住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

2015年10月アーカイブ

塩崎城のお話

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大塔(おおとう)物語舞台

      塩崎城のお話

 今から、六〇〇年ほど昔、有名な京都の金閣寺が建てられた頃、ここ塩崎の地で、とても大きな戦がありました。歴史に残る激戦(げきせん)です。これから訪ねる塩崎城跡(白助城)は、その激しい戦があったことを今に伝えるお城として、日本の歴史の中でもよく知られる重要な場所です。

 物語は「大塔物語」というお話に詳しく書き残されました。この物語を頼りに、私達の故郷である平和な塩崎で、昔、そんな戦があったことを、一緒に学びましょう。


一、はじめに~大塔合戦のあらまし~

 今から六〇〇年前の時代は、室町時代と呼ばれています。京都の室町幕府の将軍を中心に、幕府から「守護」がやってきて全国の国々を治めていました。当時、私たちの信濃国は、現在の坂城町で栄えた村上一族を中心に地元の武士たちがとても強く、都からやってくる守護も手を焼いていました。

 そこで、幕府は古くから信濃と関係のある小笠原長秀を差し向けました。ところが、この小笠原長秀は、政治のやり方が下手なうえに、信濃の人々を馬鹿にして威張ってばかりいたので、信濃の武士たちは皆強い反感を抱いていました。とうとう、その勝手気ままな政治を続ける長秀に対して、誇り高い信濃武士たちは反旗をひるがえして立ち上がり戦となったのです。

 この時の戦が、世に「大塔合戦」と呼ばれる激戦で、私たちの故郷塩崎を舞台に繰り広げられました。信濃の武士たちは強く、小笠原長秀は追われてついに塩崎城に逃げ込みます。長秀の部下たちは、みな討ち死にし、残った長秀は知り合いの大井光矩(おおいみつのり)という武士に助けを願いました。大井の仲裁で、長秀はなんとか命だけは救われ、京都へ逃げ帰りました。幕府から来た守護が、地元の武士たちによって追い返される大事件として、日本の歴史の中でも有名な出来事です。

 この「大塔合戦」は、あまりに激しい戦いだったので、たくさんの死者が出ました。そのため多くのお坊さんたちが戦死者を弔、また戦のむなしさから、たくさんの人が出家してお坊さんになりました。

 塩崎城は、このように六〇〇年以上も前に塩崎を舞台繰り広げられた戦いの歴史を今に伝えています。この城は、その後も武田上杉いう有力な武将ちも重視しました。塩崎という土地が、信濃の国の中でとても重要な場所であることが分かります。

 城跡には、古い石垣や砦跡が今もしっかりと残っています。これから、その場所を実際に訪ねて、昔の人たちのこと、故郷の歴史を学びましょう。


二、塩崎城の姿 

 お城は、敵との戦いのため、また領地を守るために築かれました。六〇〇年前のお城は、松本城や姫路城のような立派な天守閣があるものではなく、実際の戦闘の時に「敵には攻めにくく味方には守りやすく」造られた、飾りのない戦いのためだけに築かれたシンプルなものでした。

 シンプルとはいっても、戦いのための工夫がたくさん施されていて、急な山の上に、長い塀のように石を積み上げたり、深い竪掘(たてぼり)を掘ったりして、敵が近づけないようにしました。敵の動きを見はったり攻撃したりするための高い「櫓」も作りました。

 塩崎城は、長谷寺の裏山のとがったところを利用して作られていて、どの方角からも攻めにくい、とても強いお城でした。昔から、こういうお城を「天然の要害」、「難攻不落の城」と呼びます。城跡の上の方に立てば、木々の間に、南は坂城、上田の方まで、北は川中島から、長野、須坂の方まで遠く見渡せます。背後は、篠山がそびえ自然の壁となっています。敵の動きも良く見えたでしょう。また、山の湧水も近くにあり、雨水をためる天水溜も作られていて、長い戦闘になっても戦えるようによく準備されていました。

 大塔合戦では、信濃の武士たちに追われた長秀がここに逃げ込みました。圧倒的に不利だった長秀でしたが死なずに済んだのは、この城が非常によく出来たものであったからでしょう。

 塩崎城跡には、当時の姿がいくつも残っています。それらを実際に見て、想像力を働かせて、昔の戦について考えてみましょう。

 

三、戦場の子供 

 大塔物語には皆さんと同じくらいの子供も登場します。そして、悲しいことに、命を落としてしまいます。

 それはこんなお話です。戦も終盤にさしかかり、兵の数の少ない小笠原軍が信濃武士たちに押され、一部の兵たちが古い大塔の砦に立てこもって何日も過ぎた時でした。もはや食べるものもなくなり、兵馬を殺して食べるほどでした。しかし援軍もなく、負けは明らかでした。

 ある時、負けを覚悟した小笠原の武士たちは、せめて自分たちの長男だけでも助けようと秘かに砦から逃がします。しかし下の弟たちは逃がすことが出来ず、とうとう食べ物も尽きて飢え死にするほかない状態になってしまいます。けれども、誇り高い武士たちは戦場で飢え死になどできないと、武士らしく切腹をしようということになります。この時、十三歳の八郎という名の少年が、故郷に残した母を思って、人目を忍んで泣きながら、故郷の方の空を仰いで歌を詠みました。

 

 世の中に

      さらぬ別れはしげけれど

                 親に先立つ道ぞ悲しき

 

 「世の中には、さけられない別れはたくさんあるけれど、親に先立って死んでいくことほど悲しいことはない」と、先立つ悲しみを歌ったのです。

 こうして砦に立てこもった小笠原軍は、武士はもちろん、行動を共にしていた子供たちまで全滅してしまいました。八郎も父とともに亡くなりました。

 後に、戦が終わると、死んだ夫と息子の八郎の形見が、お坊さんの手によって母のもとに届けられました。母は泣き崩れ、悲しみのあまりそのお坊さんのもとで尼となってしまいました。

 尼となった母は、息子の八郎の供養のためにとはるばると塩崎までやって来ました。そして、こんな歌を詠みました。

 

  あくがれて

      よるべも波の海士小舟

           うき塩崎にかかる身ぞ憂き

 

 ふらふらと波間にさまよう海人の小さな船のような私だけれど、息子が命を落としたこの塩崎に来てみれば、いよいよ悲しみは強くなるばかりだと。

 この後、母は夫と息子のお墓にたどり着き、お墓に向かって、まで夫も息子も生きているかのように語りかけました。いくら話しかけても返事があるはずもなく、ただただ嘆くばかりでした。泣く泣くお墓を後にした母は、善光寺に行くと念仏修行のお坊さんの中に入って死ぬまで夫と息子のお弔いを続けたそうです。

          

 六百年以上も昔、塩崎を舞台に、このように大きな、そして悲しい戦がありました。信濃守護である小笠原氏と、信濃武士たちの戦、「大塔合戦」です。塩崎城は、この悲しい物語を今に伝えています。これからも塩崎のみんなで守り伝えて参りましょう。

チベットに伝わる十一面観音のお話

 

 

ある時、観音菩薩は阿弥陀如来に対して誓いをたてます。

 

 

この世の生きとし生けるものをすべての苦しみから救います。

 

もしも、この誓いが揺らぐようなことがあれば、自分の頭が粉々になっても良いと。

 

 

そう阿弥陀如来さまに誓って精進します。

 

 

ところがある時、自分の目が届いていないところで、さらに多くの者たちが不幸に苦しんでいることを知り、観音菩薩は深く驚き悲しみます。

 

その胸中に一抹の不安がわくや、彼の頭は粉々に砕け散ってしまいました。

 

 

これを見ていた阿弥陀如来さまは、観音さまを憐れみ、もう一度生きとし生けるものの多ために精進する機会を与えるため、その砕けた頭をつなぎ合わせ十一の顔を持つ十一面観音菩薩に生まれ変わらせました。


十一面石仏.jpg

 

 

これは、チベットに伝わるお話としてチベット仏画(タンカ)の絵師である馬場崎研二さんがご著書の『異境』の中で紹介されているものです。

 

長谷寺のご本尊である十一面観音さま。

どうして十一のお顔を持つようになったのかを伝えるお話です。

生きとし生けるものを救いたいという観音菩薩の大きな誓い。

その誓いのありがたさをあらためて感じるお話ですね。

なみだの湖

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なみだの湖

あるところに、ふたりの兄妹がいました。

とてもとてもかなしいことがあって、

ふたりはいつも泣いていました。

泣いているふたりをなぐさめようと、大人たちはお菓子をあげたり、

歌をうたったりしましたが、かなしみがあまりにふかくて、

甘いお菓子も、楽しい歌も、

ふたりの涙をとめることはできませんでした。
      


二人は花をみてはかなしくなり、

空をみてはふたりでふるえ、

星をみては泣くのでした。

いつまでもいつまでも、

このままずっとずっとかなしいのだと思うのです。
      


そうして花は咲いては散り、

空は明けては暮れ、

星は何度もめぐりました。

どれくらいたったでしょう。
      


ふたりは、おばあさんと一緒に、山の湖にいきました。

おばあさんは二人の兄妹に湖のお話をしてくれました。

それはこんなおはなしです。


lake.jpg

   (写真:飯島俊哲)  

 

むかしむかし、泣き虫ぼさつとよばれて、

みんなにばかにされている、

ちいさなぼさつがいました。

何を見ても泣いてばかり。

踏みつぶされる毛虫をみては、

ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼし、

風に散っていく枯れ葉をみては、

ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼし、

何を見てもかなしむ自分に、

ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしていました。

      


泣き虫ぼさつの流した涙は、

いつしか

小さな水たまりになりました。

きれいなきれいな涙の水たまり...。

      


ところが、その水たまりは、

けっしてかわくことはありませんでした。

泣き虫ぼさつの涙が

どんどんこぼれていたから。

かなしみが

どんどん深くなっていったから。

     


何千も、何万も、

星はめぐり、

月は満ち欠け、

日は昇りまた暮れて、

もう、どれほどの涙を流したことでしょう

小さな涙の水たまりは、

とうとう小さな池になりました。
      


泣き虫ぼさつはその涙の池に立って、

泣きながら

遠く見わたしました。

泣きながら、毛虫をみて、小さないのちを見つめました。

泣きながら、枯れ葉をみて、うつろう世界を見つめました。

泣きながら、ひとりぼっちの自分を見つめて、

人間のかなしみに深く耳を澄ましました。

そうして、世界中にかなしみが満ちていると、

心の底から知りました。

ひとりひとり、みんな、

深いかなしみを抱えて生きていると。
     


こうして、

泣き虫ぼさつの小さなかなしみは、

海のように深くて、

空のように広い

大きな大きなかなしみになりました。

      


それからどうしたかって?

さあ、よくおききなさい。

泣き虫ぼさつは、

つよく深く心に誓いました。

すべてのかなしみと、永遠にともにあろうと。
      


そうして、

かなしみあるところにいっては

いっしょに泣き、

くるしみあるところにいっては

いっしょにふるえ、

百千万億ものかなしみやくるしみによりそって、

百千万億粒の涙をこぼしつくしていきました。
      


そうして泣き虫ぼさつは

深く深くお知りになりました。

いっしょにかなしみ、

いっしょにくるしむことが、

ほんとうに人間にとってなにより大切なことだと。

      


この時、泣き虫ぼさつは

とうとう大悲の観音さまになって、

小さかった池は、

こんな大きな湖になりました。

      


さあ、ごらん。

この湖は、けっして涸れることがない。

観音さまが、

私たちといっしょに泣いておられるからなんだよ。

この湖は、

観音さまが本当にいらっしゃるということを教えてくれるんだ。

この湖は、観音さまの涙なのだから。

      


さあ、目を閉じて、しずかに耳を澄ましてごらん。

泣いているあなたたちといっしょに、

観音さまも泣いていらっしゃる。

涙はふかなくてもいい。

こぼすだけこぼしていい。

わたしたちの涙は

観音さまの涙とひとつにとけあって、

この湖にそそがれていくのだから。

つらくかなしいときは、

この湖を思い出すんだよ、いいね。
      


お話がおわると

おばあさんはそっと湖に手を合わせました。

ふたりの兄妹は、

だまったまま

うつくしい湖をいつまでも見つめていました。

湖は、きらきらと輝き、

ふたりの頬をきらきらと涙が伝いました。


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このお話しは、チベットに伝わる民話をもとにしています。

チベットの人々は、昔から観音さまを深く信仰していますので、観音さまの昔話や民話がたくさんあります。このお話しは、そうしたお話をもとに、観音さまの心を語っています。


 観音さまの心は大悲の心と申します。大悲とは、慈悲の「悲」のことです。慈悲とは、「慈」と「悲」からなる仏の心ですが、慈とは「安らぎを与えること」、悲とは「苦しみを抜くこと」です。ですから、慈悲とは『安らぎを与え苦しみを抜く』ことです。この慈悲の「悲」を重んじるのが観音さまであり、観音さまとは私たちの苦しみを抜いてくださる仏さまなのです。


 この「悲」という言葉のもとになっているのは、サンスクリット語のカルナーという言葉です。この言葉にはもともと「うめく」とか「ふるえる」という意味があり、苦しんでいる人と一緒にうめきふるえることを意味しています。つまり観音さまは、苦しんでいる私たちといっしょにうめきふるえていらっしゃるのです。


 では、こしうたカルナー(悲)は観音さまだけの特別な心なのかというと、そうではありません。なぜなら、目の前で泣いている人、苦しんでいる人があれば、私たちはそれを放ってはおけません。思わず手をさしのべ、ともにおそれ、ともにかなしみ、ともに涙するでしょう。このようにカルナーは私たちの誰のうちにも本来的に備わっている人間性のひとつなのです。


 泣き虫ぼさつは、個人的な小さなかなしみに始まり、次第に人間のかなしみの源をたずね、ついに人間に本来そなわるカルナーという心に、苦しみを抜き、他者も自分をも癒し再生させていく神秘的な力があるという真実に目覚め大悲の観音さまになりました。そして、このカルナーという人間性を最大限に讃え、これを永遠なものにせんとし、全世界に広げようと、はるか昔から修行してくださっているのです。


 私たちが、このような観音さまを信仰し、おまつりするということは、観音さまの大悲の力におすがりすることはもちろんですが、カルナーという同悲同苦の人間性を、人生の灯として生きていくことを意味します。


また地域に観音さまをおまつりするのは、苦しみを分かち合うことを、地域における大切な価値観として共同化し、掲げ続けることを意味します。


チベットばかりか、中国でも、朝鮮半島でも、そして私たちの日本でも、観音信仰は盛んでした。このことは、このカルナーという人間性が、人間にとって、社会にとって、いかに重要で不可欠なものであるかについての、私たちの祖先の明らかな(経験的な)確信を示しているといえましょう。


 言うまでもなく、観音さまもカルナーも、過去の精神文化ではありません。この世に人間があるかぎり、かなしみの涙がこぼれる限り、カルナーは発動し、同悲同苦の涙は流れ、観音さまの涙の湖も涸れることはありません。


 この涙の湖のお話は、チベットの山奥にあるという観音さまの涙の湖のお話です。でも、その湖は、チベットの山奥にしかないのでしょうか。きっとそうではありません。簡単にそこに行くことは出来ないかもしれませんが、かなしみと出会い、かなしみを知るとき、私たちはこの涙の湖のほとりに立っているのです。かなしみは喜びではありませんが、かなしみの道のみが、この永遠に涸れることのない観音さまの涙の湖に私たちを導くのです。


 かなしみは辛く苦しいことですが、かなしみを回避するのではなく、そこから逃れようとするのではなく、かなしみ尽くすことで、私たちは生きなおすこと、再生することができるのだと思います。 

(平成二十七年十月)


信州長谷観音の縁起「白助物語」の絵解き用の掛け幅絵が完成しました。

公開時期は未定ですが、来年28年春の御開帳の時には、絵解きとともに参拝の皆さまにご覧いただく予定です。

 

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絵師は、東筑摩郡坂北村の安養寺御住職、山口勝人師。

美しい御本尊のお姿と物語が描かれました。

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秘仏のご本尊十一面観世音菩薩は、「白助物語」にも伝えられるように、瀧ノ蔵権現という女神の腕をもつ、温もりを失わない御尊像として、古来「人肌観音」と呼ばれて信仰をあつめています。


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御開帳記念の寺宝展、仏教絵画(タンカ)展、法話会などを予定しております。

寺宝展では、伝・快慶作の地蔵菩薩像をはじめとする仏像や仏画、また日頃あまりご覧いただけない珍しい絵図や、書籍、文書などを展示いたします。

お楽しみに。


なお、御開帳を祈念し発願された参道石段の改修工事も、現在急ピッチで進められ、年内の完成を予定しております。工事中はご迷惑をおかけいたしますが、新春の初詣から皆さまにご利用いただけます。

皆さまのご信援により、観音さまの縁起を語り伝え、境内の護持と整備も進められております。心より御礼申し上げますとともに、今後ともご信援のほど、よろしくお願いいたします。

インターネット寺院「彼岸寺」をご存知ですか?

仏教の「今」を感じることが出来るウェブサイトとして、とても人気です。

宗派を超えた若い世代のお坊さんたちが運営していて、切り口も表現もポップで分かりやすく、仏教の魅力も満載です。なによりひとりでも多くの方に仏教と出会ってほしいという気持ちが溢れています。

そんな「彼岸寺」にご縁をいただいて、このたび一文を寄稿させて頂きました。

近々公開の映画『ボクは、坊さん。』の著者白川密成さん(今治市・栄福寺住職)の新刊『坊さん、父になる』の紹介です。

下記をクリックして、ぜひご覧ください。


映画鑑賞前に必読!『ボクは坊さん。』の続編『坊さん、父になる。』をレビューhttp://goo.gl/v4ntwS10月24日の全国ロードショーが近づいてきた映画『ボクは坊さん。』。原作は同名のエッセイですが、実は映画の中身は『ボクは...

Posted by 彼岸寺 on 2015年10月4日

映画の予告編はこちら!

岐に臨んで幾度か泣く

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岐に臨んで幾度か泣く

 

岐は「ちまた」と読みます。すなわち「私は、岐路にさしかかって、何度も泣いた」と、この言葉の主は言うのです。岐路とは、もちろん人生の岐路。なぜ泣いたか。それは、この岐路に当たってどちらに進むべきなのか、それが分からず泣いたのです。そして泣きながら、必死に自分の進む道を求めました。

 

この言葉の主は、誰あろう、弘法大師空海です。「え?」と思う方もあるかも知れませんね。何しろあの弘法大師です。日本仏教のスーパースターで、万能の天才、今なお生きていると信じられる日本の歴史上空前の業績を残している人物です。「そんな人が、泣くの?」と、不思議に感じても無理はありません。でも、そんなスーパーマンのお大師さまも、泣いたのです。きっとお釈迦さまだって、何度も泣いたに違いありません。


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 弘法大師空海


皆さまも、日々の様々な場面で、どちらに進むべきかで途方に暮れ、時にひとり涙することもあると思います。そして進んでみた道が正しかったかも分からず、後悔してまた泣くのです。そんな、涙で前も見えないような人生の岐路で、お大師さんは、どうなさったのでしょう。

 

泣いている弘法大師、そんな姿を思い、私はこう考えます。人生、泣かずに、いつも笑っていられたらいいけれども、私たちの暮らしは決してそんなに順風でありません。しかし、その流した涙や悩んだ時間は、その分だけ深く人生を生きたことともいえるでしょう。太陽の光の下ではなく、月の光でしか見えない光景があるように、涙で濡れた瞳でしか見えない世界があります。涙や悩みを知る人こそ、弘法大師やお釈迦さまの言葉に深くうなずくのではないでしょうか。

 

弘法大師が『同行二人』というお誓いをもって私たちに寄り添っていて下さることの有り難さに、涙がこぼれるのもまた、そんな人生の岐路でのことと思われます。

 

(明日香 岡本寺「はがき法話」に寄稿)

五郎丸選手と三密加持

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ラグビーの五郎丸選手が話題です。

 

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(五郎丸選手のツイッターより)


とりわけ、五郎丸選手のルーティン(きまりきった仕事。日々の作業)と、あの手の仕草が、「まるで仏像の印だ」と話題になっています。ウェブ上では「不動明王の印だ」とか「空海の力を使っている」とか「忍者の子孫だ」などという声もありますね。

 

不動明王とか空海はともあれ、それよりも、興味深いのは、五郎丸選手のキックの前の動作です。あの手の「印」はもとより、身体の姿勢や動作を調え、口でも何ごとかつぶやいているようでもあり、意識も深い集中に入っている様子(歓声が全く聞こえないのだとか!)から、身体・言語・意識の三つを徹底的に調えることに勤めているように見受けられます。(これは、真言密教的に言うならばまさに三密加持!)

 

それによって五郎丸選手はベストなキックを確実に再現しています。自分のパフォーマンスのレベルを最大限に引き出す術として、五郎丸流の「三密加持」をご自身で築き上げたものだと思いますが、優れたメンタルトレーナーもついているとのことなので、密教が示すような方法論も、もちろん試行錯誤の中で取り入れられているのでしょう。

 

イチロー選手も、ネクストバッターズサークルから打席に向かってか前に入るまでの動作に同様なものがありますね。アメリカではそれがとても禅的でクールだと称賛されています。

 

スポーツ選手に限らず、十全に自分の能力を発揮することを目指す人は、こうした身体・言語・意識調和していくスタイル持っていて、それが特有のかっこよさになっているのかもしれません。

 

仏教には、心の安らぎのための教えである面とともに、人間の持っている能力を善きものとして開花するための術としての面もあります。五郎丸選手が、仏教を取り入れているかどうかは分かりませんが、あの不思議とかっこいいルーティンから、仏教のそんな一面をあらためて考えました。

 

観音さまの教えも、癒し、安らぎという面とともに、私たちの持っている生きる力をより良いものとして発揮していく術という面もある、ということを覚えておきたいですね。

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