「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」
国家公務員になりました。
本日より、国家公務員になりました。
鳩山法務大臣より、保護司としての任命を受けたのであります。
隣のお寺のご住職様が長年お勤めになっていたのですが、急逝され、地域の保護司に欠員が出ていました。
ある日、区長会長さまが来訪され、「ついては住職にお願いしたい」と突然のお申し出。
「?ホゴシ?僕がですか?」
更生保護をするには、あまりに経験不足、人格不足ですよ、とお断りしていたのですが、区長会長さんが「大丈夫です。この地域の保護司さんは暇ですから」と、微妙な説得攻勢。
今年は厄年ということもありだいぶ悩みましたが、会長さんの「いやだったら2年の任期でやめていいですから」というこれまた微妙な説得と、本山でお世話になった保護司である先輩僧侶の進めもあり、思い切って引き受けることにしました。
◇
先輩僧侶の保護司さんは、「人間をひとつの型に押し込めようとしなければ大丈夫だよ」とアドバイスを下さいました。
この言葉が、まだ始まったばかりとはいえ、今後の道しるべになりそうな気がします。
そして今日、任命式と初めての講習会。
長野県内だけで、新任の方が40人くらいいました。職業も様々で女性もたくさんいらっしゃいましたが、やはり僕はかなり若輩モノという印象でした。
ガイダンスで、いろいろな例を紹介されましたが、それらを知るにつけ、いっそう「勤まるのだろうか」という不安はますばかり。
◇
今、伝統宗教の僧侶には『社会貢献』ということが問われていると思う。
それは外からも期待もあるが、内側からの模索が以前より強まっていると思う。
経済の先行きも不透明で、恐慌みたいなことにでもなれば皆さんのお布施で食べさせてもらっている僕らは大変厳しい状況になるに決まっているが、今現在、ご喜捨やお布施によって支えていただき、税制上もその活動を【優遇】されているのであるからには、自分の時間や与えられた能力を社会にお返ししていくという姿勢は大事だと思う。
ボランティアにも、いろいろあるが、どんな場面に出て行くにしても、坊さんがやっているということによって付加される意味合いは大きいだろう。
大上段の法話や布教よりも、地域活動や社会活動の中で築かれはぐくまれていく多様な人間関係のチャンネルから、僕らをメディアにして仏法が伝わっていくのが、結果的にはもっとも有効な説法であり布教なのではないか。
ともあれ、新米保護司として今日『オギャー』となりました。
どうぞよろしくお願いします。
合掌
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お誕生おめでとうございます。
しかしまた守備範囲が広がりましたね。
今後はこの<住職日記>で保護司活動についても拝読できるわけですかー。楽しみです、、、って、活動は暇なほうがいいんでしたね。
地域社会の中では好むと好まざるとに関わらず、例えヘベレケ三太夫状態で飲み屋で友人知人とくだを巻いていても、周囲は<あの寺の坊さん>として見ていますよね。
「人間をひとつの型に押し込めようとしなければ大丈夫だよ」というお言葉は、保護司、あるいは僧侶に向けた言葉のようにも思われました。
高岳さん
守備範囲が広がると、僕の場合はエラーや暴投が増えそうなので心配です。ファインプレーを求めない、基本に忠実にいきたいものです。
「あの寺の坊さん」という見られ方を、曲折あれども、受け入れることが出来てしまえば、それなりに腹もすわって来ると思います。
この先輩は、授業時間が短いことで修行僧にとても支持されている方です。保護司の経験から、人間の集中力のリミットを心得ているのかもしれませんねえ。
なるほど、K先生でしたか。
そういえばN刑務所に同行していただいたとき、K先生から
「犯罪に手を染める人は、そうなる以前に行き場所を失っている人が多い。」というようなことを拝聴した記憶があります。
馴染まないことを押し付けられて、追い詰められてしまうのでしょうか。
僕も犯罪に手を染めないように、自身に一つの型を押し付けないようにしたいと思います。
高岳さん
犯罪被害者や加害者のケアという最前線も重要ですが、やはり予防といいますか、危機管理的な取り組みとして、家族や地域のあり方を見直していかないといけないと思いますね。
K先生のおっしゃる「行き場」や帰る場所として、家族や地域、故郷が改めて創出されなければならない意味で、いかに僕らの時代が厳しいのかと暗澹たる気持ちにもなります。
自分の多様性を認めて生かしていくのも、切れないために、犯罪者にならないためには、大切なことなのでしょうね。ここにも曼荼羅の可能性が開いていますね。
保護司ですか。大変なお役目ですね。
私の先輩(僧侶)も、最近任命を受けたと聞きました。
かなりやんちゃな先輩なので、適任にだと妙に納得したものです。
前の職場でお世話になった大好きな方が、やはり区長などを経験され、保護司もされてました。役ばかり増えて大変だと嘆いておられましたが。
お坊さんの社会貢献、求められる部分が多いと思います。
そして、一般の人よりも付加される意味合いが大きいと思います。かなりお得だとわたしなんかは思ってしまうのですが。
社会貢献と共に布教活動になりますよね??
ナナメ見ですみません。
しかしそれだけ、精神性が求められる社会なんだと思います。
お坊さんが思っている以上に、求められているのではないでしょうか。ただそのニーズの掘り出しができていないと思います。
一般の人たちは、ボランティアやそういった場所で、行政と市民がどうやって連携していくのか、コミュニケーションをどう取っていくのか、ということを学びますが、お寺は別のノウハウがあると思いますし、またむこうからやってきてくれる、というラッキーな場所でもあると思います。場所としてのお寺をどう使い、そして何ができるか、と考えた時、可能性は無限大だと思います。
いまホットな場所ですよね。
話題がそれました。。。
縁さん
コメント有り難うございます。
お坊さんは、良くも悪くも社会性を持った職務なので、何をしても、例えば朝女房の代わりにゴミを出してもインパクトあるし、ディズニーランド行ってもインパクトあるし、ボランティアでゴミ拾いしても、チベット問題やっても、風俗に行っても(あたしゃ行きませんよ!そこまで根性ありません)、海外旅行しても、何もしなくても、お布施について語っても、笑っても、ムスッとしても、評価の振幅が大きいですね。
でも、そうは言っても、お得かというと、疑問です。それほど期待される存在ではなくなりつつありますし。
でもまた、それほど期待されなくなってきていることによって、むしろ縛りがなくなり、自由な活動をする人が増加しつつあることも事実ですね。
仏教が仏教として再生するには、より縛りが無くなった時でしょうから、僕はこれから教団の力とか従来のイメージとしての寺院の存在感は低下すると思うけど、僧侶の活動というのは、むしろ活発になると思いますね。
そうなると、法改正とか税制の改正で新しい縛りが始まるとは思いますが。
様々な場と場を結んだり、コミュニケーションをつないだりする役目、幹事やプロデューサーや調整役等で、社会的に動き回る次元にも僧侶の活路はありそうですね。
保護司は、ちょっと微妙なポジションですね。
あくまでも、体制側に属すると思います。でも、体制側の価値観には反発したり、拒否している人間と会うのですね。
で、基本的には体制側に戻ってくる、組み入れることを基本的には任務としていますね。
どうなることやら。
以前、両親からの依頼を受けて、家庭内暴力の子どもを立ち直らせるために、奮闘するある住職さんのドキュメントをテレビで見ました。辛抱強くその子どもと向き合い、前進後退を繰り返しながら、家庭の和を取り戻していく姿が描かれていました。そこには、仏教とか布教とかいったものは一切現れません。でも住職さんの信念と指導方法は、奥底で仏法に支えられているのだと思いました。
そういえば、お釈迦様だって、弟子を抱えて教団を形成しましたが、「大上段の法話や布教」を行ったわけではなく、あくまでも人々の個別具体的な苦しみ悲しみを救おうと教えを説かれたそうですものね。そして入滅後に弟子たちがその教えをとりまとめたのが、仏教の経典となり教義となった。
保護司という立場を通じてであれ(“体制側”だって構わないと思います)、生活の実践の中で仏法の精神が地域社会に少しずつでも広まっていけば、素晴らしいことだと思います。
雨ニモマケズ様
コメント有り難うございます。
マザーテレサが「大きなことが出来る人はたくさんいますが、小さなことを大切にする人はほんの一握りしいない」と語りました。また、「それを知っている人は多いが、それを生きる人は少ない」という言葉もあります。僕は、これらの言葉の前で、いつも我に返ります。
立派にやろう、見事にやろう、スマートにこなそう、と、何処かで考えているのかもしれません。
そうではなくて、ご紹介のお坊さんのように、真実の人というべき実践の方が、実は仏さまの教えを守り伝えてきたのだと思います。
言葉だけではなく、関わりを通じて、姿勢を通じて、仏法が広まるなら、それが一番いい伝わり方なのでしょうね。
愚生には
まこともって
務まりそうにありませんなぁ
このこともまた
神意というか
仏意というか
なんらかの力が働いてのこと
縁なければ
何事も始らず何事も終わらず
いろいろなことに
直面されるのでしょうけれど
おじゅっさんなら
乗り切れるんじゃないかって
思えるのです
マザーテレサの言葉は
別の場面で
「あなたの隣を見なさい」
という言葉に集約されていると思っていて
大言壮語して遠くのものや大きなものに
目を向けるのではなく
身近な小さなものへ目を向けていく
そんな気持ちが大切なのかもしれません
幽黙さま
僕も、頭ではわかっても、または分かろうと勤めても、生きてきた場面の浅薄さからして、保護司という仕事は向いていないのではないかという思いは強いです。
チベット的に、仏教的に『こうなるカルマがあったのだから、このカルマを大切にしていこう』と受け止めるのがこんな時はいいのかもしれませんね。
マザーの言葉は、「杖」としての言葉になるものが多いですね。
ブログで書き散らしていると、観念の世界で気持ちが広がりすぎて、分かってもいないのに弁舌振るっている時があります。
すこし立ち止まるべき時に、マザーの言葉は呼びかけてくれますね。