住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

Religious delicacy・・・宗教的な繊細さ、それが問題だ。

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宗教的な繊細さ、宗教的なデリカシー、それがないとガッカリする。

だって、そこは葬祭場なのだから。

お葬式をしているのだから。

それを生業とするのなら、そう斎場のスタッフは、もっともっと、もっともっと、繊細に振舞って欲しい。

あなた方にとっては毎日のことかもしれない。

人の流れをスムースに運びたい気持ちも分かる。

しかし、厳粛であるはずの葬儀をする空間を提供し、それを商売とするのなら、葬儀をしているまさにその時、儀式を台無しにするような音を出して欲しくない。

もっと、宗教の儀礼を行う空間のあり方について真剣に考えて欲しい。

例えば、へんなアナウンスを、しかも過剰に感傷的な口調で差し挟んで欲しくない。

参会者の緊張を断ち切るような行動を謹んで欲しい。

やたらと友達みたいな口調で、しかも喪主さんや参加者の前で話しかけないで欲しい。

読経中の職員の靴音くらいは気配りして欲しい。

むろん、葬儀の意味を重くかみしめて振舞っている人もあるし、会社によっては徹底した社員教育によって、「サービス」が儀式を遂行する上でよく訓練されているところもある。

しかし、それでもここ数回の葬儀に行って感じるのは、スタッフの弛緩した振る舞いから生じる「がっかり」だ。

もっともっと、本気で儀式の空間を提供し、その場をふさわしく運営する緊張感を持って欲しい。

人の『死』という人生最大の場面に立ち会う仕事に誇りを持って欲しい。

喪主の家族や親族は必死だし、そう頻繁に体験することでないから、斎場の良し悪しやスタッフの出来不出来など感じる余裕はないだろう。

でも、この弛緩した形式やムードが当たり前に続いていけば、それがひとつの『文化』として定着してしまう。

死にゆく人との別れの儀式から、やがて厳粛さや緊張感が消え、葬式なんていうものはそんなものだ、ということになってしまうかも知れない。

しかし、少なくともうちの檀家さんの葬式は、気合を入れて勤めていただきますよ。

祭壇に、亡き人の魂を想って欲しい。

霊的な厳粛さを感じて欲しい。

それをないがしろにして商売したら、バチ当たっちゃいますよ。

自戒を込めて、ふかく自戒を込めて、書いてみました。

 

 

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コメント(6)

玉泉 :

上記のようなことがあれば当然気になりますし、憤りを感じます。遺族にとっても大変に失礼な話だと思います。

私が大学時代にインターンシップで研修に行った葬儀社では、毎日のように葬送に携わる司会のかたが泣いていました。
プロとしては泣くのもいかがなものかと思いますが、しっかりと一軒一軒の遺族と関わるがゆえに感情移入してしまうのは遺族にとっても感動的な葬儀になることが多かったようです。
その会社は年々成長を続けておられるようですが、葬儀社では当時珍しかった『命を繋げる』ようなキャッチフレーズを使っていたのが印象的でした。

長谷寺 :

玉泉様

ありがとうございます。

サービスとして、葬祭業の人たちの仕事が、遺族の感情の部分に深入りしていくことはすでに始まっていますね。グリーフケアの部分も商品化されています。そのうちに、「悲しみAプラン」を選ぶと、より悲しみを倍増させる演出が用意されたりして。遺族の感情に介入してくるようになるかも知れませんね。やはり、こういう現場に立つ仕事ですから、協働性を築かないと、何だかわけの分からないことになってしまいそうです。

泣いてしまうのは『どうかなあ』と僕としては思いますが・・・。

幽黙 :

納棺師を描いた映画「おくりびと」がヒットしたようです
愚生が遍路で知り合ったライターさんが企画して
湯灌師(=納棺師)さんが自分の筆でその仕事を
記録された書籍もあってこちらは読みました
その企画したライターさんももちろんこの内容を
世に出すにあたっては自らも湯灌師の仕事を
しばらく手伝う形で携わられたそうです

職業で商売で「葬」を扱う場合は
それが仕事だからととことんドライに割り切って
それと相対するのか
あるいは人として深い哀しみの中におられる
ご遺族の方々に共感してしまうのか
難しいものがあるとは思うのですが
ドライに割り切るのならば徹底的に職業としての
「葬」をつきつめてほしいとも思いますし
その場合にはあくまでも影としてのみ存在するくらいの
プロとしての徹底ぶりが求められると思います
感情的にあまり移入されても…
そのうち昔の「泣き女」的商売まで
登場するのではないかというのも困りもので
まして「悲しみ」をプロデュースするというのは
あまり好ましくは思われません

先の湯灌師という方々はあくまでも感情を殺し
機械のように作業を進める
ただし人間として亡き人の尊厳を丁寧に思う
ということは決して忘れないという心構え
そうしたもののの方が求められるような気がします
その心構えがあれば自ずと行動にも粗相が出ない
身動きができると思うのですが…

長谷寺 :

幽黙さま

そうですね、まさに「死」の尊厳と言うのか、命の尊厳に対する思いを養って欲しいものですし、これはそのまま僕ら僧侶に向けられた言葉でもあると思います。

「葬式仏教」という言葉が、悪い意味になってしまった時代背景もあるとは思いますが、やはり仏教の言葉である「生死」に対する態度がこの半世紀でひどく鈍らになってしまったのは確かだと思います。

ドライのプロとしての割り切りにしても、尊厳に対する覚悟がなければ、これはもうちゃんちゃらなものになってしまいますね。

でも、こういうのは、僕らからの働きかけによって、連携していかなくてはならないことでしょうね。

こんばんは

 いつもご住職の日記を拝見させていただいています。

 父の出棺の時、どうしたわけか、焼き場に行く車に追いすがり「行かないでぇぇぇ」と叫んだことがあります。
 その時の葬儀社の方が焼き場に行くのを止めて私についていて下さって「大声で泣いていいんですよ。」と慰めてくれたのがとても有り難かった。
 あとで正気に返って超恥ずかしかったけど。

 後に残されたものが、亡くなられた方の命に対して尊厳の気持を持たなければ、葬儀屋さんも安きに流れてしまうでしょう。

 大きな病院の産婦人科がベルトコンベアみたいになってしまったように。

長谷寺 :

みゆきさま

有り難うございます。

お父様の時には、とても細やかな方にお会いできたのですね。

しかし葬儀屋さんを批判するのは、坊さんを批判するのと似ていてとても楽ですね。
でも、これらの職業は、やはり社会の有様を反映するものでもありますから、社会全体に宗教的なデリカシーがなくなっているともいえそうです。

でも、世の中に左右されない宗教性というのは、やはりあって欲しいし、それを守り伝えてこそナンボ、であるはずですから、お坊さんも葬儀屋さんも頑張らないといけませんね。

自分たちまで、楽だからといってベルトコンベアに乗ってしまわないように。

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