住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

白助物語(長谷観音開基伝説を読む)

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 旅の始まり

                      

 仁王三十五代、舒明天皇の御宇に、当寺(大和長谷寺)の宝石も観音も、いまだ顕れたまわざる前一百年ばかりに、信濃国更級郡姨捨山のほとりに、允恭天皇六代の孫、白介(※白助に同じ)の翁という人おわしき。

                                  

大意 奈良の長谷寺が出来る百年ほど前とことでした、信濃国の更級郡にある姨捨山のそばに、允恭天皇の六代目の子孫にあたる白助(しらすけ)という翁(おきな)がいました。

 

 まず最初に、この『白助物語』がいつごろの話なのかが語られます。それが舒明天皇の時代であり、しかも奈良の長谷寺が出来るより百年も前のことであるとされるのですから、私たちは冒頭から驚かされてしまいます。この七世紀前半という時代についての考証は、専門家に任せるとして、ここでは、この時代が大和国家の未だ黎明の時代であり、したがって信濃国のみならず列島全体が統一王権への動乱の渦中にあったこと、そして仏教という宗教が伝来して間もない頃であったこと、の二つを踏まえておくことが大切です。

 仏教伝来の公式年代にはいくつかの説がありますが、いずれにしても六世紀の中頃であろうと考えられ、非公式にはそれに先立って質量ともに相当のものが流入していたと想像されています。そうした公式・非公式の仏教伝来の動きは信濃国でも活発だったと思われ、善光寺の縁起物語がそれを伝えています。

 

 『白助物語』がちょうどその時代のこととして語られることの背景には、編纂者や語り手の何らかの意図や思惑があったのだろうと考えられますが、そればかりでなく、物語を聞いたり読んだりする者の意識が、こうした冒頭の一節によって日常性を離れ、遥か遠い世界へといざなわれていくことが重要であると考えられます。

 

 『長谷寺験記(以下『験記』)』の特色は、説話にしては時代や地名などが具体的であることとされていますが、具体的な語り口によって宗教的な事実を示されるとき、私たちはただ単に観念的に物語世界を考えるのではなく、肉感的に、この身をもってその説話世界に参入していけるのだと思います。物語というものが、口承によって人々の生の在り方に大きな影響を及ぼしていた往古においては、そのようにして肉体的な感じ方や見方というものが、人々の標準的な態度であったと考えるべきなのかも知れません。それによって、初めて物語が私たちの精神の内奥に響くものとなっていくのではないでしょうか。私たちも、これよりは思い切って『白助物語』の世界へ飛び込んでいってみたいと思います。

      

             

 (※白助の)祖父、朝家(※皇室・大君)に不忠のことあって、彼の国に移されて後、彼の国の土民となり、貧人にてぞおわしける。幼少のとき父母に別れ、生長の後、孝行をつくす。雙親の菩提の為に、みづから薪を取って、千日の湯をわかし、毎日一本の卒塔婆を造る。すでに千日の湯、千本の卒塔婆、思いのごとく成就す。

                       

大意 白助のお祖父さんが仕えていた偉い方の身に良くないことが起こり、一族は信濃の国に移り住み、貧しい暮らしをしていました。白助は幼くして両親と死に別れてしまいましたが、成長して二親の菩提を弔うために、自ら薪を拾い集めて千日の湯を沸かし、千本の卒塔婆を造る願いを立て、いまやそれを実現しました。

 

 この一節から白助という人物が、一家共々都からやって来たということ。わけ有りらしいこと、貧乏であったこと、また、とても信心深く、両親思いであったこと、などが推測されるでしょう。

 

 日本の昔話には貴種流離譚というパターンがあります。それは主人公が都の高貴な血筋を引くものであり、秘められた事情で僻地(へきち)に流されているというもので、日本人に伝統的に好まれるパターンのようです。ここを読むと、白助の物語もそのパターンを踏襲しているように考えられますが、日本という国家の曙の時代のことですから、各地に中央での覇権争いに破れて流された人々は存在していたでしょう。あるいは白助の一族も実際に朝廷と深い関わりがあったのかも知れません。

 

 また、文中の「不忠のこと」は何やら暗示的で思わせ振りな言葉ですが、善光寺の開山伝説を振り返るまでもなく、当時の更級地域一帯には国家的な動乱にかかわって流されてきた人々が存在していたと考えられ、白助もまたそう表現することが妥当な一族の一人であったと考えることも可能です。

 

 ところで白助が生きていたのは、奈良の長谷寺の開山の百年前ということですから、今から約一四〇〇年ほど前のことになります。その頃は聖徳太子の時代ですが、当時の大事変といえば、何といっても太子の死(六二二年)とその上宮王家の滅亡、そして大化の改新(六四五年)です。梅原猛氏は善光寺の創建には、太子に関わる人々の影響があるのではないかと述べています。

 

 この聖徳太子の死から始まる大規模な争乱は、私たちの想像を遥かに超える深さで当時の人々の精神に刻印されたと考えらます。近畿一円の寺々には、太子ばかりでなく、壬申の乱など当時の戦によって非業の死を遂げた人々の魂が祀られています。これらの寺々はそんな非業の魂を畏れ、その魂の鎮めのために建てられたものが多く見られ、当時の騒乱の激しさと、その騒乱が人々の精神に与えた衝撃の深さが思い知られます。こうした大きな動乱に関わるとされる地には、十一面観音が祀られている場合が多く見られます。私達の信濃長谷寺の本尊も十一面観音ですが、この仏さまは古来日本人にもっとも信仰され親しまれ愛されてきた仏さまでありながら、謎多き伝説を各地に残す仏さまでもあります。それらの謎について考えていくと、仏教というものを私たちの国の文化がどんなふうに受容したかを理解していくことにつながっていきます。

 

 仏教が日本に伝来した当時は、古事記や日本書紀に描かれる神々の葛藤と闘争の時代であり、その葛藤や闘争の果てに滅亡していった神々が数多くありました。そんな葛藤や闘争の果てに非業の死を遂げた神々があったということは、当然のことながらその神々を崇めていた一族が滅亡していったということを示しています。つまり、葛藤と闘争の時代の次には、そんな滅亡した一族の鎮魂の時代があったと思われます。そして、まさにそんな鎮魂の時代に仏教は我が国に伝えられて来るのです。人々は、非業の魂の鎮めを祈るに当たって、その魂や神を露骨に祀ることは政治的な配慮から避けねばなりませんでした。そこでタイミングよく伝来してきた新来のカミである観音に、滅亡した一族の魂や神を仮託して祀ったのではないかと考えられるのです。

 

 仏教受容とは、そのようにしてその最初期には、歴史から政略的に消されていった神々、すなわち覇権闘争において敗れ去っていった一族が、名前を変えて祀られるという形をとって推進されたのではないでしょうか。ですから、当時の人々が十一面観世音に祈りを捧げる行為の裏には、その観音によって鎮められている「消されたカミ」に向かって祈るという意味がこめられていたと思われるのです。日本の各地に残る古い十一面観音の霊場は、共に祀られているカミの歴史を注意深くたどっていくと、やがて悲憤の魂の痕跡をかすかに見届けることが出来るでしょう。

 

 『白助物語』は、読み進めていくと分かるように、十一面観音の霊験による主人公の魂の死と再生ということが大きなテーマとなっています。この死と再生というテーマは、神々の闘争の時代の人々の関心と一致するものであり、癒されぬ悲憤の魂が鎮められ癒されることを願って仏教を受容していった古代人の思いを反映しているのではないかと考えられます。

 

 日本の仏教のその後の歴史や展開を考えてみても、仏教は常に痛ましい死を遂げた魂をいかに癒すかということを主題としてきたように思われます。その主題は、仏教本来のものではなかったかも知れませんが、私たち日本人にとっては重大な問題であり、普遍的な思想を有する仏教に対して日本人が期待したのもまさにその点ではなかったでしょうか。そして『白助物語』を読み直していく上でも常に立ち返ってみるべき問題なのです。

       

             

 これを供養せんとするに導師も布施もなし。思いのあまり善光寺に参ってこのことを祈るに、七日に満する早朝に、忽然として一人の僧現に来たり。請わざるに云う。汝の孝養の志もっとも深し。我行って汝が願いを果たさんと云う。翁悦んで更級郡に共に行って、この僧を導師となし、宿願を果たす。        

  

大意 両親の菩提を供養したいが、僧も知らないし布施をやりたくても貧乏でそれも叶いません。そこで白助は善光寺にお参りし、必死に祈願しました。すると七日目の朝になって、突然一人の僧が現れ、頼みもしないのに云います。『お前の親を思う気持ちは実に深い。私が行ってお前の願いを叶えよう』。白助翁は大いに悦び、僧を更級の家に招き、供養の導師として年来の悲願であった両親の供養を果たしました。

 

 善光寺が出てきました。白助は善光寺に篭もり祈り続け、七日目の朝になってそこに一人の僧が突然現れる。ここから白助の人生が大きく動き始めます。

 

 白助は、貧窮孤独です。「導師も布施もなし」という表現には、宗教的な導き手のない苦しみ、経済的な力のない苦しみが見て取れます。つまり自分の願いを実現する上で、精神的にも物理的にも手段が奪われています。白助はこの時「思いのあまり善光寺に参って」祈ります。千日に及ぶ祈りの時を経過してもなお満たされない、果たせない思いがある。手段のない自分に力を与えて欲しいと、溢れ出た思いが目指したのが善光寺でした。

 

この時、千日に及ぶ祈りを経てなお残る痛み苦しみとは何だったのでしょうか。それは本質的な苦の認識ではなかったかと想像します。「導師も布施もなし」という、精神的にも物理的にも不安なあり様というのは白助に限ったことではなく、私たち人間存在の有様を示しているのではないでしょうか。私たちは常に「こう在りたいのにそう在れない」存在として、自己矛盾に苛まれる存在なのです。その自己矛盾を仏教では「苦」と称しますが、千日の祈りを経た白助は、個人的な苦しみや悲しみの底に、あてどない祈りではどうしようもない人間存在の「苦」を見たのではないかと思うのです。そこでその本質的な解決を求め、善光寺を目指したのでしょう。

 

善光寺は「三国伝来」というように、ローカルな価値観を越えた普遍性を有する寺です。より本源的な救済を求める人間が集まる寺といっても良いでしょう。白助が、善光寺にいったという事実が、白助が直面したテーマの普遍性を表していると思います。つまり善光寺が出てくることによって、白助が普遍的な宗教的テーマを抱えた人物であることが示されているのです。

 

 この祈りの中で、白助の前には、一人の得体の知れぬ僧が現われるのです。僧は白助の想いの深さに応えて彼の願いを叶えてやります。しかし、その悲願の実現、つまり両親の供養の法事を行なうことだけが、白助にとって本当の意味での悲願の実現ではありません。白助の自己統合への旅、自己実現への旅は、まさにここから始まっていくのです。善光寺で白助の前に忽然と現われた僧には、それが分かっているのです。

 

      

             

 其説法の詞に、教て云く、汝が所願成せんと思は、我朝大和國長谷寺と云う所は、功徳成就の地、生身の十一面観自在菩薩在す。衆生を利する砌なり。毎月彼の山に参詣して、自身の現當二親の菩提を祈るべしと云う。

                                  

大意 其の僧がお説教の中でこう言いました。「お前の願うところを叶えたいなら私の言う通りにしなさい。日本の大和の国(現在の奈良県)の長谷寺という土地は心願成就の地である。なぜなら、そこには生身の十一面観世音菩薩がいらっしゃり、いつも人々にご利益をもたらしておるのだ。お前も毎月その山に参詣し、自分自身の現世と来世の幸福と、両親の菩提を祈願すると善いだろう」と。

 

 法要の後で僧は白助に向かって「奈良の長谷という所にいってお参りすればお前の願いはみな叶うだろう」と告げます。しかし、これは考えてみると奇妙な話です。第一に、白助は前段で「宿願を果た」したのですから、このうえ「汝が所願成せんと思」う必要はないはずなのです。ところが、先に述べたように、白助の本当の願いは、両親の供養の法事をすれば済むようなものではないのです。白助は、深い悲しみと千日の祈りを経て、より深い宗教的なテーマに目覚めているのです。そして、この得体の知れぬ僧には、白助の「所願」の本質が分かっていたに違いありません。

 

そこでこの僧は白助に向かって「長谷に行け」と告げる。善光寺で現われた僧なら「奈良の長谷にお参りしなさい」と言わずに、「今後も善光寺に参拝しなさい」と言えばよさそうなものですが「奈良へ行け」という。不思議ですが、白助という人間の宗教的テーマは、善光寺ではなくならの長谷という土地、またはそこにいる十一面観音によってこそ、解決されるべきものであることを予感させています。このことは、後に考えるように、長谷信仰というものの本質を知る手がかりともなりますし、逆にいえば、ここでは触れませんが、善光寺というものの信仰についても考える手がかりとなるでしょう。

 

      

 説法の後、施主の翁が請に依て、件の僧千日の湯屋に入って沐浴す。則ち浴室に異香薫じにおいければ、翁あやしみて窓の間より僧をみるに、金色の阿弥陀如来まします。随喜のあまりに、内へ入って礼せんとするにましまさず。ただ異香のみ留て、多年を経て湯屋破れて後、浴室の板七枚を新長谷寺のお堂に納む。異香薫じて今に有り。末代眼前の不思議。是れ善光寺の如来化けて、長谷山は観音往古の霊地たることを顕したまえるなり。

                  

大意 法話の後、翁がお勧めしたので、僧は翁が供養のために千日の間沸かしてあった湯で沐浴しました。するとたちまち浴槽からこの世ならぬ香がしてきたので、白助は不思議に思い窓から覗き込むと、なんとそこには金色に光り輝く阿弥陀如来がいらっしゃるではありませんか。翁は大いに喜んで浴室に入って礼拝しようとしましたが、入ってみるともう如来は消え、ただこの世ならぬ香だけが残っているのです。その後長い年が経って浴室は壊れてしまいましたが、建物の板が七枚残され新長谷寺(※当山)の観音堂に納めてあります。それは今なおこの世ならぬ香がし、この板こそは如来の不思議の証拠なのです。この話は善光寺如来が、奈良長谷山が今も昔も観音の霊地であると世に知らせるために現われたことを伝えているのでしょう。

 

 さて、善光寺で白助の前に現われた見知らぬ僧は、何と善光寺如来(阿弥陀如来)さまだったのです。如来自らが人間の僧に化けて現われて、白助を助け、奈良の長谷にいくことを勧める。この如来顕現の奇跡譚は、白助の千日に及ぶ真実の祈りに対して、当然あらわれた功徳と見ることが出来ます。

 

 また、この『霊験記』の編纂者が、奈良の長谷寺の霊験の有り難さや、宗教的な正当性を根拠づけるために、善光寺の権威を借りたと言うこともできるでしょう。全国に善光寺由来の物語を伝える寺院がありますが、そこに現れる善光寺は、個々の寺々の宗教性を保証する「宗教的権威」として登場しています。いい加減な目的で建てられた寺ではないことを示すために、または真に宗教的な意義のある寺院であることを保証するために、普遍的な存在の裏づけが必要なのです。善光寺とは正しくそのような存在なのです。

 

 筆者はこの物語は白助の心身の旅、魂の遍歴として読むべきものであり、この説話に込められているテーマもまた、人間の精神の成熟への物語と読むのが妥当な読み方であると思います。「三国伝来」という普遍的宗教性を象徴する存在としての善光寺の登場は、白すけの旅が、普遍的な意味を持つものであることを強調するものといえるでしょう。

 

 さて、その一方で、『霊験記』の編纂者とされる奈良長谷観音の勧進聖たちの存在についても検討しなくてはなりません。かつて日本中を闊歩(かっぽ)し、私たちの精神文化の基層を作り上げてきた人々の中に、高野聖(こうやひじり)と代表とする勧進僧がいました。高野聖は高野山の弘法大師信仰を広め、またその経営を支える活動を専らにして全国を巡り歩いた僧たちでしたが、他の有力な霊場にも同様な活動を展開する僧たちがあり、大和の長谷観音にも「長谷観音聖」と称された人々がいて長谷観音信仰を全国に拡大し、その伽藍護持のための経済活動を展開し活躍していました。

 

 そこで注目すべきことは、刈萱物語で知られるように高野聖と善光寺聖が相互に交流していたのと同じく、善光寺聖という僧たちと長谷観音聖が相互に交流していたことが考えられています。おそらく、双方の寺院に属して活動していた聖がいたのでしょう。筆者は、白助物語におけるこのエピソードに、大和長谷観音と信濃善光寺とが勧進聖たちを媒介として結ばれた接点があると想像しています。本来この両者の地理的な距離を考えると、両者を結ぶ接点はなかなか見つからないのですが、今述べたような長谷観音聖たちと信濃の善光寺の勧進聖との間に密接な交流があったとするならば、両者の地理的な距離を埋めるに十分な関係があると考えていいでしょう。おそらく『験記』に記載されている『白助物語』の舞台が信濃の更級であるということや、白助に助言を与えている謎の善光寺僧(実は阿弥陀如来)の先の霊告「奈良の長谷に行け」という言葉を支えている背景には、両者の勧進聖たちの活動があったと思われます。そして、筆者はかつてこの二大霊場を結んでいた信仰の形が存在していたのではないかと考えてみたいのです。すなわちこの善光寺如来の霊告こそは、善光寺如来と長谷観音菩薩の間を往還する巡礼があったことを暗示する言葉ではないか、と。

 

 そのような考えを支持するものとして筆者が注目したいのは、この二大霊場の信仰を支える共通点として、両霊場の本尊がともに「生身」であるという信仰があるということです。「生身」の観音菩薩と「生身」の阿弥陀如来の霊地を往き来した白助によって開かれた信濃の長谷観音が、後に出てきますように人肌の温もりを失わない観音として信仰されていることは興味深いことではないでしょうか。「生身の如来」と「生身の菩薩」の霊験がクロスする場に祀られたのが「人肌観音」なのです。

 

 さらにまた、密教的の教理的な点からしてみても、観音菩薩と阿弥陀如来は「因(修行)」と「果(悟り)」の関係にあるということも考えに入れておくべきことでしょう。

 

 白助の旅は、こうして善光寺と奈良の長谷寺という日本の仏教信仰史上でも屈指の霊場を行き来しながら、信濃国長谷寺開創へと向けて続いていくのです。物語ではその旅の実際の模様は語られないのですが、白助にとって信濃国からはるばると奈良の長谷まで旅をすることは、その移動すること自体に極めて重要な意味があったはずです。

 

 大昔の人にとって、住み慣れた土地を離れて移動するということは、命懸けの行為でした。もし遠く旅すれば、その人は社会的に実際に死んだ者として扱われたことでしょう。後の巡礼装束であるあの白い旅姿は、まさしく死装束でありますから、遠出するということが、往古の人々にとってどんな意味を持つものであったかを私たちに教えています。

 

 白助も大変な決意でこの旅に趣いたことでしょう。命懸けの行為は、よほどの理由がなければ実行できません。自分の生命と引き替えにしても為さねばならない旅だったのでしょう。彼はこの旅である意味で死を経験するのだと思われます。その仮死の旅から生還できるかどうか。白助は、ただ純粋に善光寺如来のお告げだけを信じて旅立っていくのです。

 

 

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