住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

福岡伸一さんのダイエット論

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NHKに生物学の福岡伸一さんが出演していた。

 

と、その前に、私は実は食べるのが早い。

もっとよく噛んだ方が良い、と自分でも思うし、女房にも指弾いや指摘されている。

いただきます、と一緒に食べ始めたら、同席している人が何人いても、概ね最初に食べ終わってしまう。

かつて、本山の修行道場では、こんなことがあった。

私は若いお坊さんたちの生活指導をしていたことがある。

そこにF君という好青年がいて、私の仕事のサポートしてくれていた。

私とF君とで、30人ほどの若い坊さんたちと暮らしていたわけである。

まさに寝食を共にするという毎日だったのだが、ある日、F君がこう言った。

「ひとつだけ、お願いがあるんですが・・・」

「エ、なんだい?」

 

基本的に、仕事のことでは一切不平を言わないF君がこんなことを言うことは珍しい。

「あの実はですね、私のお願いというのは、、、、」

彼が言うには、私の食べるスピードが速すぎるので、少しだけペースダウンして欲しいというのであった。

なぜなら、職務に忠実なF君は、私を補佐する立場上、修行僧たちと食事をする再に必ず私より先に食べ終えることに徹していたというのだ。

僧堂には、小僧はとにかく師僧より何でも早く済ませなくてはならないという暗黙のルールがあった。

お勤めには先に来て座り、食堂には先に行って準備して座り、お迎えして、師より後に箸に手をつけ、先に食べ終わり待機する。そして師が食べ終わるのを待って、一緒に「ごちそうさま」となる。

だから、若僧は、僧堂ではいつも走っている。のんびりしている暇はないのである。

それはともかく、そういうことなので、「もう少しゆっくり食べていただけませんか」と、F君が懇願してきたのは、私の食速(?)が早すぎて、どうしても食べ終えることが出来ないというのである。

私は、彼にそう指摘されるまで、自分がそれほど食べるのが早いと思ったことはなかった。

しかし、確かに、食べ終わってみて静かに周囲を見渡すと、食べ終えているものは誰もいないのである。

F君は、必死の形相で最後のおかずを口に押し込んでお茶で流し込んでいるのであった。

ああ、思わぬところで大事な仲間に迷惑をかけていたのだなあ、と恥じ入ったのであった。

それ以来、あらためて家族の食卓風景を見てみたら、なんと驚くべきことに、時によっては私が食べ終わった時点で、女房が一口も食べていない事態もたびたび発生しているのであった。

 

と、そういう私である。

これは、育ちの過程で、そのような早食いが骨身についてしまったものか、生まれ着いてのものなのか、自分では判然としないが、とにかくパクパクッと食べ終わってしまうのである。

 

と、こういうことについて、分子生物学者の福岡さんが明快に語っていた。

すなわち曰く、かつて、いつ食べものが手にはいるか明日をも知れない時代には、とにかく目の前にある食べ物で腹を満たし、その満たしたものを体内に「貯め込め」と生物的指示を発令していたという。その時代は、食べ物の保存も出来ないから、「残りは貯蔵」というわけにもいかず、とにかく体内に貯めるしかない。したがって、食べ物が悪くなる前に、また誰かに奪われる前に、パクパクッと急いで食べて、そのすべてを少しでも長く体内に溜め込むんだ、という強い生命維持の指令が肉体に発令されていた。

そういうふうにして人間の体は出来ている。

で、今もなお、人間の体はそういうものなのだ。

ところが、余りに急に、食べ物が簡単に手に入る状況になり、かつまた保存も出来るようになった。

人間の体は、こういう事態を想定していないし、また、あんまり急にこうなったので、少しも適応していない。

したがって、我々の肉体は今なお「貯めこめ!」とやっているのである。

どうしても、目の前の食べ物を猛然と食べるのである。

私の食べる速度が人並み外れているのは、異常なことではなく、生き抜こうという原始的な意思の働きである。

明日の食事は保証できない、と、結婚した今も私の遺伝子は、原始のプログラムに忠実に作動しているのだ。

これが、我々が太る最大の原因である。

そこで、こういう肉体の、生存競争の意志に基づく「貯めこめ」太りから脱却するにはどうしたらよいか。

福岡博士曰く。

「ゆっくり食べましょう」

・・・・・

ゆっくりたべるとどうなるか。

そうすると、肉体が、「貯めこめ」という指令を発令しないそうである。

必死に猛スピードで食べると、肉体は「ああ、こりゃ気合入ってるぞ、やっと手に入った食い物だな、明日をも知れないからこの栄養素は一日も長く保持しよう」となるのだが、これに対してゆっくりと食べると、「?この様子だと、どうやら食べ物がたくさんあるらしいな、これなら貯め込まんでよし!」となるのである。

なんと分かりやすい。

さっそくゆっくり食べることにしよう。

この生物学的的なダイエット理論を以前から知っていたら、F君があんなに意を決して私に懇願する必要もなかった。

残念だ。

ところが、肉体にセットされている指令はそう簡単に書き換えられるわけではない。

今夜も、「いただきます」と言うや否や、私の箸は目覚しい動きで食べ物を口に運び、私の口は活発に働いて猛スピードで食べ物を体内に貯蔵した。

女房曰く「やっぱりだめか」。

この画期的な生物学的ダイエット理論は、提唱者の福岡博士によってその矛盾が証明されてしまったのである。

というのは、なんと、20年前にこの理論を発見していた博士であるのに、その後体重は20キロ増加したというのだ。

おいおい、だめじゃん。

 

ところで、ここで宗教について一言。

考えてみたら、つい半世紀前まで、この日本でも、飢饉や飢餓は日常の想定内にあったし、戦争も遠い世界のことではなかった。

つい最近まで(いや、今なお)、飢餓はそこにあった。

平均寿命だって、現代の半分だった。

そういう、生存に関する根源的な不安や恐怖が隣あわせだったのだ、ついこの間まで。

食べっぷりが、飢餓を想定しているように、宗教だって、基本的には今なおそういう時代を生き抜く人々の宗教のままである。というか、飽食の時代の宗教なんて、まだないのだ。

ところが、猛スピードで時代が変化してしまったせいで、我々は、たまたま現在食べ物に困っていないだけのことであるのを忘れて、つまり根源的な危機を視界の遠方に押しやって、衣食足りて延命の時代の価値観から、生存への根源的な不安を抱えていた時代の既成の宗教を批判する。

これは、ちょっと待て、ではないだろうか。

既成の宗教や文化を、今日的な価値観だけで批判するのは、危険なのではないか。

たまたま安定している食の供給を過信してはいけないように、旧来の宗教や文化をたまたま必要としていない現況を永遠のものという思い込みで、旧来の宗教や文化を否定してはまずいのではないか。

そんな気がする。

 

 

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