住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

2009年2月アーカイブ

生まれ清まった者

 

白助=シラスケ

 

 最後に白助の名前と長谷という言葉について触れましょう。

 まずは白助という名前から考えてみたいと思いますが、シラとスケを分けて考えてみます。先に「助=スケ」ですが、この言葉は日本に古くからある言葉で「男」を指すようです。赤胴鈴之スケ、といったり、芥川龍之スケ、というように、男であることを示す言葉です。また奈良時代の官庁の役職である四等官では長官に次ぐ時間のことを「輔・介」等と書いてスケと読みますが、ここにはサポートするもの、手助けするものという意味合いがあるでしょう。

 

 筆者が注目し問題としたいのは「白=シラ」です。日本の民俗学の最大のテーマであり最大の謎とも言われる「シラ」が、長谷寺を開基した男の名前に冠されているのです。

 

 白助物語の時代は、その記述どおりの時代まで遡るとすると、今から一四〇〇年ほど昔に遡ることになります。この時代は、これまでに検討してきたように、仏教の伝来からそれほど時代が下っていない頃と考えられます。

旅の終わり
             
 その後九ヵ年を経て、くたんの本尊の左手忽然として失せぬ。時天くもり山幽にして、翁が家を巻き覆い、夜中に及んで件の女房の云う。我は是れ長谷寺の地主瀧蔵権現なり。大聖の御使に此の所に来れり。然るに此本尊の御手失せ給ふ事並びに我が怪異也。汝が所願すてに成就す。我れ本山に帰って、常に此の山に影向し、この伽藍を守り奉んと思ひ、日頃汝と夫婦なりと。人に語るべ可らす。但し、後の形見の為、来世衆生のため、我が一手を留と云て空に上り、霞に入ってうせたまいぬ。則ち亦具する所の童、我は是れ長谷の山口の神なり。日頃汝に仕と。人に語るべ可らずと云って同じく天に上る。               
                            
大意 白助が代官となって寺を建てて九年が過ぎたある日、白助が造った本尊の左手が突然なくなってしまいました。その時、空はにわかに曇り、山は怪しい気配に包まれ、白助の屋敷はすっかり雲に覆われてしまいました。夜になって妻がこう言いました。『私は実は奈良の長谷寺の土地の神である瀧蔵権現なのです。大聖観世音の使いとしてここにやってきていたのです。先に本尊の左手を消したのも私が示したことでした。あなたの願いはもはや叶っています。私は大和の長谷山に帰ってからも、常にこちらの山にも守護の光を向けるでしょう。これまではこちらの伽藍を守ろうとお前と夫婦の姿を取ってきたのですが、このことは人に語ってはなりません。ただし私の形見として、また後の世の人々のために、私の手を留め残していきます』。そう言い残し、妻であった瀧蔵権現は天に上り霞に消えてしまわれました。そしていつも供にいた童子も『私も大和長谷山の山口の神である。これまではお前に仕えて参った。このことは決して人に語ってはならない』と言って天に上っていってしまいました。

 白助の満ち足りた幸福な暮らしが九年間続きました。しかし、白助はいよいよ本当の意味で自立する時を迎えます。彼をずっと支えてきた妻と童子が、自分の本来の姿を明かして去っていくのです。人間が一人の大人へと成熟し自立していくためには、時には愛して止まない存在との決別を果たす必要があります。おそらく、未熟な彼の欠点を補っていた女性と童子が、白助がもう十分に成熟したのを見届けて去っていくのでしょう。

 

 旅から還って

       

             

 夢さめて下向しけるほどに、初瀬の里、森というところにて、童子一人具したる女に合ぬ。みめことからゆゆしくして、立ち寄るべき様もなし。翁兎角親しみ依って、夢想の様を語る。女則ち汝に従わんと云う。悦んで具足して本国更級郡に下る。

                         

 大意 白助は、夢から覚めて山から下りていくと、初瀬の里の森というところで、童子を一人連れた女と出会いました。その女は姿形がとても美しく、白助としては近づきようもありません。しかし翁は兎にも角にも親しげに近寄って、夢の経緯を語って聞かせました。すると女はただちに『あなたに従いましょう』と言うではありませんか。白助は大喜びで、さっそく女と童子を連れて故郷の信濃国更級郡へ帰りました。

 

 白助の物語は、これまで彼の内面的な修行が中心でありましたが、この辺りから、白助の冒険はむしろ現実の世界との関わりが中心になってまいります。文字通り夢からさめ、現の世界での活躍へと展開していくのです。観世音菩薩はその経典が説くように「現世利益」の願いを叶える仏といわれますが、前章までに描かれたように、現世において利益を得るためには、慈悲心(観音性)の回復や再生が前提とされます。観音経がその全段を通じて「一心にその名を称えれば」とか「彼の観音の力を念ぜば」というのは、救済神としての観音を呼ぶということのみならず、私たち自らのうちに秘められている慈悲心呼び覚ますこと、あるいは傷ついて死に掛っている観音性を蘇生されることも意味しています。内的に仮死状態にあった観音性という精神が、私たちのうちに蘇るとき、今日の医療が提唱する「実存的転換」があり、従来の実存において解決できなかったことが解決したり叶わなかった願いが自ずから叶う。慈悲心(観音性)というのは、実存においてはそれほど重要な働きをなすものといえるのでしょう。

 

 旅の深まり

             

 翁かの説法の詞にしたがって、当山(※奈良の長谷山)に尋ね入るに、寳石いまだ顕はれ給わざる前なれば、堂舎もなく、本尊もいまさず。ただ茫然として山に向かうほどに、中心に當って光を放つところあり。其の在所に卒塔婆を立て、毎月に香花を備えて礼拝し念誦すること三ヵ年。

               

 大意 白助は善光寺如来が姿を変えて顕れた僧の教えにしたがって、奈良の長谷山を尋ね入っていきました。しかしその頃はまだ、ご本尊が出現した宝石も顕れていませんでしたので、当然お堂もなければ本尊もありませんでした。白助はただ呆然とし、山の奥へ奥へと向かっていくと、山の中心あたりに光を放っている場所がありました。白助はその場所を選んで卒塔婆を立て、月毎に香や花を供養し、礼拝し、念じ経を唱えること三ヵ年に及びました。

 

 白助は善光寺如来のお告げを真っすぐに信じて、はるばると奈良の長谷山を訪ねます。しかし、そこにはまだお堂もありません。物語の冒頭にありましたように、白助の旅は奈良の長谷寺が開山される百年も前のことなのです。当然のことながら今日のような立派な伽藍も何もない森閑としたところへやって来てしまい、白助は呆然とし、とりあえず山の奥へ奥へと進んでいきます。しかしその長谷山の奥の中心と思われる地点までやってきてみると、何やら神秘的な光を放っている場所があり、白助はそこで両親菩提のためにお参りをし、それが三年続いたということです。

 

 旅の始まり

                      

 仁王三十五代、舒明天皇の御宇に、当寺(大和長谷寺)の宝石も観音も、いまだ顕れたまわざる前一百年ばかりに、信濃国更級郡姨捨山のほとりに、允恭天皇六代の孫、白介(※白助に同じ)の翁という人おわしき。

                                  

大意 奈良の長谷寺が出来る百年ほど前とことでした、信濃国の更級郡にある姨捨山のそばに、允恭天皇の六代目の子孫にあたる白助(しらすけ)という翁(おきな)がいました。

 

 まず最初に、この『白助物語』がいつごろの話なのかが語られます。それが舒明天皇の時代であり、しかも奈良の長谷寺が出来るより百年も前のことであるとされるのですから、私たちは冒頭から驚かされてしまいます。この七世紀前半という時代についての考証は、専門家に任せるとして、ここでは、この時代が大和国家の未だ黎明の時代であり、したがって信濃国のみならず列島全体が統一王権への動乱の渦中にあったこと、そして仏教という宗教が伝来して間もない頃であったこと、の二つを踏まえておくことが大切です。

 仏教伝来の公式年代にはいくつかの説がありますが、いずれにしても六世紀の中頃であろうと考えられ、非公式にはそれに先立って質量ともに相当のものが流入していたと想像されています。そうした公式・非公式の仏教伝来の動きは信濃国でも活発だったと思われ、善光寺の縁起物語がそれを伝えています。

 

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