住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

長谷寺: 2017年2月アーカイブ

いのりのしずく

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小児科医の細谷亮太先生のお話しを通じて、小林一茶の句を味う機会を得た。

 

一茶は、家庭的には実はとても不遇の人だった。それは、一茶の句に親しむうえでは、とても大切なことだと思う。よく知られているのは、ようやく授かった我が子に死なれてしまった時の句だ。

 

露の世は 露の世ながら さりながら 

 

一茶は、仏法にも明るい人だった。その仏法に照らすまでもなく、世の無常は理解していたし、まさにこの世は露のようにはかないものである。

そのことはよく理解している。

しかしながら、いったいなぜ、どうして我が子は逝ってしまったのか、なぜなのか、、、。

この「さりながら」に込められた、あるいは、ここから滲み出してくる、怒りとも嘆きとも悲しみともいえる、思い。。。。

大切な人を亡くした方には、静かに響いてくる句ではないでしょうか。

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かの哲学者・西田幾多郎も我が子を失った時の思いを語ります。

「人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡すべての傷を癒やすというのは自然の恵めぐみであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である」。

 

一茶にはもう一首、私たちに胸に響く句があります。

 

蛍来よ我拵し白露に 一茶

(ほたるこよ わがこしらえし しらつゆに)

 

蛍は、古来、先立った懐かしい人の魂とされます。

一茶は、夏の夜に舞う蛍に呼びかけています。蛍よ、こちらにおいで、この私の用意した滴のもとに、と。まるで有名な『ほ、ほ、蛍こい、あっちの水は...』の歌のようですが、この句は、亡くした娘を偲ぶ句なのだそうです。幼くして亡くなってしまった娘の魂を呼んでいるのですね。

蛍は、夏の夜に、草花の葉先などに自然と結ばれる水滴を求めて飛んできてとまります。

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山陰観光【神々のふるさと山陰】旅のポータルサイト


一茶はどうでしょう。そんな滴を乗せた夏草のそばにいるのではありませんね。そうではなくて、「我が拵えし白露に」と言っています。私が用意した露のもとにおいで、と。

では、一茶はその白露をどのようにしつらえ(用意し)たのでしょう。井戸から汲んできたのでしょうか?そうではありませんね。

細谷亮太さんは「それは一茶自身の念によって拵えた露だ」と仰いました。

一茶自身の念によって、、、。 

みなさんは、この「白露」をどう思いますか。

亡き人を、強く強く強く思い(念い)、その思いを凝縮していく。

それによって、一茶の手のひらには、ひとしずくの白露が結ばれる。

あるいは、それは乱舞する蛍の中に、一茶の方に迷い舞ってきた一匹の蛍があり、そこに娘を感じて思わず零れ落ちた一茶の涙であったかもしれません。

いずれにしても、その「白露」は、娘を偲んで止まない追慕の念によって拵えられたものなのですね。

 

季節はまだ春浅く寒い日々は続きますが、一茶の句を味わい、心は夏の夜の蛍を思いました。

 

長谷寺お釈迦さま涅槃図の絵解き

~お釈迦さま最後の旅~

315日(

      1回目 午前10:00~

      2回目 午後14:00~

      長谷寺 庫裏

長谷寺ではお釈迦さまの命日(やしょうま)に当たり寺宝「大涅槃図(ねはんず)」を公開しお絵解きをします。仏教の祖、お釈迦さまの最期の様子が描く涅槃図の絵解きは、お釈迦さまが80年のご生涯を通じて、お釈迦さまが何を求め、何を伝えたのかを物語ります。長谷寺の寺宝「大涅槃図」のお絵解きで、お釈迦さま最期の旅路を一緒にたどりましょう。



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涅槃図 御釈迦さま入滅の物語


凍結された光景・・・・。

仏陀の死の光景が、一枚の絵に氷結している。

「その場」に居合わすことの出来なかった人々は、

すなわち遅参者である私たちは、

遥か遠くの凍りついた仏陀に

暖かな憧憬を寄せて南無釈迦牟尼仏と称えるばかり。

しかしその暖かな想いと言葉によって、

いつしか氷が解けて雫がこぼれだすように、

仏陀の温もりが私たちに染み込んでくる。

凍りついた光景を想いと言葉によって溶(解)かす。

絵解き、という言葉がもっとも似合う絵が、

仏涅槃図ではないだろうか。




■涅槃図 仏伝文学の中のクライマックス

仏教の祖、釈尊が、クシナガラの跋提河(ばつだいが)のほとり娑羅双樹の間に入滅する様子を描いたもので、釈尊の生涯を伝える仏伝文学の中でも重要な場面である。


釈尊は、今から二千五百年ほど昔、インドの北西部に存在した釈迦族の王子として生まれ、二十九才で出家し、三十五才で悟りを開いたと伝えられている。その教えは「人間の生きるべき道」「輪廻からの解脱の法」を明らかにしたもので、悟りを開いて亡くなるまでの四十五年間にわたって、釈尊はその教えを説き続けた。その間の様子を前世から誕生、成道(悟り)、布教の旅、そして入滅など、釈尊の生涯の重要な場面を取り上げて細かく伝える「仏伝」が伝えられているが、それらはインドでも早い時期からストゥーパ(仏塔)のレリーフなどで表されていた。難しい経典の内容よりも、釈尊その人の生涯を通じて人々は仏教に親しんできたのだろう。中でも釈尊の死の場面を表す「涅槃図」は仏伝文学の中でも独立したテーマとなり、仏教が伝えられたアジア全土でくまなく親しまれてきた。

 

■デス・エドゥケーション(死の学び)としての涅槃会

日本においても寺院において「涅槃会」が早くから行なわれてきた。そこで用いられてきた涅槃図には重要文化財などの優れたものも少なくないが、そうした中央のものとは別に、地方寺院でも涅槃会は盛んに行なわれ、今日でも多くの寺院に涅槃図が残されている。また地方寺院における涅槃会は中央の厳粛なものとは違い、地域住民が娯楽もかねて参加するもので、その日のお供え(信州では「やしょうま・涅槃団子」)が目当てで子供たちが寺に集まった。

その際、簡単な法要とともに、人々に対して涅槃図の絵解きが行なわれたのである。その絵解きは寺の住職がする場合もあったし、例年絵解きに親しんできた地域の古老が担当することもあった。人々は、釈尊の死の光景を語り聞かされ、そこから仏教の死生観に馴れ親しみ、それを身につけていった。長寿を全うし、親しい人々に囲まれて死んでいく釈尊の死は、日本人にとっての死に方の理想的なモデルでもあり、涅槃会は今日いうところの「デス・エデュケーション(死の学び)」そのものであった。


■涅槃図に描かれるもの

縮される涅槃の物語(情報)を解凍する絵解き

涅槃図において、釈尊は娑羅双樹の間に頭を北にして横たわり、その周囲を弟子や諸菩薩、神々が取り囲み嘆いている。さらに修行者や在家の信徒、多数の動物や昆虫類などがかけつけ、天には釈尊を産んで七日で亡くなったという母マーヤー夫人が描かれる。

また哀しみのあまり悶絶して地に伏した愛弟子のアーナンダ、枕元で最期の別れを告げる実子ラーフラ、釈尊の足に触れるヴァイシャーリーの老婆、天から飛来する実母マーヤー夫人、激しく取り乱す金剛力士など、入滅にあたって特徴的なエピソードを残した群像は、多くの場合に一見してそれと分かるように描き込まれている。

それらの様子は、どれかひとつの経典や仏伝に取材したわけではなく、多数の涅槃系経典や仏伝文学、あるいは民間伝承などから、縦横無尽に取材されている。したがって、涅槃図を描き、またその絵解きの台本の原型となるものを編集制作した人々は、膨大な涅槃に関する情報を収集したものと思われる。

そうして集められた膨大な情報を、一枚の絵に凝縮し圧縮する。そしてこの凝縮され圧縮された膨大な釈尊の涅槃の物語は「絵解き」というスイッチが入ったとたんに、あたかも圧縮された情報が解け出すように、こんこんと水が湧き出るようにセットされている。

檀家さんこんにちは

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私とお寺とのご縁。人とお寺とのご縁。

檀家と菩提寺という関係の中で、日本人はどんな心を育んできたのでしょう。

個人を大切にする現代のライフスタイルが進んで、従来の共同体つまり地縁・血縁に基づく文化や価値観は、現代の人には好まれなくなっています。

それらはどこか個人の自由に対する「しがらみ」や「重荷」というマイナスなものとしてイメージされやすいのではないでしょうか。

ですから、地縁・血縁を基盤とする寺院も、なにやら前時代のしがらみのシンボルであるかのように思われ、仏教に興味を持つ人であってさえ、菩提寺や寺を敬遠するようになっているのではないでしょうか。

 

しかし最近は、グローバル化が進んだためなのか、海外の人々からの高い評価もあり、かえって伝統的な文化を見直されています。

伝統の見直しは、社会的な文化にも広がりを見せ、特に少子高齢化社会が進む地域の課題として、コミュニティの『絆』の再生がテーマになっている中で、地域の寺の機能にも関心が集まり始めていますね。

 

そこで、人々と寺とをつなぐ、檀家と菩提寺という間柄についても、必ずしもマイナスなものではなく、プラスなものとして再評価する動きもあります。

そこには、不透明な社会で、しかも人生100年時代の老病死という人生の問題も抱えながら、自分の人生をしっかり生きていきたいという現代人の願いがあるのかもしれません。

まいてらのホームページでは現代における檀家さんとお寺のご縁の物語が紹介されています。

檀家さんこんにちは」、ご覧下さい。



おてらおやつクラブ

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長谷寺では、「おてらおやつクラブ」の取り組みに参加しています。


この取り組みは、公式ウェブサイトの言葉を紹介するとこんな感じです。


「おてらおやつクラブ」は、お寺にお供えされるさまざまな「おそなえもの」を、仏さまからの「おさがり」として頂戴し、全国のひとり親家庭を支援する団体との協力の下、経済的に困難な状況にあるご家庭へ「おすそわけ」する活動です。おすそわけを通じ、ご家庭と支援団体との関係性の深まりに寄与し、貧困問題の解決への貢献を目指します。



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お寺は全国にあり、その数はコンビニより多いと言われますね。それらのお寺では、檀信徒の皆様からの御本尊さまお供えがあり、また先祖や亡き人の供養としてお供えされるお菓子があります。お菓子ばかりではありません。お米や野菜などもお供えされます。


私ども寺に住む住職やその家族(寺族)は、それらの「おさがり」を糧として暮らしています。それはとてもありがたいものです。師である長老は「我々はおさがり、すなわちお仏飯をいただいているから残してはいけないよ」とよく申します。また、それらのお菓子は、ご法事の折には参列の皆さまのお茶うけとして出されます。お供えした方の供養の心とともに、おさがりが回っていく仕組みがあるのですね。お供えがおさがりとして、無駄にならず生かされていくとても良い仕組みですね。


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 (おやつクラブのポスター)


この『仕組み』は、現在では個々のお寺で完結し、ある意味では閉じていますが、昔は地域的にお供え物を分かち合い、シェアしていく広がりのある仕組みだったと思います。神仏に供物を供える布施や喜捨という宗教的な行為の中には、個人の所有物やお金が、社会に循環していく仕組みという側面もあるのです。その意味で「おてらおやつクラブ」はこの『お供え循環システム』を現代に蘇らせる画期的な取り組みではないかと思います。


長谷寺でも、この取り組みに参加し、縁日や写経の会で、ご本尊さまにお供えされる供物を、貧困家庭を支援している団体を通じてお届けしたいと思います。


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(先日の写経の会で参加者からお供えされた品々)


ご参拝、ご縁の皆さまには、いつもいつもでなくても結構ですが、時々で良いので、チョコ一箱、ガムひとつでも、お観音さまにお供え下さい。少しずつ、でも、そんなお寺が地域に、全国に広がれば、その力はとても大きなものになるでしょう。


参拝と、供物を供養する功徳が、回向されていくのは、仏さまの心に叶うものでもありましょう。


皆さまの「祈りの心」が困っている人を少しでも「支える力」へと転じていく窓口や機能として働く時、日本のお寺のもつ可能性はまた大きく広がっていくものと思います。また日本のお寺の役割りには、本来そのような機能がセットされていると思いますので、皆さんの祈りや思いが、お互いに支え合う社会的な力へと転換していく大きな循環の仕組みづくりの中で、お寺の存在を見直してほしいと思います。


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