派が有する伝統法要の中でも内容もスケールも最高最大の法要が行われたのです。
それだけでも大変なことなのですが、今回は青年僧侶の集まりである智山青年連合会が主体となり、この会の発足50周年を慶祝して青年僧侶だけで企画実行してしまいました。
なにしろ、本来この大法要は僧侶として学徳人徳を磨きぬいたような高僧ばかりによって営まれるものであり、青年僧侶などお呼びでないか、参加できても裏方ばかりで法要に直接参加する役になることはありえないのものなのです。
それが、「若輩」の青年僧によってすべて企画・準備・執行まで実行されたのは画期的な意味をもちました。
日に日に開いていく花。境内をそぞろに歩きながら眺めるのも楽しいですが、近づいて、しげしげと眺めるのも一興。
白い牡丹。
赤い牡丹。
黄色は少し遅いから、また後日。
桜が散ると、長谷寺では八重桜が咲いたり満天星が咲いたりするが、これからは、サツキにつつじに牡丹が開く。
いろいろな色がある。白や紫や赤。新緑も次第に濃くなる季節に、鮮やかだ。
観世音菩薩のことをずっと考え続けている。
観世音菩薩が、慈悲という仏教で最も重要な精神のうち、「悲」を核心・本体とする仏であること、そしてその「悲」は同悲同苦や憐れみ、同情という心の働きとして、私たち人間に本来的に備わる人間性であることを学んできた。
したがって、観世音菩薩を信仰する、ということは、その偉大な妙智力による加護を願うことはもちろんであるが、私たちのうちなる同悲同苦や憐れみの心を信頼し、そのはたらきによって生きて死んでいくことなのだと思えるようになってきた。
そして、そのような人間本来の働きを詩人の山尾三省によって「観音性」と呼ぶ喜びを知った。
私たちの観音性、と、そう言えば、主として近代化以降に力を失ってきた仏教が今なお有している可能性を新たに開くような気がする。
このたび、信濃毎日新聞社から信濃三十三観音めぐりの案内書である「観音さまだいすき」が出版された。



最近のコメント
長谷寺 on 秘仏について: 高岳様 雷雲を憎ん
長谷寺 on 万歳三唱: 高岳様 よくご存知
高岳 里久 on 万歳三唱: 「ワニチャッタ」は、
高岳 里久 on 秘仏について: 秘すれば花 絶対秘仏
長谷寺 on 信濃三十三観音めぐりの本「観音さまだいすき」出版!: YS GEONETさ
長谷寺 on 秘仏について: 雨ニモマケズ様 有
長谷寺 on 秘仏について: 幽黙さま 善光寺と
雨ニモマケズ on 秘仏について: 自分が真に仏教を信
幽黙 on 秘仏について: 現在のところ 絶対秘