住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

住職の独り言の最近のブログ記事

この時期は、「新盆」があるので、法事が続く。

どうしてお盆は、こんなに暑い季節なのか。

 

想像する。

あまりに暑くて、日中は田畑に出ても何にもやる気が起こらないから、家でゴロゴロしているしかないご先祖たち。

 

その様子を、「ああ、今時分に行くと、みんなおるわい」と、あの世からご覧になるそのご先祖。

 

ご先祖たちがお帰りになるから、おまつりだおまつりだ、と親戚一同寄り集まって先祖を囲んで賑やかに飲み食い。

祖霊が家の中に居るという感覚は、考えてみると、凄い。

 

2008年の4月19日のブログに、こんなことを書いた。

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◇僕の夢

僕は夢見ている。

いつか、ダライ・ラマ14世が善光寺様にお参りにいらっしゃることを。

そして、善光寺一山の和尚様たちを中心にして、日本中のお坊さんや多くの信者、もちろん他宗教の神父さんや信徒さんとともに、あの国宝の大本堂でチベットの解放はもちろん、非暴力と対話に基づく世界平和を祈りたいと。

ダライ・ラマ14世が『お数珠頂戴』をなさってくれたら、どんなに素敵だろうか。

 

来年の御開帳なんか、どうかなあ。 

 

もちろん、来ていただくことだけではなく、チベットの平和的解決こそが、真の夢として描かれ実現されていくべきことである。

 

僕の夢はともかくとして、善光寺様には、宗教的なリーダーとして、今まで以上に慈悲や愛を守り、与え続けて欲しい。

南無善光寺如来

南無阿弥陀仏

 

合掌

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http://www.hasedera.net/blog/2008/04/post_46.html

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と、このように書いた「夢」が、実現したのである。

考えてみたら、すげえ。

 

お相撲さんが、今度は賭博に関係して話題となっている。

事の真相はこれからのことだ。

それに関連するとあるテレビニュースに「暴力団関係者」という紹介で、その筋の人物と思しき人が、モザイクで登場してインタビューに応じていた。

「だって、関取連中は、あんなに大きいし、目立つし、どこに行っても誰だかすぐバレちゃうでしょ、でもね、彼らだって若いんだし遊びたい年頃だ、そんな彼らが休みの日に何をして遊んだらいいんだい?」

その筋の人は、そのように言って、自分たちは、そんな気の毒な境遇の彼らに「遊び」や「息抜き」や「ストレス発散」の場を提供しているのだ、と話を進めた。

 

考えさせられる、その筋の発言だ。

 

昨今のお相撲さんは、とても厳しい社会の目に晒されている。

監視されているといってもいい。

品格、人格、が問われてしまう。

 

 

宮崎の口蹄疫の感染被害が止まらない。

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

牛を育ててきた皆さんにとっても、言葉にならぬ、悲しみ、怒りが収まらないことだろう。

 

私の友人が、「処分」される牛たちを思って「せめて食べてあげることはできないのか」とブログに書いていた。

 

近年見直される「食育」。

肉が、どういうプロセスで、生き物から「商品」となって食卓へと届くのか、いのちを学ぶ試みとして各地の学校で「屠殺」の現場におもむく機会が増えているという。

 

知人に、あるホームページを教えてもらった。

もうじきたべられるぼく

(画面をクリックすると、絵本のように、読み進めていくことが出来ます)

これを読み、感じるところは、さまざまだと思う。

しかし、生活習慣の変化によって、かつて「いただきます」という言葉の生命観からリアリティが見失われている今、「商品としての肉」のきしかたに想像力をひろげる、きっかけになるのではないだろうか。

 

 

 

愛知県のfukuさんのホームページで知りました。引用させていただきます。

 

デンマークサッカー協会少年指導10か条」です。

1.        子ども達はあなたのモノではない

2.        子ども達はサッカーに夢中だ

3.        子ども達はあなたとともにサッカー人生を歩んでいる

4.        子ども達から求められることはあっても、あなたから求めてはいけない

5.        あなたの欲望を子ども達を介して満たしてはならない

6.        アドバイスはしても,あなたの考えを押し付けてはいけない

7.        子どもの体を守ること。しかし子ども達の魂まで踏み込んではいけない

8.        コーチは子ども心になること。しかし子ども達に大人のサッカーをさせてはいけない

9.        コーチが子ども達のサッカー人生をサポートすることは大切だ。しかし,自分で考えさせることが必要だ

10.    コーチは子どもを教え,導くことはできる。しかし,勝つことが大切か否かを決めるのは子ども達自身だ

 

 

私の子育て、反省!

 

弘法大師空海が、若き日を振り返ってつぶやいた言葉。

進むべき道が分からなくて、人生の、学びの、修行の岐路に立ち尽くして何度も泣いた。

弘法大師の数ある「名言」の中でも、僕の好きな言葉だ。

超人的なイメージの先行する「お大師さま」。

ご自身もまた、3代の帝に、当時の唐の都から持ち帰った最新の思想を教授する「国師」として、それに相応しいパフォーマンスを意識して振る舞っていたと思われる。

が、おもわず「こんなおれでもあの頃は分かんないことが多くてなぁ」と、弟子の誰かに思わずもらしてしまったような響きがある。そのへんが、好きな言葉だ。

 

 

 

長谷観音の境内では、現在、排水処置を含む参道の整備事業が進められています。

 

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山腹にある境内ですから、雨が降ると、山からの水が流れてきたり、また染み出してきて、境内の、ちょうど観音堂へ歩いていくところが「グチャグチャ」になってしまうのが、悩みの種でした。

ただでさえ、長い石段を頑張って登って、ああやっと着いたよ、と観音堂に進むその時になって、足元が「グチャグチャ」なのは、雨水は自然のことだもの、と頭で分かってはいてもやはりガッカリする。

しかも、水はけが悪くて、一度雨が降ると、いつまでもいつまでも水がたまっているし、染み出してくる水も少なくない。

そういう悩みの種を解決したいと願っていたところ、檀家総代さんたち、そして檀家の皆様のご理解をいただいて、排水と参道の整備が実現した。

夏のお祭りが8月9日の夜だから、なんとしてもそれまでには終了したい。

現在、排水のためのアンキョの埋設のための土木工事がすすめられています。

 

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だんだん暑くなる毎日で、梅雨も近づいて、現場の工事の皆さんは大変です。

(しかも、私がうっかりして伝えるのを忘れていたので、バックフォーが2度も水道管を・・・・涙)

工事中は、参拝の皆さまに御不便をおかけしますが、夏には整備されて歩きやすくなった参道が完成しますので、しばらくの間お待ち下さい。

南無工事安全

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4.jpgのサムネール画像

長谷寺で、二度の公演をいただいた舞踏家の大野一雄さんが亡くなられた。

103歳だった。

舞踏について、門外漢の僕としては何も書くことはできないが、大野さんの舞を間近で観ることが出来たのは、素晴らしい思い出となっている。

長谷寺にお越しになった時は、すでに足腰がだいぶ弱っていらして、お弟子さんたちの手を借りて歩いていた。

「大丈夫なの?」

と、正直思ったのを今でもよく覚えている。

ところが、である。

 

昨日は、先輩のお坊さんの晋山式@軽井沢でした。

法要の最後に、体調を崩しているお父様(先代住職)が車椅子で登場し、声にならない声を振り絞って退任の挨拶をして新住職にエールを贈ったのでした。

50年という長い年月、住職をつとめた方です。

私の父の大変親しい友人でもあり、その病まれたお姿は、お元気だった頃の姿を知るものにとっては、とても痛ましいものでした。

介添えの僧侶が、マイクを手に持って口元に近づけると、それをさえぎって自らマイクを手に取られました。

どのようなことを仰るのかと、心して耳を澄ましました。

しかし、マイクを使っても、何を仰っているのか聞き取ることは出来ないのでした。

けれども、声を振り絞って何かを語りかけているのはしっかりと分かります。

何を言わんとしているのか、その具体的な事柄よりも、むしろ言葉にならない声と、伝えんとするその必死の仕草において、師から弟子へ、先代から新住職へと、大切なものが伝わっていったに違いありません。

その姿は息子である新住職さんにも、檀家さんたちにも、深く心に刻まれたことでしよう。

まさに万感の思いを継承する場面に立ち会うことが出来て感激でした。

思いを継いでいく。

そういうことが成り立ちにくい時代の風潮ですが、寺という場は、代々の住職というだけではなく、その地域の人々にとっても、そのようにして世代を超えていく一筋の思いが、静かに、しかし確かに流れていく場でもあると感じたのでした。

おめでとうございました。

「葬式いらない」「戒名いらない」という発言の背景にある意識は、家族とか親戚とか地域という血縁や地縁をベースとする帰属意識から、良かれ悪しかれ自由になった人のものなのだろうし、そのような意識に向けて語りかけられている言葉だと思う。

これに対して、従来の葬儀や結婚式というものは、儀式の機能から見ると、血縁や地縁の帰属意識を強化する働きがあったと思う。
地縁や血縁に基づく結束力を維持していなければ、農業をベースにする生活は営めないのだから。
当然、日本の仏教は、こういう地縁と血縁を基礎とする地域社会のものであった以上は、その帰属意識に向けて語られる言語によって発展してきたものだ。

その意味で、従来の地縁・血縁の帰属意識から離脱した都市生活者にとっては、伝統的な葬儀や仏教寺院や僧侶のあり方は、せっかく「自由」を獲得した心身を再度回収しようと迫ってくるものだ。

都市に住み世代を重ねれば、あらたな血縁や地縁に帰属していくこともあるから、中には逆に伝統的なスタイルの葬儀や寺院や僧侶に違和感を感じない人もあるかもしれない。

しかし、都市生活というものは、伝統的な地縁や血縁から離脱した人によるものだから、伝統的なシステムとの幸福な出会いは困難だろう。それらは「自由」を妨げる「悪」に映ることさえあるのではないだろうか。

葬式不要論の発言に目くじらを立てるより、発言のこうした背景に目を向けて、従来の帰属意識とは別の意識を基本にして生活している都市生活者にとってふさわしい葬送の形を模索していくべきではないだろうか。

もっとも、伝統的な価値観に依拠している寺院と言ってはみるものの、僧侶が伝統的な学びや修行を真に実践していないのだから、やっぱしこういうのって説得力ないなあ。

2010年7月

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