住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

葬式不要論略縁起

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「葬式いらない」「戒名いらない」という発言の背景にある意識は、家族とか親戚とか地域という血縁や地縁をベースとする帰属意識から、良かれ悪しかれ自由になった人のものなのだろうし、そのような意識に向けて語りかけられている言葉だと思う。

これに対して、従来の葬儀や結婚式というものは、儀式の機能から見ると、血縁や地縁の帰属意識を強化する働きがあったと思う。
地縁や血縁に基づく結束力を維持していなければ、農業をベースにする生活は営めないのだから。
当然、日本の仏教は、こういう地縁と血縁を基礎とする地域社会のものであった以上は、その帰属意識に向けて語られる言語によって発展してきたものだ。

その意味で、従来の地縁・血縁の帰属意識から離脱した都市生活者にとっては、伝統的な葬儀や仏教寺院や僧侶のあり方は、せっかく「自由」を獲得した心身を再度回収しようと迫ってくるものだ。

都市に住み世代を重ねれば、あらたな血縁や地縁に帰属していくこともあるから、中には逆に伝統的なスタイルの葬儀や寺院や僧侶に違和感を感じない人もあるかもしれない。

しかし、都市生活というものは、伝統的な地縁や血縁から離脱した人によるものだから、伝統的なシステムとの幸福な出会いは困難だろう。それらは「自由」を妨げる「悪」に映ることさえあるのではないだろうか。

葬式不要論の発言に目くじらを立てるより、発言のこうした背景に目を向けて、従来の帰属意識とは別の意識を基本にして生活している都市生活者にとってふさわしい葬送の形を模索していくべきではないだろうか。

もっとも、伝統的な価値観に依拠している寺院と言ってはみるものの、僧侶が伝統的な学びや修行を真に実践していないのだから、やっぱしこういうのって説得力ないなあ。

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雨ニモマケズ :

 先日の新聞広告で見たのですが、「最近のベストセラーが表すように、本当に「葬式は要らない」のか? そんなことはありえないと著者は反論する。」などとして、『葬式は必要!』という本も出ているようです。
 小生などは、葬式さえもなくなってしまえば、ますます人間は、「生と死」というものを真剣に、しかも身近に考えることをしなくなってしまうのではないか、また宇宙の摂理(京セラ会長の稲盛和夫氏のベストセラー『生き方』に極めて的確に著されている。我々が宇宙の中で生かされた存在であることを、宗教色を全く排して表現されているが、氏も仏教者で、まさに大日如来信仰に支えられていると思う。)、大自然への畏怖といったものを忘れ、目に見える現実だけが全てという人間万能主義に陥ってしまうのではないか、と危惧するのですが。

雨ニモマケズ様

>葬式さえもなくなってしまえば、ますます人間は、「生と死」というものを真剣に、しかも身近に考えることをしなくなってしまうのではないか

↑本当に同感です。

で、あるからこそ、葬儀というものを、「『生と死』というものを真剣に、しかも身近に考え」るための大切な『場』として現代人の手に取り戻さなくてはならないと思います。

確かに、伝統的な儀式は、葬儀に限らず自分自身の命が様々な人や物事の因と縁によって生起しているものであることに気づきを与えてくれる「場」です。

そういう大切なものはなかなか目には見えないから、「お陰さま」といって、その目には見えない恩に感謝するのですよね。

誰かの死というものは、そのような目には見えない「お陰さま」の一端(一人)が、この世を去るに当たって姿を現す瞬間ともいえます。生前に、その人の存在の『お陰』に感謝を言えなかったことに対して、「悔やみ」を申し上げ、告別する。

自己中心や増長に程よいブレーキを与える文化的な装置として、葬儀というものは極めて有効だと思います。

生と死の気づき、また目には見えない人間関係の気づき、そうしたトータルな世界のあり方に対する気づきをもたらしてくれるかけがえのない場が葬儀であり、それを司る立場の「導師」は、仏式であれ神式であれキリスト教の式であれ、遺族や参列の人々のかなしみが、そのような深い気づきと感謝へと通じていくようにつとめなくてはなりませんね。

そのような意義あるものが、金額的な議論だけで嫌悪されていくような風潮に対して、仏教界は責任を持って対応していかなくてはならないと思います。

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