住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

オリンピック選手ら、胡錦濤主席にアピール

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日本では、報道の価値がないとみなされているのか、ほとんどメディアに乗ってこないけれども、オリンピック選手たちの中にも積極的に意思を表している人たちもある。

http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080807_appeal.html

127人もの選手たちが、中国の国家主席に対してチベット問題を含む人権の問題の改善を求めて書簡によるアピールを出した。

政治とスポーツは別、といつも突っぱねる偉い人たちも耳を傾けて欲しいものだ。

スポーツ選手は、国際的に活躍するアスリートであるほど、スポーツを楽しむことが出来ることの尊さをかみ締めているはずだ。そんな選手たちを、「政治とは別」といって切り離すことは無理な話だ。彼らこそ、スポーツを通じて国境や民族や宗教の隔てを超えた喜びを知っているのだし、彼らこそ、現代の政治の『限界』や国際社会の仕組みの問題点を痛感しているのだ。

 「国」を背負って戦うスポーツなら、それはすでにスポーツではないのではないか。

メダルの獲得数の表は、いびつな国、国民の幸福より国家の威信を優先する国の順位ではないだろうか。

素晴らしい記録、素晴らしい戦い、素晴らしい演技を観ても、こころから感動しきれないオリンピック。

日本の国民体育大会が、戦後復興と戦後の国民的な目標や価値観の共同化のための「祝祭」としての機能を失って、今ではほとんど盛り上がりを見せなくなったように、オリンピックもその意味を失っているのではないでろうか。

かつては、国のために、国民の代表としてオリンピックで必死に戦う選手の姿に感動した。それは自然なことだったと思うし、意味のあることだったと思う。

けれども、今でも、そしてこれからも、スポーツとはそういうものであり続けるのだろうか。

日本に生まれて幸せです、という実感は、国を背負って戦う相手に負けてしまっても「国民の皆さんに申し訳ありません」と謝らなくてもすむような社会になってこそ、感じられるのではないだろうか。

国のためにということをモチベーションに出来ない日本選手が、自分のために精一杯やっている。

彼らが「国家のために命がけでやっている」中国や韓国の選手に負けた時、その「敗北」をどう受け止めることが出来るか。

中国の110メートルハードルの選手はどうなってしまうのだろう。

考えさせられる毎日だ。 

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