住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

白助物語(長谷観音開基伝説を読む) その4

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旅の終わり
             
 その後九ヵ年を経て、くたんの本尊の左手忽然として失せぬ。時天くもり山幽にして、翁が家を巻き覆い、夜中に及んで件の女房の云う。我は是れ長谷寺の地主瀧蔵権現なり。大聖の御使に此の所に来れり。然るに此本尊の御手失せ給ふ事並びに我が怪異也。汝が所願すてに成就す。我れ本山に帰って、常に此の山に影向し、この伽藍を守り奉んと思ひ、日頃汝と夫婦なりと。人に語るべ可らす。但し、後の形見の為、来世衆生のため、我が一手を留と云て空に上り、霞に入ってうせたまいぬ。則ち亦具する所の童、我は是れ長谷の山口の神なり。日頃汝に仕と。人に語るべ可らずと云って同じく天に上る。               
                            
大意 白助が代官となって寺を建てて九年が過ぎたある日、白助が造った本尊の左手が突然なくなってしまいました。その時、空はにわかに曇り、山は怪しい気配に包まれ、白助の屋敷はすっかり雲に覆われてしまいました。夜になって妻がこう言いました。『私は実は奈良の長谷寺の土地の神である瀧蔵権現なのです。大聖観世音の使いとしてここにやってきていたのです。先に本尊の左手を消したのも私が示したことでした。あなたの願いはもはや叶っています。私は大和の長谷山に帰ってからも、常にこちらの山にも守護の光を向けるでしょう。これまではこちらの伽藍を守ろうとお前と夫婦の姿を取ってきたのですが、このことは人に語ってはなりません。ただし私の形見として、また後の世の人々のために、私の手を留め残していきます』。そう言い残し、妻であった瀧蔵権現は天に上り霞に消えてしまわれました。そしていつも供にいた童子も『私も大和長谷山の山口の神である。これまではお前に仕えて参った。このことは決して人に語ってはならない』と言って天に上っていってしまいました。

 白助の満ち足りた幸福な暮らしが九年間続きました。しかし、白助はいよいよ本当の意味で自立する時を迎えます。彼をずっと支えてきた妻と童子が、自分の本来の姿を明かして去っていくのです。人間が一人の大人へと成熟し自立していくためには、時には愛して止まない存在との決別を果たす必要があります。おそらく、未熟な彼の欠点を補っていた女性と童子が、白助がもう十分に成熟したのを見届けて去っていくのでしょう。

 

 密教においては、修行者が大いなる悟りを成就する際に、その修行と成就をサポートする神がイメージされます。そのイメージが、一つには異性の姿をとり、また一つには童子の姿をとって現われます。女性の場合はダーキニーといわれ、童子の場合は不動使者(お不動さま)です。このことは大いなる悟りというものが、男性的な働き(智慧)と女性的な働き(慈悲)の一致においてなされることを示すのです。そしてその際、童子のとらわれの無い精神がとても重要なものになってきます。


 私たちの人間の精神は、一人の中にある多様な性質をそれぞれに尊重し、それらのバランスが上手に果たされていくことが大切です。そうした多様多層の精神の働きが、見事に調和してダイナミックに活動を開始するのが悟りの心といえるでしょう。こうした「大いなる悟り」まで至れなくても、私たち一般の人間の精神もまた多様な働きが適度に調和されることが望まれます。男性の中の女性性も大切ですし、女性の中の男性性も大切です。あるいは少年性や少女性というものも大切であるに違いありません。それらのバランスが崩れるとき私たちの精神は苦しみに苛まれていきます。


 白助が女性的な支えと少年の支えを必要としたのは、白助の中の女性性と少年性の欠落、欠損を示していると思われます。つまり白助にとってこのふたつの欠落や欠損が内的に克服されないかぎり、精神的な苦難からの脱却はもとより社会的にも自立を果たせなかったのだと思われます。物語に従えば、両親を早くに亡くしてしまった彼が、母親の慈愛に触れるチャンスに不遇だったり、早くから大人として振る舞うことを求められた結果、少年期に育むべき心を育めなかったからではないかと思われます。そこで白助は、傷ついた魂の回復のために、また人間として成熟するために、女性と童子のサポートを必要としていたのです。これは密教的な修行のプロセスと似ています。偉大な理想(本尊=観世音との合一=自己実現)を成就するためには、先に述べたように手助けする神さまや伴侶や友が必要なのです。やがて、女性的な性質と少年のような性質が、白助の中で見事に調和されたとき、もう手助けはいらなくなったわけです。


 宗教学者の中沢新一氏は、物語というものは、その主人公が何事か本来備わっていたはずの大切なものを喪失してしまっているという状態で始まることを指摘しています。その本来あるべきはずのものが欠落しているために、主人公はそれを求めて旅に出るのです。 白助も幼少時に両親を失っています。その欠落(両親の愛の欠落)のために、本来備わっていたはずのものが幼少時から奪われていました。その失われた何か大切なものを求めて、白助の旅は開始されたのではなかったでしょうか。


 そして、今や白助はその欠落を補ったといえるところまで成長し、人間として自立したのです。したがって白助は、自己の成長の物語を今やしっかりと完結すべき時を迎えているのです。ですから、これまでの欠落を仮に補っていた要素とはもう別れなくてはならないのです。そうしなければ、白助は新たなる人生の物語に向けて旅立つことができないでしょう。


 このような白助の別れと同じような別れは、私たちの精神においても、思春期や人生の節目の時にしばしば経験されていることであると思われます。しかし、そうした別れがしっかりと果たされていない場合、私たちの心はバランスを崩してしまうのです。


 この思春期や人生の節目という時機とは、私たちの精神の世界で何かが死んで再生しようとしている時機であるということが出来るでしょう。そうした時に、私たちの心の内では、それまで依存していたものとの決別が起こります。その別れは、むしろその依存していた相手の個性(働き)が私たちの精神の一部として生き始めた、内面化されたことを意味しているとも言えるでしょう。


 中沢新一さんが指摘した、物語の発生条件としての「欠落」は、当初は他者のサポート(妻と童子・実は神さま)によって補われていますが、やがてその「欠落」が、自分自身の内部の成熟にともなって補われた時、つまり内面化された時、サポーターはその使命を終えて去っていくのです。私たちが親離れする時、あるいは子離れする時にも同様な精神のドラマが起こっているのを思い起してみてください。また、死によって大切な人間を亡くした際にも、私たちは「喪」という期間を通して、より複雑で激しくはあるものの、同様な精神のドラマを心の深い場所で体験しているといえるのではないでしょうか。「喪」のプロセスというのは、実存的な転換へのプロセスということもできると思います。今まで生きてそこにいた人がこの世からいなくなるということは、この私という実存を織り成していた糸が一本抜け落ちて、新しい織物として編みなおされなくてはならないからです。この再編集とも言うべき過程が、葬から喪へと続いていく供養とプロセスであると思います。


 白助の旅も、両親の不在(死)によって引き起こされていた白助の内部における欠落を、巡礼と修行、さらには観音の救いの方便(妻と童子)の支えを得ての生活という喪によって、内面化していく物語なのです。その喪のドラマが完結し、白助が欠落の痛みから立ち直りを果たそうとする今、白助が人生の新しいステージへと進む上で必要な別れがやってきたのです。決別の悲痛はともなうものの、それは白助が自立する上で避けられない別れなのです。私たちが生きていく上でも、別れたくないが別れなくてはならない時というものが確かにあるのです。


 白助の物語におけるこの別れの場面には、白助の信仰のあり方の変化、深化が描かれているのですが、これに続く場面が印象深いエピソードでそれを表現しています。

      
             
 其の夜、かの女房日頃持ちたりける手箱、異香薫じて室に満つ。恠んて蓋を開けて見れば、中に件の女房の左の手あり。七日を経て後、肉色変て金色と成る。この手を本尊の御手に合て、都へて違わず。今にこの仏の左の御手温かなり。是れ併當寺の観音の御恵も、此の山の諸神の御方便にて、彼新長谷寺を建立し人を度せんか為なる者か。今に威験新にして、貴賎の帰依を成す。     
    
 大意 その夜になって、天に去った妻が常日頃大切にしていた手箱からこの世ならぬ香が漂って白助のいた部屋を満たしました。白助は不思議に思い蓋を開けて中を見てみると、そこには妻の左の腕が残されていました。それから七日後、箱のなかの腕は肌の色が変わって金色に輝きだしました。そこで白助がその腕を本尊の失われた左手の部分につなぐとピッタリと合いました。今日もなおこの観世音の御手は温かであります。これらはみな奈良長谷山の観世音の御恵みであり、長谷山の神々の御働きによって信濃の長谷寺を建立したのも人々を救おうというためであろう。この信濃の長谷寺は今日も霊験あらたかにして、人々の信仰を集めているのです。

 ここで興味を引かれるのは何といっても天に去った妻すなわち瀧蔵権現の腕を観音の失われた腕に付けることでしょう。この「観音に神の腕が付く」というきわめて印象的な場面は、神仏習合というものの本質を見事に活写している場面だと思われます。どんなに素晴らしい教えや思想を持っていても、それが外来の神様であるかぎり、観音さまも日本にやってきたら日本人に相応しい布教方法を身につけなくてはなりません。]


 仏教が日本にやってきた当初は、やはり排仏か崇仏で国中が大きく揺れました。しかし、次第に仏教は私たちの暮らしや文化の中に溶け込んでいきました。それを可能にしたのが、この神仏習合という仏教の日本的な展開でした。つまり日本人向けの布教方法を仏教は獲得したわけです。あるいは、日本人にふさわしい仏教の受容の道を日本人が見出したというべきかもしれません。


 日本人の魂の中には、やはり仏教渡来以前から培われてきている核の部分があり、それらが目に見えない形で私たちの暮らしぶりや精神の基層を成していると思われます。神仏習合とは、そうした私たちの魂や文化の基層を破壊せず、仏教の持っている世界観や思想に至ろうとするものだと思われます。そしてその世界観や思想を自らの生の技術、すなわち生き方や暮らし方として身につけようとした試みだと思われます。


 日本古来の土着の宗教性は、極めて豊潤で自在なものですが、それを表現するための言語や思想的な体系や実践方法を日本人は開発しようとはしませんでした。そこで、おそらくかつての日本人は、神仏習合という文化人類学上稀に見るウルトラCを決めて、仏教の世界観や思想を獲得することを望んだのでしょう。それは大陸文化との接触による衝撃であったと思います。次第に押し寄せてくる大陸からの文化が、世界との関わり方を積極的に言語化すること、表現することを日本人(日本文化)に要請したからであると想像されます。ここに描かれている観音に神さまの手が付いた場面には、日本人がこの外来の神を安心して信仰することが出来るようになったことが示されているばかりか、仏教という宗教観、世界観、哲学を「手段」や「手がかり」として、日本人が自分たちの精神世界の理解や探求を開始したことをも示しているのだと思われます。この時以来「人肌の温もりを持つ」といわれるのも印象的で、冷たい思想に過ぎなかった仏法が、温かい血の通ったものになったのです。


 また同時にこのことは、女性の具体的な支え無しにはいられなかった白助の心が、内的外的な修行と経験によって成長し自立できたことを示していると考えられます。つまり白助は、観音菩薩というより抽象的な理想の存在の中に、女性的な慈しみ(女性の手)を見いだしていくことが出来るようになったのです。これまでは、妻と童子(カミ・観世音の方便)に依存しなくては生きていく力がなかったものが、その存在が示す働きを自己のうちに備え育み内面化することによって、自立して生きる力を持ったのです。それは、白助の観世音との一体化ということを示しているといえるでしょう。白助は観音菩薩への信仰心を高めていく中に、観世音との強い一体感を獲得し、それによって女性性や少年性という自分の欠落も補ったのです。観音性の回復、慈悲心の覚醒が内的にいよいよ深化して、彼の欠落であった女性性や少年性(妻と童子)が充填されたのです。


 しかし、信仰心が高まったら妻や子と別れてしまうようでは、そんな信仰心はおかしいのではないか。そのように考えることも出来ますが、むしろおかしいのは、自分自身の欠落の代用や埋合わせとして女性と結婚し、いつまでも相手に依存し甘え続けることなのです。そのような結婚生活というのは、一方が安定していたとしても、その安定は他方の苦しみの上に成立するものであり、善い人間関係とは言えません。このような考えからこの部分を読み直すと、白助の許から去った「妻」とは代用や埋合わせとして演ずることを強いられていた「役割」であると考えることも出来るでしょう。そうすれば、この場面は白助がそのような役割をもはや妻に求めなくなったことを表していると考えられます。つまり筆者は、この時より白助と妻との本当の意味での結婚生活、夫婦生活が始まったのではないかと思うのです。去ったのは、観世音が白助を自立へ導くために妻に当てた役割であり、その白助の「欠落」を補うだけの役割から解放された妻は、それより初めてひとりの人間として、女性として、妻として白助と共に生き始めた。童子についても同様に考えています。


 さらにここで考えられるのは、観音菩薩の女性化ということではないでしょうか。菩薩はそもそも性を超越したものとして活動します。しかし観音菩薩の場合、中国において早くも女性化が行なわれ、さらに日本に来てからはもっぱら女性としてイメージされ、その慈愛の面が強調されました。性を超越しているといっても、インドの骨太い宗教史のひとつの結晶ともいえる観世音菩薩は、極めて論理的でありむしろ男性的な相貌をもってイメージされる菩薩です。しかしその雄々しさは、仏教受容の初期段階の日本文化には、消化しきれなかったのかも知れません。


 そこで神仏習合が必然的な要請として起こってくるのです。山の神である瀧蔵権現は女の神です。その女性性と、インド出身の男性的な神である観音が結合して女性性を前面に出すとき、日本人の前に観音はもっともその威神力を発揮するのではないでしょうか。物語のこの一幕は、思想というものが、いかにして異質な文化間を浸透していくかについても示していると思われます。


 以上のことから、この「観音に神の手がつく」とう印象的な場面は、白助の心の働きや神仏の融合という多くのことを象徴しているのです。この場面は何気なく読んでしまうとたんに異様な話にしか過ぎないようですが、よく噛み締め味わってみると、説話というものが持っている思いがけない表現力の深さに驚かされる部分なのです。


 『長谷寺霊験記』は鎌倉初期の編纂とされていますが、個々の物語はそれに先行する説話集などから選んで書写されたものであるとされています。したがって『白助物語』も、平安時代の末期までには『験記』に記載されている形までに出来上がっていたのだと思われますが、おそらくその原型というべき物語の核の部分は、相当古い時代からこの更級郡にあって伝えられており、そこに長い時間をかけて語り継がれながら肉付けがされたのだと思われます。その過程で、説話として優れたものへと熟していったのだと思われますが、優れた説話とはこのようにして非常に高い象徴力というものを有しており、その高い象徴性によって、読み手や聞き手の心の内部の深い場所にまで働き掛けるのです。


 ですから、こうした物語や説話を読んだり聞いたりすることは、人間の魂の死と再生という「内的な体験」を疑似体験することであり、ことに世界を知り始める幼少年たちがこれを見聞きするのは意味のあることだと思われます。すなわちこれを見聞きすることによって、少年たちは生きるということに伴う悲しみや辛さ、そしてそこから立直っていく際に人間の精神の内部で体験される「内的事実」としてのドラマを、いわば先取りして体験することが出来るのです。もっと分かりやすく言えば、生きていくことに伴う悲しみや辛さ、そしてそこから立直っていく際に人間の精神の内部で体験される「内的事実」としてのドラマを、予習し、トレーニングしておくということといえるかも知れません。


 個々の人生によって悲しみや辛さはまちまちで、その大きさや深さも当然違ってくるのですが、それら悲しみや辛さという当然予想される事態に対して、今日の言葉で言うなら精神的な危機管理体制を幼少時から整備しておくことは大切なことではないでしょうか。 こうした魂の死と再生の物語の反復体験は、人間が孤独や悲しみによって絶望に突き落とされても、なんとか希望をもって快復していくように、私たちの心そのものを、つねに希望と再生に向かっていくものとして構造化してしまうことなのだと思います。そして筆者は、そんなふうにして人間の精神を常に希望に向けて構造化することこそが、宗教というものの目的であり、存在理由であると考えているのです。


 その上で、子供たちに、大人である私たちがなさねばならないことはたくさんありますが、もっとも大切なもののひとつとして、筆者は「死と再生」という内的な体験をするステージを、思春期までに用意することだと考えています。そしてそのステージとは特設のもではなく、優れた説話物語を語って聞かせることがきわめて有効であり、幼少年たちはそれによって心の内部で、いや魂において「死と再生」のドラマを体験していくのだと思います。


 かつては、そうしたステージが習慣や文化として何気ない暮らしの中に用意されていたのですが、今日ではそれらはすでに失われています。ですから、今後は大人である私たちが、意識してそうしたステージの構築に向けた努力を積み重ねていかなくてはならないと思われます。そのステージとは、現代の私たちにふさわしい物語の創造ということではないでしょうか。そんな物語を創造していこうとする取り組みや作業そのものが、私たち自身の魂の再生に向けた物語となるでしょう。

 さていよいよ物語はクライマックスを迎えます。

             
 この翁に五人の子息あり。死去の時分各一万石を與う。其れより人合て五万長者と名つく。凡そ和州長谷寺の本願は、善光寺の如来の告に依って、寳石未だあらわれざる前、この山の利生にあつかる。              

 大意 翁には五人の子供がありました。翁は亡くなるにあたって、それぞれに一万石を与えました。それ以来人はみな白助を五万長者と呼んだといいます。これらはみな、大和の国の長谷観音の本願であり、善光寺如来のお告げによって、(大和長谷寺の本尊が顕れた)寳の石も未だ顕れる遥か昔に、長谷山の恵みを受けた話でありました。

 白助の物語の後半は、あまり白助の内面を想像させる描写がありません。妻との間にもうけた五人の子供たちがいたということが記されるばかりです。しかし領家代として長者になった白助は、社会的に大成功のうちに死を迎えたと考えてよいでしょう。白助は、五人の子供たちそれぞれに一万石の財産を分け与えて死んだとされています。

 観音信仰は、まずは現世利益です。生きている間の暮らしを豊かにしようと願う人の前に観音は顕れます。ですから、観音の信者であった白助は第一に大金持ちになりました、と説かれます。しかし観音さまの利益とはそうした物質的な面だけに止まるものではありません。観音経にも説くように、そうした現世的な利益は、「一心に観音の名を呼ぶ」あるいは「彼の観音の力を念ずる」という実践を通じて、自らの観音性や慈悲心を呼び覚ましていく実存的な転換としてもたらされるものであり、何もせず天から与えられるものではありません。その教えにおいて観音菩薩は生活の豊かさをもたらす利益を方便(手段)として人々を導き、最終的にはその導きがいつしか高い精神的な境地へと通じていくものです。 


 白助が残した五万石という巨万の富や五人の子どもたちとは何か。振り返ってみれば、妻や童子も、白助の心身成熟への物語の中において象徴的に描かれていました。とすれば、五人の子供や五万石という財産も、文字通りの意味とともに物語の締めくくりにふさわしい意味を伝えるものではないでしょうか。すなわち、この富や子孫というのは、白助がその人生の旅を通じて大いなる精神文化を「産み出し」「遺した」と考えることが出来るでしょう。それだけの遺産を彼はこの土地に残した人物だったのだと思われます。

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