「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」
2008年8月アーカイブ
チベット亡命政府の呼びかけによる「平和のための断食」にひとり参加。
http://www.tibethouse.jp/event/2008/080830_fasting.html
概要は下記の通り(チベットハウスのサイトより)。
1. この断食の目的:
- 全ての生きとし生きるもの、特にチベット人と中国人の悪い行為を清めるため、そして善いカルマ(善業)を蓄積するため。
- これにより、ダライ・ラマ法王の長寿と健康をもたらし、衆生の繁栄と利益に対する法王の活動を支援します。
- 全人類が平和と調和のなかで暮らせるよう、世界におけるあらゆる闘争、病気、苦しみ、惨禍を緩和します。
- 今年三月のチベットにおけるデモで政治的理由で闘い、亡くなったチベット人達の悪い行いを清め、彼らがより良い来世に生まれ変わり、いずれは輪廻から解脱するのを助けします。そして中国の残忍な圧制での虐待行為に今なお耐え続けているチベット人達を苦しみから即座に楽にさせるため、チベット問題の真実を早く普及させます。
- 威力弾圧と暴力の犠牲となり、宗教の自由と良心や発言の自由に恵まれていない世界中の全ての人々と、特にチベットの人々を自由にし、幸福と自由を享受させます。又、圧制者達の心にある全ての憎しみを取り除き、彼らを慈悲と智慧をもって導きます。
- そして、圧制者に対する慈悲と慈愛から生まれた非暴力かつ平和的な方法で、弾圧行為や暴力そして人権侵害に有効的に反対するよう、全人類に真剣に呼びかけてアピールします。
娘と京都に行った。一泊の小旅行である。といっても、所用によるのだが。
用を済ませて、ネットで予約した某ホテルへチェックイン。
(ネット予約というのは、どうしてこんなに安くなるのだろうか)
◆
地下駐車場に車を停めてエレベータでフロントへ。
渋い佇まいのロビーは重厚な雰囲気が漂っている。西洋人が溶け込む空間構成に、日本の京都のホテルにいながら、日本人らしく緊張する。
そんな雰囲気にはお構いなしの娘は、いつものようにお人形のメルちゃんと連れ立って浮き浮きとついてくる。
「いらっしゃいませ」
「予約していたオカザワです」
「オカザワ様、お待ちしておりました」(不自然なほど、自然に聞こえる)
娘がカウンターによじ登ろうとする。カウンターの前に設置してある荷物置きようの台に登ってしまった。
「これ、じっとしてなさい、せめて靴を脱げ」(と、重厚なロビーに響かないように小声で注意)
「オカザワ様、本日よりご一泊、お二人様でございますね」
はい、と応答しようとした私より先に娘が答えた。
福島県で、帝王切開手術で娘を亡くした父親が起した裁判。
※ご指摘により、下記のようにた訂正します。
福島県で、帝王切開によって女性が死亡した出来事をめぐる裁判。
僕の友人も手術中に命を落としたが、それも医療ミスではないかと疑われている。
医療の進化は高度化を伴うから、現場の医師の能力もそれに伴って進化を求められよう。
でも、医師だとて完璧な人間ではないから、ミスをするということを前提とした思想の中で、そのリスクの可能性を縮小する仕組みを形作って、高度先端医療を実践していくしかないだろう。
僕も、先年母を亡くしたが、その治療中に手術をするに当たって「誓約書」を書いた。
裁判の社会になってそういうものも要請されるようになったものだろうが、なんとなく「文句言うなよ」という病院側の態度が気になった。
手術実績は、その病院にとっても医師にとっても、自分の『売り』になるものだ。
私の母の場合も、当初の診断ではもう手術をしても成果を期待できないから化学療法で、というものだったけれども、途中で方針が変更されて「やるだけやってみましょう」ということになった。今となっては、初期の診断をした医師の意見をきちんと聞くべきだったと悔やまれもするが、担当の外科医は「有能」であるとされていたし、「やるだけやってみる」という言葉の中に少しの希望を見出したい家族にとっては、外科医の力に望みをかけたくなるのは自然なことであった。
しかし、12時間以上は要するといわれて挑んだ手術だったが、わずか数時間で「終わりました」と告げられた。
その時に直感したのは、この手術は患者の治療のためではなく、その手術実績を上げるためのものだったのではないか、ということだった。
病院にとっては、それによって難易度の高い手術の回数はひとつ増えたことになっただろうが、その大手術のダメージは、一人の命を支える体力・気力を大幅に奪うことになる。
母の場合は、その後の抗がん剤が大きな効果を上げたので、当初告げられた『余命』の何倍も一緒に過ごすことができたが、もしも化学療法をスタートする時点での体力がもっと安定していたら、と考えることもある。
ともかく、痛感したのは、我々は医学について知らな過ぎる言うことだった。
医療情報は、中学生レベルからの必修科目にしてもいいのではないだろうか。
病気になってからインフォームド・コンセントといっても、患者(家族)対医師(病院)という関係性の中だけであるから、どうしても俄か仕込みのあせりと圧倒的な情報格差の中で、患者側は真実を伝えられている気がしない。
そのような個々のレベルではなく「医療界全体が社会全体に対してインフォームド・コンセントをする」という大きなレベルで考え直し、いっそ義務教育レベルから医学を学ぶようにしたらどうなのだろう。
◆
僕自身、日頃からそんなことを考えていた時に、昨日福島での帝王切開によって死亡してしまった娘の父親が起した(※訂正:福島県で、帝王切開によって女性が死亡した出来事をめぐる)裁判の結果が報じられた。
報道のトーンは、「医師を守る」という流れの中にあるように感じられたし、この逮捕と裁判とによって「産科医が減った」とか、今日の医師不足や医療界の混乱を招いたという文脈が形成されていたように思う。
僕は、おそらくあの父親の真意もそうだと思うが、事故を起こしてしまった病院を含む医療界全体の風土的な「仕組み」を明らかにするべきではないかと思う。
仕組みが患者を死なせ、若い医師を追い詰めているのではないだろうか。
◆
以下は、知人が送ってくれたそのお父さんの会見の内容と、行政に送付したという要望書だ。
無念の思いと、大きな力の前で立ち尽くす人間の静かな怒りがある。
【1.ご遺族の記者会見での言葉と配布した文章】
この会見にあたり、報道関係者の皆様には、下記の点についてご理解とご協力を
お願いいたします。
1.なにぶん不慣れなことをお許しください。
2.家族のプライバシーに関するご質問はご遠慮ください。
3.失言があるかもしれませんが、報道する際には配慮をお願いいたします。
4.被告側を刺激しない報道をお願いいたします。
5.遺族側コメントは、私、渡辺好男以外は匿名でお願いいたします。
本日の判決は、被害者の父としては、残念な結果と受け止めるとともに、今後
の医療界に不安を感じざるをえません。
2007年1月26日の初公判から、「真実の言葉を聞きたい」との一心で、裁
判の傍聴を続けてきました。警察・検察が捜査して、裁判になったおかげで、初
めて知ったことがたくさんありました。
長谷観音こころの学校
●渡辺一枝 講演会「私のチベット紀行」
チベットの美しい自然、人々、文化、そして真実。
●期日 9月15日(月・祝)
●時間 午後2時より(会場は午後1時)
●場所 長谷寺(長野市篠ノ井塩崎878)026-292-2102
●会費 志納
●同時開催 渡辺一枝写真展
● 主催 長谷寺南無の会
●協力 チベットの風
◆プロフィール わたなべいちえ一九四五年、ハルビン生まれ。八九年に十八年間の保母生活に終止符をうち作家活動に入る。チベット、中国、モンゴルへ旅を続けている。著書に『時計のない保育園』(集英社文庫)、『チベットを馬で行く』(文春文庫)、『わたしのチベット紀行』(集英社文庫)、『風の馬 ルンタ』(本の雑誌社)など多数。『マガジン9条』発起人の一人。
長谷寺で、ジャズのライブがあった。
横浜や東京で活動する「風狂知音」というユニットだ。
用意してきた音を演奏するのではなく、その『場』に流れている音楽を感じ取って奏でるという。
夏目漱石の「夢十夜」に運慶の話があったのを思い出した。
運慶が大きな木にノミを当てて「木の中に埋まっている仏を彫り出している」というようなことを語る場面だ。
場に流れているものや秘められているものを探り当てていく感覚というのは、ちょっと僕も錆びている気がする。
密教の『加持』という言葉にも、「場」という意味があり、場の力との感応道交を大切にする。
空海弘法大師の言う「三密加持すれば即疾に顕る」という言葉も、人間と場との深い関わりを前提にしているものだろう。
場との関係性が弱まっている僕自身のあり方も現代人のあり方も、命が有する何らかの感性の鈍化を意味しているに違いない。
長谷寺の『長谷』という場の意味や力を考えると、弱ったことである。
アドリブには、ジャズという音楽の命があると改めて感じた。
素敵な夜でした。
風狂知音サイトはこちらから。
日本では、報道の価値がないとみなされているのか、ほとんどメディアに乗ってこないけれども、オリンピック選手たちの中にも積極的に意思を表している人たちもある。
http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080807_appeal.html
127人もの選手たちが、中国の国家主席に対してチベット問題を含む人権の問題の改善を求めて書簡によるアピールを出した。
政治とスポーツは別、といつも突っぱねる偉い人たちも耳を傾けて欲しいものだ。
スポーツ選手は、国際的に活躍するアスリートであるほど、スポーツを楽しむことが出来ることの尊さをかみ締めているはずだ。そんな選手たちを、「政治とは別」といって切り離すことは無理な話だ。彼らこそ、スポーツを通じて国境や民族や宗教の隔てを超えた喜びを知っているのだし、彼らこそ、現代の政治の『限界』や国際社会の仕組みの問題点を痛感しているのだ。
◆
送り盆の時刻。
檀家の方々がお盆の間お迎えしたご先祖様を送ってお墓にやってくる。
と、ポツリポツリと雨が降り始めた。
「だから早く行こうって言ったのよ」と駐車場で慌しい声がする。
お迎えは早くして帰りはゆっくり帰ってもらう。そんな思いを反映するというキュウリとナスで作る馬と牛。
お迎えは馬に乗って速やかに。帰りは牛に揺られてゆったりと。
でも、雨脚が強くなってくるとなかなかそうも言っていられない。
やがて雨粒はポツリポツリからボツリボツリと力強く屋根を打ち始め、空はみるみる暗くなってきた。
「あなた、車から傘を持ってきて」と声がする。
◆
盂蘭盆経という経典には、釈尊の弟子の目連が、餓鬼世界に堕ちた母を、釈尊の教えによって救うエピソードが載っている。先日の日記にもそれについて思うところを書いたわけだが、今日は意外な事実を知って驚いた。
この目連が釈尊の教えによって母を救ったのは、7月15日とある。これが新しい今日の暦では8月15日となっているのだが、8月15日はキリスト教では「聖母の被昇天」という聖なる日だという。勉強不足で全く知らなかったが、カトリックの大祝日であって、各地のカトリック教会でお祝いされるという。
聖母の被昇天とは「聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられた」という信仰によるお祝いだという。
不思議だ。
洋の東西で、母なるものが同じ日に昇っていく。
暦が歴史的にひとつではないから必ずしもピタリと同じ日におこなっていたわけではないが、それにしても夏のこの時期に東西の母なるものが成仏していくとか天に召されていくという大きなモチーフが取り上げられているのは看過できない。
何か、仏教とかキリスト教とか、そういう新しい精神文化の遥か太古からの記憶に、母なるものが「昇っていく」「救われていく」というテーマが刻印されているのではないだろうか。
ちなみに、これはやや遅れるが旧暦の8月15日は、竹取物語のかぐや姫が月に帰っていく日でもある。
いずれにしても夏というのは、私たちの母性や女性性にとって、何か深い意味を持つ季節なのではないだろうか。
長野では数少ないプロ野球の公式戦。パ・リーグのライオンズ対マリーンズ戦が、篠ノ井のオリンピックスタジアムで行われた。
この春から息子が野球を始めたので、凄い人たちのスーパープレーを見せてやりたいと思って、家族で出かけた。
息子と僕は、きちんとグラブを持って出かけた。法事に数珠を忘れないのと同様、野球観戦にはグラブは欠かせない。
息子のグラブは、先月、メジャーリーグ入りの野望への第一歩として買い求めた『イチローモデル』のカッコいいグラブだ。
前夜には、映画『メジャーリーグ』も予習のために観た。
母のことを書いてみようと思う。それは遥か2500年以上も昔の、目連という男とその母、そして釈尊との話である。
その前に触れてみたい唄がある。歌手の中島みゆきさんの「帰省」という唄だ。
帰省
遠い国の客には笑われるけれど
押し合わなけりゃ街は 電車にも乗れない
まるで人のすべてが敵というように
肩を張り肘を張り 押しのけ合ってゆく
けれど年に二回 八月と一月
人ははにかんで道を譲る故郷(ふるさと)からの帰り
束の間 人を信じたら
もう半年がんばれる
《アルバム『短編集』所収》
八月と一月、つまり盆と正月に故郷に帰ると人は優しさを快復する。私は、八月の盆にまつわる物語をたずねながら、人が優しさを取り戻すわけを考えてみたい。
◆



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