「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」
Training of defeat?
私の親友が、いい年してから柔道を始めている。
そのことが何となく気になっていて、遠くに住んでいる彼のことを折に触れて思い出す。
いい年して、とうっかり書いたが、40歳くらいになってから体を痛めつけるような武道を初心から始め、しかもそれを続けるというのは、なにかしら「想い」がないと出来ることじゃない。
しばらく彼とも会っていないが、ある時、手紙をくれた。
そこに、彼が尊敬する道場の師が大切にしているというあいだみつをさんの詩が書かれてあった。
私は、実は、あいだみつをという人の詩をよく知らない。
でも、その詩を目にした時は、ううむ、と唸った。
◆
負ける練習
柔道の基本は受け身
受け身とは投げ飛ばされる練習
人の前でたたきつけられる練習
人の前でころぶ練習
人の前で負ける練習です
つまり、人の前で失敗をしたり
恥をさらす練習です
自分のかっこ悪さを
多くの人の前でぶざまにさらけ出す練習
それが受け身です
長い人生には
かっこよく勝つことよりも
ぶざまに負けたり
だらしなく恥を
さらすことのほうがはるかに多いからです
そして
負け方や受け身の
ほんとうに身に付いた人間が
人の世の悲しみや
苦しみに耐えて
ひと(他人)の胸の痛みを
心の底から理解できる
やさしく暖かい
人間になれるんです
そういう悲しみに耐えた
暖かい心の人間のことを
観音さま、仏さま、と
呼ぶんです
◆
ううむ、である。
これは実に、ううむ、ではないだろうか。
これを読んでから、息子のことを考えてみる。
息子と自分の関係について、考えてみる。
そして、僕と父親のことを、考えてみる。
ううむ、である。
カテゴリ
仏教トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: Training of defeat?
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://hasedera.net/cmt/mt-tb.cgi/100



以前、渋谷区で、歯学部を3浪していた兄が妹を殺害するという事件があり、その後発売された週刊誌で、兄ではなく殺された妹を非難する論調の投稿や記事が掲載されていました。
その主旨は、「あなたには夢がない。私は女優(?モデル?ダンサー?)になる夢に向かっている」などと妹がなじったことについて、「夢に向かって、希望に満ちて一途に努力しているなんて胡散臭い。世の中、夢をかなえられない人間の方が圧倒的なのが現実だというのに、夢や希望にむかってときめいているおまえ(妹)の方がおかしい。」といったものだったと思います。
私も、むしろ苦悩していた兄に同情します。夢や希望がかない華麗な人生を歩む人なんてごく一部です。苦しみ、悲しみ、そして「受け身」が必要になるような失敗の方が人生には多い。だから、地味であろうがトボトボ生きた(そしてその行動はまさに菩薩行であった)法華宗徒宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が、読むたびに心に染みるのです。
雨ニモマケズ様
常不軽菩薩という不思議な呼び名の仏さま。
疎んじられ、蔑まれ、石を投げられても、その自分を迫害する当の相手に秘められる仏性に向って礼拝する。
宮澤賢治が、この菩薩の道を歩んでいたことは疑いえません。
そのような生き方の魂は、増長する思い上がった精神には絶対に聞くことのできない本当の声を聴くことが出来る。常不軽菩薩も、決して人を軽んじない菩薩行の果てに、とうとう威音王如来という仏の法を聴き遂げます。
姉を殺してしまった兄をあと少しだけ止まらせることが出来たら、彼もまた常不軽菩薩の如く、本当に大切なことを聴くことが出来たのではないでしょうか。
貧窮孤独にある人を支える言葉が、今あまりにも不足していますね。大切な人を殺してしまったり、自ら命を絶ってしまうほどの境遇にある人なればこそ、とても大切な「声」を聴くことが出来るのですから、やはり人をギリギリで支える言葉や「負ける練習」が、大切なのだと思います。
「男の子」の育て方・・・なんて本を読むことがあります。そこには、「男の子は父親の影響が強く残る」とあって、家内からも、そんなふうにせかされると、プレッシャーを感じます。
たとえ、一か月に一度しか会っていなくても、父親の存在は、男の子にとって大きいということでしょうか。
柔道の試合で、息子の前で無様に負けたことが何度かあります。
それを見てから、息子に変化があったように記憶しています。
私の師匠は、小学生たちに「試合に出るだけでもすごい!」と言います。
明日はその小学生たちの晴れ舞台です。
相手に勝つテクニックよりも、もっと大事なものを学んでいく彼らの姿は、とても頼もしく感じます。
はじめまして あいです。
相田みつをさんは大好きで本は何冊か持っています。
何回も読んだけれど、最近は開けなくなっていたな。
今久しぶりに開けてこんな詩をみつけました。
シラスケさんが書かれた少し繋がるのかなって思いました。
「冬心」
樹木は風雪の中に
他人に見せたくない
自分のあるがまの裸をさらす
ひとことも弁解しないで
だから自然は強くて優しいのかもしれないと思いました。
みつをさんの詩はどれもありのままの素直さが心にひびいてきます。
とほだー様
少年柔道家たちの晴れ舞台はいかがだったでしょうか。
私も、中学時代に少しだけ習ったことがありますが、親友に誘われていった小さな道場には、9段とかいうとんでもない達人の老人がいて、稽古をつけてくださいました。
その方は、ただひたすらに受身なのです。
もう80歳くらいになっていたと思いますが、今にして思うと、大変立派な方に習ったのだと、当時のいい加減さが悔やまれます。
この間のオリンピックを見て柔道が欧米流の「JUDO」に変わったのだから日本の柔道も一本や形や精神性に拘泥せず、進化すべきだというメダリストの発言も注目されました。
五輪種目の道をあえて辞めたとされる剣道との対比を思います。
「持った大事なもの」を自信を持って大切にし続けて欲しいですね。
あい様
コメント有り難うございます。嬉しいです。
「冬心」、タイトルからしてハッとさせられますね。
以前、冬という言葉は「増える」という言葉と根が同じだと読んだことがあります。
一見死んだようになっている季節の間に、春に向って一気に花開くためのエネルギーが静かに静かに蓄積されているのだと。
忍ぶこと、は今は余り価値のないことになっていますが、とても大切なことであるのは、今も昔もこれからもきっと、変わらないでしょうね。
それにしても、ありのままになるのは、難しいですね。
子供たちの試合は全員初戦敗退でした。
でも私の心は燃えています。
彼らに一勝でもさせてやりたい。
前よりは確実に強くなってきているのは感じています。
「礼儀」とか「伝統」とかいろいろ言っても、「試合に勝つ」という目標がなければ、厳しい稽古も耐えられません。
次は11月です。
教えるためには、先ずは自分を律しないと。
自分が強くならないと。
がんばります。