住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

蓮の浄土にて

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夏のある日の朝、蓮の花で知られるお寺をたずねました。見ごろを迎えた蓮の花々は境内各所の鉢の上で咲き誇っています。朝の光の中の白蓮の姿に見ほれているところに、寺の住職が通りかったので、つい「美しいですね」と声をかけました。若い住職は、しずかな笑顔で寺の蓮の歴史や、蓮を育てる苦労について話を聞かせてくれました。

毎年蓮を育てながら、その大変な作業に辟易すること。でも、その清らかな蓮の花に癒されること。そして以前は辛いばかりだった蓮の世話が、不思議と年々苦にならなくなり、むしろその大変さの中に深い喜びを感じるようになってきたことなどを、私にというより、まるでその蓮の花たちに話しかけるように話してくれました。

その寺には代々の住職に伝えられるこんな言葉があるそうです。


「蓮を育てているのではない。蓮に育てられているのだ」


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その言葉は、お経に説かれるいにしえの菩薩たちが、何万年もの間、千億の仏に仕えたという話しを思いださせました。この寺では、幾世代もの僧たちが、蓮の花に仕えてその説法に耳を澄ましている。そんなことに思いめぐらしているうちに、目の前の蓮華蔵世界もかくありと咲く蓮の花々が、昔も今も変わりなく咲いてそこにあり、私はといえば自分の子育てを思い、亡き母の供養を思うのでした。子を育てているのではない、子に育てられているのだ。亡き母を供養しているのではない。亡き母に供養されているのだ。そんな言葉となって胸に木霊し、目の前の白蓮の眩しい姿の向こうに、幼い頃の子供たちの姿や、遠い日の母の面影とともに、母が旅立ってからのことがしきりに思われるのです。そして、その子育てや供養の日々の道は、頼りなく、闇の中を手探りで進むように、子の手を取りながら実はその手を杖にして歩き、母への供養の灯明を捧げながら実はその灯明を足元の灯りとして歩いてきた。そんな自分の姿を知るのでした。

白日の蓮の花の夢の浄土で、私も蓮の説法を聴いたのかもしれません。


(明日香・岡本寺 葉書法話寄稿より)

2016年12月

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