住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

長谷寺: 2011年1月アーカイブ

故郷を、奪われた人の祈り

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上野駅の電車の発車ベルの音について、こんな話を聞いた。

たまにしか東京には行かないが、いつの頃だったか、電車の発着の音が昔ながらのベルから音楽のようなものになった。

初めて聞いたときは、何だかよく分からず不思議な気がした。

そんなふうにして、電車の発車のベル音が変わっていく中で、東北方面の電車の発着音だけは変わっていないという。

あるいは、いわゆる「都市伝説」なのかもしれないが、それは遠く故郷を離れて東京で暮らした東北の人たちのご苦労や望郷の思いに敬意を表すため、昔の音のままにしているというのである。

都会の駅は、ふるさとへと通じるのであるが、この話しが本当なら、JRもやるなぁ、と思うのである。

 

 

どこかに帰属する安心がある。

帰属できる場、それを故郷と言うことも出来る。

それが家族や故郷であれば、それはそれでいい。

でも、生まれ育った故郷を失う人も少なくない。

失い方もいろいろある。

自ら出る人、望まないけれども、出ざるを得ない人。または若い時分に何となく出て、そのまま故郷を遠く離れてしまった人。

とりわけ、故郷なるものに拠っている価値観(イエ、血縁、地縁など)によって苦しんだり、傷つけられて故郷を捨てる人にとって、故郷に代わる帰属の場はより恋しいのではないだろうか。

現代の仏教は、いろいろな批判を受けているけれども、この故郷を失ってしまった人への言葉を失っていることに原因があるのではないだろうか。その深い悲しみにより添える言葉も、またそんな恋しさを受け止める場も、持ち合わせていないのではないか。

 

以前、イエス=キリストの言葉としてこれを読んだ時、ひどく印象に残った。

イエスが生まれ故郷に行った時、「大工の子」と言われて敬われなかったことが伝えられている。キリスト教徒にとっても、後世に伝える印象深いエピソードだったのだろう。

預言者というのは、唯一の神の言葉を受け取って人々に伝える人のことであるから、仏教を含めアジアの風土では余り馴染みはないけれども、ため息ともつぶやきともとれるこの言葉は、何となく頷ける。

 

何故なら、私は子供の時、よく迷子になった。

夕方遅くまで遊んでいて、日が暮れても遊んでいるうちに、親が心配し始める。

藁道場

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今日は総代さんに「藁(わら)道場」という言葉を教えていただいた。

その昔、雪深いこの季節、外仕事のない農村であるこの地域では、家の中で来る雪解けからの農繁期に備えて藁で縄を縒ったそうだ。

しんしんと雪降る中、家にこもって藁を相手に手作業をするのだが、一人きりであるいは家族だけでやっていても次第に退屈になってくる。

そこで、謡や俳句の得意な人を「師匠」にして、この季節に習ったそうだ。

それを「藁道場」というのだと。

いいなあ。

総代さんが子供の頃には、まだそんな名残があって、冬ともなれば謡の先生(この地域では「おっしゃん」)の家に集まって若い衆もみな小謡を聴いて習っていたとか。

藁を縒りながら、先生が謡い、「弟子」たちも藁が縄になっていくにあわせて少しずつ謡を覚える。

口に馴染む習い方。

こんなのいいなあ。

藁道場、今の時代では、なかなかこういうのはないなあ。

真言教学のみならず、現代仏教の泰斗、偉大な学僧である宮坂宥勝猊下が御遷化なされた。

世寿90歳。

私は、たまたま宮坂猊下が総本山智積院において能化(管長)として在任中に、5年間本山勤めをさせていただいた。

私は直接接する機会のない部署で働いていたけれども、朝のお勤めや、時折境内を散策されている折などにそのお姿を見かけたりすることがあった。

学者らしい真面目さが第一印象であり、またそのイメージが付きまとってはいたけれども、侍者をお供に、あちこちにお忍びでスケッチ旅行に出かけたり、歌を詠むために京都の東山三十六峯を登ったり、いろいろなエピソードを耳にしているうちに、その仏教学の世界での巨大な業績ばかりでなく、芸術を愛し、自然を愛し、また弟子を思う優しさや思いやりある人柄が感じられてきた。

本山の能化さまは、緋色のお衣を召される。大僧正の衣の色であり、真言宗では、勤行以外の主だった法要では常にこの色のお衣でご出仕なされる。

詩  便所掃除

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今朝の朝刊でこんな詩を知った。「トイレの神さま」という歌が昨年はよく聞かれたが、この詩は昔の国鉄の職員さんの体験によるものとか。

 

僕自身そういう世代であるが、いわゆる「キツイ・汚い・危険」が取り除かれてきた教育、家庭、地域環境で育ったものには、スムースな暮らしを床下や背後から支えている部分が見えないし、またそういう部分に関わることでしか学べないことや気づけないことを、大人になっても家庭を持ってずっと知らないまま生きてしまう。

 

この詩を読み、我が身を振り返り、これはよほど自分自身の暮らしぶりを意識しないと、いけないなあと思うのです。成人式を控える人たちにも差し上げたい詩です。

 

 

  便所掃除           浜口国雄

 とびらを開けます。
 頭のしんまでくさくなります。
 まともに見ることができません。
 神経までしびれるかなしい汚し方です。
 すんだ夜明けの空気までくさくします。
 そうじがいっぺんにいやになります。

 どうして落ち着いてくれないのでしょう。
 けつの穴でも曲がっているのでしょう。
 それともよっぽどあわてたのでしょう。
 おこったところで美しくなりません。
 美しくするのがぼくらのつとめです。
 美しい世の中もこんなところから出発するのでしょう。

 

謹賀新年

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明けましておめでとうございます。

 

今年が皆さまにとって安らかな日々でありますようにお祈り申し上げます。

 

年頭に当たり、皆さまにご本尊さまのご真言について、お贈り申し上げます。

 

真言には不思議なパワーが秘められていると伝えられます。

 

その説かれる心を味わい、日頃から唱えると、私たちの悲しみや苦しみ悩む心を静めます。

 

真言は一字一語に深い観音さまの智慧と慈悲の心を含み、唱える功徳は、現代人が見失いがちな善き人間性(慈悲・愛・思いやり)の実感と働きを呼び覚ますでしょう。

 

御本尊十一面観音さまの真言は、「観音さまの大悲の心よ、現れたまえ!」という意味となり、「まか・きゃろにきゃ(大悲)」すなわち「観音さまの大いなる同悲同苦の心の働き」の実現(そわか)を一心に祈念(おん)することばです。

 

また同時に、この真言は、観音さまに呼びかけるばかりでなく、私たち自身のうちに息づく慈悲や愛や思いやりに呼びかけることばでもあります。

 

失意の時や悲しみの時には癒しのために唱え、怒りや憎しみの時にはしずめのために唱えましょう。

 

苦しく困難な時こそ、観音さまに呼びかけ、その荒波に沈まないように、すなわち自分自身を見失わないように真言を唱え、お祈りしましょう。

 

また平穏な日々には、ありがとうの心を見失わないものであるために、これを心から唱えましょう。

 

真言とは「好きなことば」と言うことも出来るでしょう。

 

観音さまに呼びかけ、また私たちの思いやりの心を生き生きとさせる「おんまかきゃろにきゃそわか」は、愛情や思いやりを大切にして生きていこうとする人にとっては、人生の道しるべとなる素晴らしい「好きなことば」と言えるでしょう。

 

長谷観音とご縁のある皆さまは、ぜひ皆さまの「好きなことば」の中に、ご本尊さまの御真言をお加えください。

 

この一年、あなたが思いやりの心と常にともにありますように。

 

おん まか きゃろにきゃ そわか

 

南無大慈大悲観世音菩薩

 

合掌

 

 

 

2015年7月

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