住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

戦略局とか戦略的とかって、どうよ

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最近、いろんな場面で使われる「戦略的云々」という言葉。

これって、どうなんでしょう。こういう表現でしか、伝えられないものなのかな?

例えば、私たちの真言宗智山派には教化部という仏教の教えを世に広めるための専門部署がありますが、そこに「仏法布教戦略局」という看板を掲げるとすると、やはりなんか違うぞ、という気がする。

「戦略」という言葉は、英語のStrategyからきているらしいが、この言葉を訳せば戦略というより「方策」という言葉になるべきで、攻撃的、戦闘的ニュアンスは本来含んでいないものだと思われる。

戦略的、と言うと、仮想であれ何であれ、敵対的な存在が想定されている。

 

きちんと調べたわけではないけど、こういう言葉遣いは近年の経済の用語として多用されるようになったものだろう。

経済の国際的な競争が激しくなり、企業、また国家間で、その「生き残り」をかけて闘う。

そのなかで、かつての「兵法」や「戦術」がビジネスや国づくりの中に思想的に、あるいは方法論的に導入されて来ているのだと思う。

勝つか負けるか、生きるか死ぬか、という関係性が、経済だけではなく、国際社会においても前提となり、当然のことながら各国が行う教育もそうなっていく。

 

しかし、世界は、闘争でしかないのだろうか。

 

戦略局って、その名前自体、平和国家に反しないかしら?

軍事的な戦争はしないけれども、経済戦争には進んで参戦し、弱い企業や国をやっつけて経済的に支配するのは問題なし?

消費者も、戦略的に陥落させられるべき対象?

 

ここに南直哉師という禅師の言葉がある。

師のブログから引用させていただきます。

この文章は、6年前のアメリカとイラクの間で起こった戦争に触れ、曹洞宗の青年僧侶向けの本に寄せたものだそうです。

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「反戦」と「非戦」の間

 

 この度の戦争を簡単に言ってしまえば、危険きわまりない武器を隠し持つ疑いがある上に、ひそかに山賊海賊を煽って悪事の限りを尽くさせているらしい、極悪非道の「ならず者」を、自称「自由と民主主義」のチャンピオンが、圧倒的なハイテク暴力で抹殺する、ということだろう。

 すると、この戦争を支持するか否かの議論は、結局「善い戦争」、あるいは少なくとも、「役に立つ戦争」があるのかないのか、という問題をめぐるものとなろう。

 だとすれば、この議論は善悪や有益無益の根拠をめぐって、道徳的・政治的・経済的観点から、甲論乙駁、果てしない論争となるに違いない。この場合、「反戦」とは、論争の一方の当事者となることである。

 もしこのように考えるならば、私が思うに、仏教のとる立場は「反戦」ではない。その立場は「非戦」である。

「非戦」は、何か根拠を挙げて戦争に反対する「反戦」とは違う。それは「戦わない」と決断することである。あるいは「殺さない」と決断することである。ゆえに、論理的に言えば、「反戦」で死刑支持はあり得ても、「非戦」で死刑支持はあり得ない。最も極端に言えば、虫も殺さないのが「非戦」の立場である。

 したがって「不殺生戒」の立場で「反戦」だと言うのは、誤解である。何らかの理由で殺すことが悪いことだから、「不殺生」なのではなく、釈尊が「不殺生」と決めたから、その教えにしたがう者にとって、殺すことが悪いことになったのだ。「戦わない」「殺さない」は、論理の問題ではなく、決断の問題である。それが仏教の立場であり、その決断の責任をとるのが、仏教者の主体性の根拠である。

 である以上、我々は、まず自ら殺さない、戦わないと誓い、その立場をあらゆる機会をとらえ、あらゆる手段を駆使して訴えなければならない。殺さず戦わずにすむように、持てるすべての方法を、戦いの前・中・後を問わず、動員しなければならない。

 そして何よりも、戦争の原因となる格差・差別・対立、すなわち隠れた小さな戦争を除去する行動を、日常から積み上げていかなければならない。

 その主張が社会から嘲笑され、時の権力から攻撃され、教団の存続と僧侶の生活が危険に瀕したとしても、互いに励まし合い、一丸となって非戦の立場を全うする覚悟と努力を持続することーーー我々のとるべき道はこれであろう。

 敢えて言えば、仏教は「平和」を求めるのではない。「非戦」を貫くのだ。

道元禅師いわく、

「人は我を殺すとも我は報を加へじと思ひ定めつれば、用心もせられず盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ならずと云ふことなし」(『正法眼蔵随聞記』)

〈私訳:誰かが自分を殺そうとも、自分は報復を加えないと決めてしまえば、身を護る心配もしなくてすみ、盗賊に襲われる不安もなくなって、時として安らかな気持ちでいられない、ということもない〉

 

 この「安楽」は、現在の我々にとって重く、厳しい。多分「平和」とは、ただの無戦状態の安逸ではなく、「非戦」の緊張の中で創造される過程だろうと、私は考える。(了)

(以上、師のブログより引用)

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戦略的、という言葉は、この世界を「修羅の世」とするものだ。

際限のない戦闘の世界、それが六道輪廻の修羅の世界。

本当に、私たちの願いというのは、この修羅の世界に国民全体で突入していくことなのか?

学校教育も、国際社会の「勝者」となる、兵士としてなされることが望みなのか?

敗者の上に成り立つ勝者の国や社会が、私たちが目指す日本なのか?

それが、21世紀の人々が目指している世界なのか?

 

ちょっと、待て!

まあ、ちっょと座りませんか。

一杯、お茶でも飲んで、一息つきませんか。

 

際限のない戦闘より、銭湯につかってられる世界にしましょうよ。

 

 

 

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コメント(5)

七生 :

反戦・平和と聞いてやって来ました。
"歴史を知らない人間は人間ではない"(フランス哲学者)
はじめまして、七生です。(*'-'*)
参考になれば、幸いです。
※反米じゃないです。
 
『原爆は何故落とされたのか』
日本人よ、何故 "Yes, we can." と言えるのだ!?

「原爆投下が終戦を早めた」という説は、
アメリカが原爆投下を正当化する為に、
今も言い張っているウソ話である。
「日本を降伏させるのに原爆投下は必要なかった」
という事実は、とっくに証明されているのだ。
それこそTBSの特番、
『"ヒロシマ"あの時、原爆投下は止められた』
でもやっていたほどの常識だ。
※(某キャスター氏のコメントは人間理解の浅薄さを証明する情けないものだったが。)
http://matodoga.blog24.fc2.com/blog-entry-195.html

「天皇の地位保全」の条項さえ出せば、
原爆を投下せずとも日本は降伏すると
米国務次官・グルーは何度も主張した。
しかし大統領トルーマンは、
ポツダム宣言の草案から
「天皇の地位保全」を認める条項を
あえて削除した。
トルーマンは原爆を投下するまで
日本を降伏させたくなかったのだ!

○莫大な費用をかけて作った原爆を、
 議会対策の為にも使わなければならなかった。
○ウラン濃縮型と、
 ルトニウム型の2種類の原爆を、
 黄色いサルの住む都市で実験使用して、
 その効果を確かめる必要があった。
○戦後の世界秩序を巡って、
 ソ連のスターリンに
 脅しをかけておく必要があった。

原爆投下は終戦を早める為に
実行されたのではない!
ルーズベルトの急死で、
たまたま大統領になってしまい、
「つぶれた田舎の雑貨屋のおやじ」と言われて
全米国民の溜息を浴びていた
ハリー・トルーマンは、
自分の強さを誇示する為に、
何が何でも虫けら同然の日本人の上に
原爆を落としたかったのだ。
トルーマンは原爆を2個落とし、
目的を達成したら、グルーの案に戻り、
「天皇の地位保全」を日本に伝えた。
結局はトルーマンの計画通りに進んだのだ。
グルーの努力は実を結ばなかった!

『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』
(草思社)の著者、鳥居氏によれば、
ルーズベルトは、日本との戦争が長引けば
中国が内戦になる可能性が高まると考え、
ドイツを降伏させたあと、
一日も早く日本を降伏させるために、
グルーを起用した。
ルーズベルトは「天皇の地位保全」を主張する
グルーに希望を託したのだ。
ところがルーズベルトの急死、
トルーマンの大統領就任によって、
グルーの対日政策は無視される。
日本を降伏させるわけにはいかなかったからだ!
原爆を落とすために!
 
日本が主体の正しい歴史を知るには
小林よしのり『戦争論』全3巻がおすすめです。
 
※ダニエル・エルズバーグ
元国防総省職員・平和運動家(米国)論文↓
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20090821150520891_ja
 
【いわゆる従軍慰安婦について】
☆小林よしのりvs上坂冬子(対談)
http://www.ianfu.net/opinion/vs.html
☆古森義久氏が“従軍”慰安婦問題で米メディアに真っ向から反論
(日本語字幕あり)
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=216887
 
☆--------------------------------------------☆
 
塩野七生『ローマ人への20の質問』より
Q:
憲法改正について、
もしもこの日本人にローマ人が助言を与えるとしたら、
どのように言うでしょうか。
 
A:
一部の日本人が主張するような、
普通の国になるための憲法改正ではなく、
普通の憲法にするための憲法改正を勧めるでしょう。
日本人は、ユダヤ教徒ではない。
日本国憲法は、神が人間に与えたものではありません。
ゆえにそれを死守するのは、自己矛盾以外のなにものでもない。
この自己矛盾から抜け出すのが、まずは先決されるべき課題ですね。
憲法改正には国会議員の三分の二の賛成を必要とし、
さらに国民投票で過半数を得る必要があると定めた第九十六条を、
国会の過半数さえ獲得すれば改正は可、とするように改めるのです。
これにも国会議員の三分の二の賛成と
国民投票での過半数が必要になるのは、もちろんのことです。
しかし、憲法改正条項である第九十六条の改正が成ってはじめて、
ユダヤ教徒でもない日本人が、
神が与えたわけでもない憲法にふれることさえ不可能という、
非論理的な自己矛盾から解放されることになる。
第九条を改めるか否かは、その後で議論さるべき問題と思います。

☆塩野七生が語った「アメリカなき後」の世界 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=2utTsXblu9w
 
~世界が平和でありますように~

jiro.siwaku :

「戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略を語る」

ということにならなければ良いのですが。。。

もっとも,他の命を食らって生きていくのが,
この世の摂理でもあるのですが。。。

<Oasis - Fucking in the Bushes>
http://www.youtube.com/watch?v=lQTuxBwLB50

慈悲の心とは本当に大切だと思います。

jiro.siwaku

長谷寺住職 :

七生さま

コメント有り難うございます。

原爆投下と戦後のアジア「戦略」にむけたアメリカの思惑については、私も関連する本を読んだことがあります。

好むと好まざるとに関わらず、現代の世界的な体制の中に私たちはあって、それは巨大な近代史の流れの一端なのだと思います。

その意味では、私たちは欧米のユダヤ・キリスト教と自然科学を背景とする大きな潮流が形づくってきたシステムに組み込まれていて、それを拒むのは大変なことになるし、明治以降の日本がそれに向けた壮大な挑戦をしたのだと私は理解しています。今日となっては皮肉なことに、中国共産党もまた、欧米発の価値観を押し返そうとする民族運動であったわけですね。

先日書いたように、次の言葉が響きます。

『ヨーロッパ(西洋)から想を得た国家・制度・社会を作り上げて、ヨーロッパに貢ぐことはやめようではないか。もし人類の少しでも前進することを望むなら、もしヨーロッパの表明した人類の水準とは異なった水準に人類を押し上げようと望むなら、そのときは創造せねばならぬ、発見せねばならぬ。ヨーロッパのため、われわれのため、人類のために、同志たちよ、われわれの脱皮が必要だ、新たな思想を発展させ、新たな人間を立ち上がらせようと試みることが必要だ。』(『地に呪われたる者』)

そう考えると、「戦略」という言葉に象徴される、あるいは原爆を落とすという行為に収斂されていく、闘争的なヨーロッパ=アメリカの思考システムと、同じ土俵に上がらない選択肢はないのかと思わずにはいられません。戦争をすることを宿命的な選択肢として備えている国家のあり方とは、まったく違う国というものを作り出す道はないのかと、夢見ずにはいられません。

国家的な暴力を前にすれば圧倒的に非力ではありますが、仏教の、「座」の態度、「観」のスタンス、「不殺生」「非暴力」という実践は、なにかしら、こうした終わりなき闘争世界を組みなおす可能性を持っているのではないかと思われます。

しかしながら、既に持ち越されてきた言語や仕組みを持ってしか、今目の前の現象に立ち向かっていく術はないのですから、日本人をにっちもさっちも行かなくしている足枷が何か、いまこそ真剣に問い直し明らかにしていかなくてはならないと思います。

有り難うございました。とても参考になりました。

今後とも宜しくお願いします。


長谷寺住職 :

jiro.siwakuさま

有り難うございます。

新政権の表向きのトップに立っている人物が繰り出す言葉は、戦略にせよ友愛にせよ、どこか地に足が着いていない借り物のような空疎な響きを感じます。

他の生命を喰らって生きる・・・。

その摂理にすんなりと乗り切れない何かが、人間の慙愧や原罪の感覚として顔を擡げるのでしょう。

しかし、不殺生を説き続けた仏教は、インドでもアフガンでもみな滅んでいます。今、チベットでも、また日本でも、軍事力や経済の前で、瀕死です。

でも、それでも慈悲の力を信じたいし、その働きを求めるのが人間だと思いたいですね。

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