住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

総理大臣

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また総理大臣が辞めてしまった。

庶民の想像を絶する重圧があるのだろうけど、もう少し何とな踏ん張って欲しかったなあ。

それにしても、行政のヘマやだれそれ大臣の事務所費やら前総理以来政策とは関係の無いことで政治家同士がワーワーと争っていて、肝心の政策論議はないし、政治そのものをしているように見えない。

実は、与党も野党も、政策を論議する能力がないから、こういう状況を作り続けて国民を煙に巻いているのではないだろうか。

まともに政策を話し合い始めたらたちまちにボロが出て政治部の記者にやり込められたりして。

もっとも、こうやって大衆レベルで批評家ぶってああだこうだと言うのはお気楽なもので、問題があまりにも多くあまりにも複雑で、それに対する意見や提案も多岐に渡りすぎている上に、とにかく前進していくための合意を形成したり決断をしていく「仕組み」が無いのではないだろうか。あるいは、従来の仕組みではもうどうにもならなくなっているか。

きっと政治だけがおかしいのではなく、やはり国全体の、同時代の我々人間のあり様を映し出しているのだろうから、「無責任だ」と鸚鵡のように責め立てても始まらない。「無責任」コールに終始している野党だって、それしか言ってない所を見ると、「オレならこうする」という代替案もないのだろう、と馬鹿にされても仕方が無い。

小学校でPTA役員を決定するのに深夜まで要する社会である。

自分たちが参加している社会であるから、その決定や結果については、自分に責任があるのだと、切り替えていくべきなのだろうが、どうも「お上任せ」の意識は僕らに根強く、またお上のお役人たちも、下々のものは心配せず任せておけと、幕閣のような気持ちでいるのだろう。

腹を切るような決死の覚悟で下々の上に立っていた大昔とは違うのだから、僕らも、責任の所在の明確化や、意思の決定の仕組みについて、それから決定したことに対する引き受け方など、意識を変えていかないとならないのだろう。

そうしないと、総理は任期が一年交代制になってしまう。

あんがい、それもいいかもしれないが。

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コメント(4)

幽黙 :

政事
祀事
祭事

どこかしらなにかしら
一部ずれてきている感じが
澱みのような感覚が
ちょっとあります

先の医療裁判の日記でも
書かれていましたが従来からの
「仕組み」
がどこかで齟齬を来たしている
ということかもしれません

あるいは
「仕組み化」
することそのものがおかしいのかもしれませんし…

ただやはり普遍とはまではいかなくても
一定の水準を共有するために
やはり「仕組み」は必要なのでしょうね

脇でやいやい言うのは
簡単なのですが…

長谷寺 :

幽黙さま

「仕組み」が現状に合わなくなっていると言うと、構造改革路線に巻き込まれてしまいます。

たぶん、そういうことではないのですよね。

いわゆる「構造改革」は、こういう政治的な停滞に対する国民の鬱憤を追い風に利用して、グローバリズムと言う荒海に投げ込んでしまおうとします。その海では「弱いやつは溺れて死んでも助けない」というルールです。で、限られた「陸」は投資家の目線や価値観で個性を根こそぎにされて、どこへ行っても同じ風景になりました。

そういう仕組みを求めているのではないと思います。

では、元のままがいいのかといえば、そうでもない。

つくづくと考えなくてはならない時期らしいことは確かなようです。

雨ニモマケズ :

 「自分たちが参加している社会」でありながら、PTA役員や地区の役員になり手がないのは、総理大臣同様の(苦笑)無責任体質が蔓延しているからか。
 “奉仕の精神”などというと道徳めいてよくないが、人のために役に立つということが仏道のお布施(見返りを求めず与え続けること)ではないか、と考えるとそんなに抵抗感もなくなるのだが、それは自分だけだろうか。

 中央の「お役人」はいざ知らず、昨今の地方行政においては、「下々のものは心配せず任せておけ」などという姿勢はまずないことを強調しておきたい。
 そして、対等の立場で役割分担をしながらまちづくりを進めていくというのが基本的な姿勢であり、「「お上任せ」はもうやめましょう」と、ことあるごとに説得しているのである。
 「元気なまちづくり」に成功している事例は、例外なく住民が主体的に参画しているのだから。

長谷寺 :

雨ニモマケズ様

民主主義というのは、1000年の思想であるといわれますから、これからも人間の社会にとって大切なものに違いないと思いますが、日本人にとってはまだ「輸入」されたものであり、お上から与えられた(押し付けられた)ようなもので、それゆえに、民主主義を前提としている社会もまた、実態としては前近代的な関係性の上に成り立っている所もありますね。

一国二制度という面が多分にありますね。

そのために、『市民』という感覚がまだ未熟なのでしょう。かくいう僕も、とても「自身が民主主義の主体としての市民であること」という自覚や成熟には程遠い人間です。

地方行政については、僕も一般市民と窓口レベルで接触している現場の方々にはし「下々のものども云々」意識は感じません。
でも、たとえば私たちの周辺の「広域」における利権の絡む大きな施設(ゴミ処理施設)をめぐる混乱などを見ると、行政側には地域住民との対等な役割分担に不可欠な「情報の透明化」という意識は見えません。
そこには悪意ではなく、むしろ地域経済のための善意に基づく意図も感じるのですが、肝心な所が不透明では、心ある市民は離反し、主体的な住民参加は反行政運動として立ち上がってしまいます。

ともあれ僕ら一人ひとりが「自身が民主主義の主体としての市民」になっていきたいものですね。


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