住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

故郷を、奪われた人の祈り

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上野駅の電車の発車ベルの音について、こんな話を聞いた。

たまにしか東京には行かないが、いつの頃だったか、電車の発着の音が昔ながらのベルから音楽のようなものになった。

初めて聞いたときは、何だかよく分からず不思議な気がした。

そんなふうにして、電車の発車のベル音が変わっていく中で、東北方面の電車の発着音だけは変わっていないという。

あるいは、いわゆる「都市伝説」なのかもしれないが、それは遠く故郷を離れて東京で暮らした東北の人たちのご苦労や望郷の思いに敬意を表すため、昔の音のままにしているというのである。

都会の駅は、ふるさとへと通じるのであるが、この話しが本当なら、JRもやるなぁ、と思うのである。

 

 

上野駅には思い出がある。

私は、小さな子供の頃に、しばしば母の実家のある神奈川県に連れて行かれた。

長野からは特急「あさま」号で上野駅に降りる。すると「ういのぉぉぉぉういのぉぉぉぉ」という、アナウンスが迎えてくれる。そして長野では感じることの出来ない強烈な雑踏の勢いと人々の靴音。ごった返す駅のホームに立つと「都会に着いた」という、なんともいえない胸の高鳴りがあった。その胸に「ういのぉぉぉぉういのぉぉぉぉ」と唸る、独特の駅のアナウンスが響くのだ。

そして、母に手を引かれて上野駅のやけに天井の低い構内を歩いて東海道線へと歩いていくのだが、歩いていくにつれて、「あさま」から降り立ったホームにあった気配が消えて、いわゆるあか抜けたムードに変わっていくのを、子供ながらに確かに感じていた。

 

そんな思い出がある日本は、いい。

ふるさとについて考えていて、そう思う。

都会に住んでいても電車に乗れば遠くても一日あれば余裕でふるさとに帰れる。

事情があって帰れない人であっても、帰ろうと思えば帰れる。

帰ろうと思えば帰れる。

それは<幸福>だ。

(むろん、その<幸福>は、核の傘の中にあるという未曾有のジレンマを棚上げしている)

 

でも、私たちが住んでいる世界には、故郷を奪われている人もある。

故郷を滅ぼされている人もある。

生まれ育った土地はおろか、国ごとなくなってしまうこともあるし、難民の子として生まれ、「故郷」は父や母から聞くばかりの「第二世代」「第三世代」もある。

侵略、内戦、難民、亡命、、、。

近代化は人を故郷から引き剥がし、経済は故郷の姿をかき消し、その果てにある国家と国家はせめぎあって他国を蹂躙する。

 

私はチベットの人たちを思うけれども、そんな悲しい「宿命」の人生を生きている人は多い。

沖縄もまたそうだ。

 

住職として、檀家さんの法事をしていると、その地縁血縁の温もりを大切にしていく祈りがある。

また一方で、僧侶として、故郷を離れた人たちの悲しみに寄り添って、新たな故郷の温もりを求める祈りがある。

しかしまた、故郷を奪われている人の祈りを思う私もある。

 

詩人の故・山尾三省さんの「再定住」ということばを思わずにはいられない。

私たちは、大地という「カミ」を離れて生きていくことは出来ない存在である。

しかし、この百年、私たちはそのことを忘れていた。

故郷に住んでいても、故郷のありがたさを忘れている。

故郷を離れた人も、今生きている大地のありがたさを忘れている。

その大地性の忘却と欠落が、どこかの国が暴力で他国を蹂躙することを追認してしまう素地となっている。

そういう大地から切れ掛かっている私たちに、三省さんは「再定住」というメッセージを晩年に残した。

文字通り、再び地を定める。

そう、今住んでいる場に深く根を下ろし、終の棲家として生きていく覚悟をする。

意識の根を、この百年で大地性から切り剥がされている私たちが、ふたたび、地に回帰する。

この足元に、汲み尽せない宝があることを見つめなおしていく。

 

再定住。再定住。再定住。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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