住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

なみだの湖

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なみだの湖

あるところに、ふたりの兄妹がいました。

とてもとてもかなしいことがあって、

ふたりはいつも泣いていました。

泣いているふたりをなぐさめようと、大人たちはお菓子をあげたり、

歌をうたったりしましたが、かなしみがあまりにふかくて、

甘いお菓子も、楽しい歌も、

ふたりの涙をとめることはできませんでした。
      


二人は花をみてはかなしくなり、

空をみてはふたりでふるえ、

星をみては泣くのでした。

いつまでもいつまでも、

このままずっとずっとかなしいのだと思うのです。
      


そうして花は咲いては散り、

空は明けては暮れ、

星は何度もめぐりました。

どれくらいたったでしょう。
      


ふたりは、おばあさんと一緒に、山の湖にいきました。

おばあさんは二人の兄妹に湖のお話をしてくれました。

それはこんなおはなしです。


lake.jpg

   (写真:飯島俊哲)  

 

むかしむかし、泣き虫ぼさつとよばれて、

みんなにばかにされている、

ちいさなぼさつがいました。

何を見ても泣いてばかり。

踏みつぶされる毛虫をみては、

ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼし、

風に散っていく枯れ葉をみては、

ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼし、

何を見てもかなしむ自分に、

ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしていました。

      


泣き虫ぼさつの流した涙は、

いつしか

小さな水たまりになりました。

きれいなきれいな涙の水たまり...。

      


ところが、その水たまりは、

けっしてかわくことはありませんでした。

泣き虫ぼさつの涙が

どんどんこぼれていたから。

かなしみが

どんどん深くなっていったから。

     


何千も、何万も、

星はめぐり、

月は満ち欠け、

日は昇りまた暮れて、

もう、どれほどの涙を流したことでしょう

小さな涙の水たまりは、

とうとう小さな池になりました。
      


泣き虫ぼさつはその涙の池に立って、

泣きながら

遠く見わたしました。

泣きながら、毛虫をみて、小さないのちを見つめました。

泣きながら、枯れ葉をみて、うつろう世界を見つめました。

泣きながら、ひとりぼっちの自分を見つめて、

人間のかなしみに深く耳を澄ましました。

そうして、世界中にかなしみが満ちていると、

心の底から知りました。

ひとりひとり、みんな、

深いかなしみを抱えて生きていると。
     


こうして、

泣き虫ぼさつの小さなかなしみは、

海のように深くて、

空のように広い

大きな大きなかなしみになりました。

      


それからどうしたかって?

さあ、よくおききなさい。

泣き虫ぼさつは、

つよく深く心に誓いました。

すべてのかなしみと、永遠にともにあろうと。
      


そうして、

かなしみあるところにいっては

いっしょに泣き、

くるしみあるところにいっては

いっしょにふるえ、

百千万億ものかなしみやくるしみによりそって、

百千万億粒の涙をこぼしつくしていきました。
      


そうして泣き虫ぼさつは

深く深くお知りになりました。

いっしょにかなしみ、

いっしょにくるしむことが、

ほんとうに人間にとってなにより大切なことだと。

      


この時、泣き虫ぼさつは

とうとう大悲の観音さまになって、

小さかった池は、

こんな大きな湖になりました。

      


さあ、ごらん。

この湖は、けっして涸れることがない。

観音さまが、

私たちといっしょに泣いておられるからなんだよ。

この湖は、

観音さまが本当にいらっしゃるということを教えてくれるんだ。

この湖は、観音さまの涙なのだから。

      


さあ、目を閉じて、しずかに耳を澄ましてごらん。

泣いているあなたたちといっしょに、

観音さまも泣いていらっしゃる。

涙はふかなくてもいい。

こぼすだけこぼしていい。

わたしたちの涙は

観音さまの涙とひとつにとけあって、

この湖にそそがれていくのだから。

つらくかなしいときは、

この湖を思い出すんだよ、いいね。
      


お話がおわると

おばあさんはそっと湖に手を合わせました。

ふたりの兄妹は、

だまったまま

うつくしい湖をいつまでも見つめていました。

湖は、きらきらと輝き、

ふたりの頬をきらきらと涙が伝いました。


 ●

このお話しは、チベットに伝わる民話をもとにしています。

チベットの人々は、昔から観音さまを深く信仰していますので、観音さまの昔話や民話がたくさんあります。このお話しは、そうしたお話をもとに、観音さまの心を語っています。


 観音さまの心は大悲の心と申します。大悲とは、慈悲の「悲」のことです。慈悲とは、「慈」と「悲」からなる仏の心ですが、慈とは「安らぎを与えること」、悲とは「苦しみを抜くこと」です。ですから、慈悲とは『安らぎを与え苦しみを抜く』ことです。この慈悲の「悲」を重んじるのが観音さまであり、観音さまとは私たちの苦しみを抜いてくださる仏さまなのです。


 この「悲」という言葉のもとになっているのは、サンスクリット語のカルナーという言葉です。この言葉にはもともと「うめく」とか「ふるえる」という意味があり、苦しんでいる人と一緒にうめきふるえることを意味しています。つまり観音さまは、苦しんでいる私たちといっしょにうめきふるえていらっしゃるのです。


 では、こしうたカルナー(悲)は観音さまだけの特別な心なのかというと、そうではありません。なぜなら、目の前で泣いている人、苦しんでいる人があれば、私たちはそれを放ってはおけません。思わず手をさしのべ、ともにおそれ、ともにかなしみ、ともに涙するでしょう。このようにカルナーは私たちの誰のうちにも本来的に備わっている人間性のひとつなのです。


 泣き虫ぼさつは、個人的な小さなかなしみに始まり、次第に人間のかなしみの源をたずね、ついに人間に本来そなわるカルナーという心に、苦しみを抜き、他者も自分をも癒し再生させていく神秘的な力があるという真実に目覚め大悲の観音さまになりました。そして、このカルナーという人間性を最大限に讃え、これを永遠なものにせんとし、全世界に広げようと、はるか昔から修行してくださっているのです。


 私たちが、このような観音さまを信仰し、おまつりするということは、観音さまの大悲の力におすがりすることはもちろんですが、カルナーという同悲同苦の人間性を、人生の灯として生きていくことを意味します。


また地域に観音さまをおまつりするのは、苦しみを分かち合うことを、地域における大切な価値観として共同化し、掲げ続けることを意味します。


チベットばかりか、中国でも、朝鮮半島でも、そして私たちの日本でも、観音信仰は盛んでした。このことは、このカルナーという人間性が、人間にとって、社会にとって、いかに重要で不可欠なものであるかについての、私たちの祖先の明らかな(経験的な)確信を示しているといえましょう。


 言うまでもなく、観音さまもカルナーも、過去の精神文化ではありません。この世に人間があるかぎり、かなしみの涙がこぼれる限り、カルナーは発動し、同悲同苦の涙は流れ、観音さまの涙の湖も涸れることはありません。


 この涙の湖のお話は、チベットの山奥にあるという観音さまの涙の湖のお話です。でも、その湖は、チベットの山奥にしかないのでしょうか。きっとそうではありません。簡単にそこに行くことは出来ないかもしれませんが、かなしみと出会い、かなしみを知るとき、私たちはこの涙の湖のほとりに立っているのです。かなしみは喜びではありませんが、かなしみの道のみが、この永遠に涸れることのない観音さまの涙の湖に私たちを導くのです。


 かなしみは辛く苦しいことですが、かなしみを回避するのではなく、そこから逃れようとするのではなく、かなしみ尽くすことで、私たちは生きなおすこと、再生することができるのだと思います。 

(平成二十七年十月)


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