住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

住職の独り言の最近のブログ記事

近づく三十三燈籠

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毎年八月九日の夜、
観音千日参りの縁日に献灯される「三十三燈籠」。
祭の最後に、
捧げられた大燈籠を引き倒して石段を駆け下りていく。
この引き倒しの時、提灯を拾うと
その家は無病息災と伝えられます。



東京盆

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717日 晴れ

ひさしぶりの更新です。


こうしてお寺のブログを書いていますと、時々「読んでいますよ」とのお声をいただき嬉しくなることがあります。

が、そんなお声は、よりによってというか、不思議とブログの更新が滞っているタイミングで耳にするのです。。。

怠けているわけではないのですが、バタバタしていると「書く」という気持ちが湧いてこないのでしょうか。

忙中に閑あり、と古人の言葉通り、心に余裕がほしいものですね。

 

先日は東京のお盆の時期に合わせて、東京や埼玉にお住まいの檀家さんのお宅にご先祖のご供養のおまいりに行ってまいりました。

故郷を離れて東京に住まいを構え、家庭を築き、子が生まれ育ち、今では孫、ひ孫の代へと時は流れ、そんな暮らしの中に、年に一度、田舎から菩提寺の住職が「こんにちは」とやってくる。

 

田舎の住職を迎えるとき、どんなお気持ちなのかな、と、思います。


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お盆というのは、先祖を迎えるわけです。

先祖が、帰ってくる。

考えてみると、その目には見えない、魂を迎える時、そういう存在をお迎えしようという気持ちそれ自体もまた日頃は忘れているわけですから、やはり帰ってくる、といえますね。

お盆には、先祖を迎える気持ちが帰ってくる。

普段あまり意識しないけれど、やはり、祖先の霊を大切にしたり敬ったりする気持ちというのは、日常的には「遠く」に行ってしまっていますよね。忘れている、わけです。

それが、帰ってくる。

気持ちが帰ってくると、なにか、風景も違って見えてくる。

見慣れていたはずの景色の中に、普段は感じなかった一本の木の存在に気がついたり、近所の人の暮らしに親近感が湧いたり、身近な人に「ありがとう」と言いたくなったりする。

先祖と一緒に、自分の中の、優しさや感謝のような気持ちも帰ってくる。

不思議なものですね。

皆さんも、先祖をお迎えすると、なにか自分の気持ちも中にも帰ってくるような、蘇ってくるようなものや感情があるのではないですか?

お坊さんの、仕事というのはいろいろあるわけですが、先祖をお迎えして供養するお手伝いをしながら、「帰ってきたのはご先祖さんだけですか?」と、お尋ねすることもそのひとつかな、とそんなことを考えた東京盆でした。

(住職記)

法の雨

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 暑い日が続いています。  
 
 信州さらしなの辺りは雨らしい雨もなく、日照りです。  

 総代さんと話していたら、畑の井戸が枯れたそうです。  

 爽やかな新緑の青空は本当に美しいです。  

 気持ちも晴れ晴れとしてまいります。

  DSC_2017.JPG  でも、こんなに晴ればかりになると、さすがに不安なりますね。  

 法雨、という言葉があります。  

 仏さま、観音さまの法(のり)の雨、慈しみの雨。  

 観音経にはこんな経文もあります。  


 澍甘露法雨 滅除煩悩焔   

 観音さまの慈悲は甘露の法雨となって雨ふりそぞき   

 私たちの燃え盛る煩悩の火焔を滅して除いてしまう  



 お経が、これほどに観音さまの慈悲を雨の喩えをもって示すほど  

 私たちの祖先は干天を恐れ  

 乾くということがもたらす悲惨さを知っていたのでしょう。  

 長谷観音には江戸時代の初めからとも、  

 もっともっと遥か昔からとも伝えられる  

 雨乞いの祭りが伝承され  

 地域の皆さんとともに守り伝えています。  

 今は、心から観音さまに文字通り風雨順次とお祈りしましょう。  

 大地の渇きを潤したまえ。  

 南無観世音菩薩    

イエス=キリストの愛

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上田市の短大で数年前から宗教についてのお話をさせていただいています。

 お釈迦さまのお話をしたり、お経の言葉を取り上げて考えてもらったりします。

 今日は、キリスト教について、少しお話をしました。

 といっても、神父さんのようにしっかりと聖書のお話が出来るわけではありません。

 だから、一般によく知られているイエスの言葉を取り上げて、一緒に考えます。

 「人はパンのみによって生きるにあらず」

 「あなたの敵を愛しなさい」

 そんな言葉です。

 「敵を愛するなんて、凄い!普通じゃない」と、学生さんが言います。

 確かに、本当に凄い。普通じゃない。

 しかしふと思い当たる。観音経にも同じようなことが書いてある。

 「恐ろしい戦いの中にあっても 観音の力を念ずれば 諸々の怨みは消えていく」

 それは、敵対関係、という関係性、敵か味方か、あるいは勝つか負けるか、あるいは奪い奪われ。

 そのような敵対的な自他の関係性を、イエスは愛によって、観音さまは「慈悲」によって変えてしまう。

 興味深いのは、イエス=キリストが愛を説き、観音さまが信仰されるようになった時期だ。

 いずれも2000年前頃という説がある。

 洋の東西で、同時期に、人間の関係性を愛・慈悲によって変えようとする宗教運動があったということ。

 2000年前、何かがシンクロして、人類の中に意識化された。

 と、そんなようなことを、学生さんとお話しながら、思った。

 
 

    

静かに座るひと時を

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430日 晴れ 気持ちのよい新緑の日

 

4月はやはりバタバタとしていて、この「住職日記」もなかなか更新できません。よく「忙しいという字は、『心』が『亡ぶ』と書く」といわれますが、何やかにやと寺のことや諸々と頂いているお役目の会議などをしているうちに、あっという間に月末です。なんだか、「心ここにあらず」で、こんなふうに日々が過ぎていくのが少し怖いですね。

皆さんは、この4月をいかがお過ごしでしたか?

私は、坊さんの修行としてはもちろんですが、こういう落ち着かないときには、心のメンテナンスのつもりで、夜のひと時座るようにしています。

座る、そう、座禅、瞑想、ですね。

もっとも、こんなときは、心身のリラックスも願うところなので、本格的に実修するというより、呼吸法を中心に「静かに座る」という感じですね。

ですから、部屋の明かりをほの暗くして、お香を焚き、静かな音楽も流します。私のお気に入りは、リラクゼーションやメディテーション用に作曲されているものですが、夜のひと時の静座の間、『ここに在らずの心』が戻ってくるような、そんな気持ちがします。


みなさんも、夜眠る前などに、5分だけでも、心身をほどいて、静かに座るお時間を持ってみてはいかがですか?

 

深い呼吸と静座。

何も足さない、何も引かない。

そんなCMが昔ありましたね。

焦りやイライラ、忙しいと、そんな気持ちがたまってきます。

そんなマイナスの気持ちだけではなくて、穏やかで柔らかな気持ちも、自分の中に持っていたいですね。

眠る前、一日の体の疲れをとるときに、深い呼吸と静座で、イライラや心配だけで眠る夜とは違う、少しやさしい眠りが訪れるかもしれません。

 

今夜から、そんなお時間をお持ちになってはいかがですか。

 

住職より

合掌

観音の大悲の桜咲きにけり

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4月16日 晴れ 桜満開ちょっと前 

長谷寺の桜もいよいよ見頃を迎えています。

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18日の春まつりは雨の予報ですが、きっと一週間くらいは楽しませてくれると思いますので、お出かけ下さい。

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観音の大悲の桜咲きにけり      子規

 

正岡子規の句です。

観音さまの寺の桜が咲いたよ、ということですが、「大悲」という言葉があることで、この句はとても味わい深くなりますね。

大悲とは、観音さまの心「大いなる思いやり」ということで、さかのぼれば「一緒に泣く」「共に震える」という意味があるそうです。この一緒に悲しむという心が、観音さまの『本心』でありその救いの力の働きそのものなのですね。

仏教では、この「悲」という働きが、他者の悲しみを癒し、傷ついた心を再生させると考えます。とりわけ大切なのは、悲しんでいる人本人が、その同悲の実践によって自ら立ち直っていくと考えるところです。誰かの思いやりを受けるだけでなく、他者への思いやりの発動こそが、自身の悲しみを癒していくのですね。

そんなことを踏まえて子規の句を読み直してみましょう。

子規の悲しみを桜の花が慰める時、子規は、そこに大悲つまり観音さまの働きを感じていたのではないでしょうか。観音さまは、その姿を無限に変化させて人々を救ってくださいますが、誰かがあるいは何かが私を癒し慰める時、その癒しの場には観音さまがお出でになるのだと思います。桜を見上げて慰められている子規の前に、桜という観音さまが現れているのです。

長谷寺には、たくさんの桜はありませんが、一本一本に観音さまの働きがやどり、皆さまをお待ちしております。

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住職より

合掌

住まいを看取る仕事

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3月30日 雷乃発声 晴れ 春を感じる


本日は、空き家となるお宅のお仏壇のお魂抜きのお参りをしました。

事情で家をたたむことになる方が増えている昨今、そんな住宅の片付けをしている友人夫婦に依頼され、時々、お仏壇や神棚の魂抜き(発遣)の法要をします。

長い間、そこに住んだ人が、先祖をまつり、たくさん拝んだ仏壇に、最後のお参りをします。だいたい、その時、その家に暮らした人はいません。亡くなってしまっているか、施設や病院におられます。ですので、この友人が、その人やその家族に依頼されて、あるいは自分で施主となって、この小さな法要を営んでくれるのです。


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遠く離れていても

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3月23日 曇り 晴れ 

 

実際に会ったことも少ないし、じっくり話したこともあまりないのに、気持ちが通い合う遠方に住む友人がいて、SNSでやり取りをしている時、ふと弘法大師の言葉を思い出しました。

 

古人は面談を尊ばず。

尊ぶところは道を同じくするに在るのみ。


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弘法大師空海像 京都智積院蔵


その心は、「昔の人というものは、顔を合わせて話すことよりも、離れていても、志を同じくして生きていることを尊んだものだ」という感じですね。


月がきれいな夜には

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3月12日 晴れ  

 

月の光でしか見えない世界がある。

 

昔、何かの本の中で出会った言葉です。

とても印象に残り、以来、私は月を見上げる人になりました。


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お坊さんの修行に入り、真言宗の瞑想に「月輪観(がちりんかん)」という、月の瞑想があることを知り、それは素敵だな、と思いました。満月を想い、その満ち欠けを想い、闇を照らす性質や、その清浄な美しさを想い、その清らかで汚れなく、自在独立の姿に、悟りへの想い、菩提心を重ねてゆく瞑想です。

 

思えば、長谷寺のある信州さらしなは月の都、と言われてきました。

更級の月、姨捨の月は、西行、世阿弥、芭蕉、一茶という日本の詩歌や芸能の巨人たちが憧れた特別の場所でしたが、それは、万葉の昔から、この更級という土地が格別に月の美しい場所であるからにほかなりませんね。

 

今日は美しい満月でした。

少し雲がかかり、やわらかな光が美しくもあやしい月でした。

その光が照らす世界もまた、昼間の姿は違う姿となって、私たちの目に映ります。

 

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こころが静まってくるようでもあり、ざわめくようでもある、満月の夜。

暦においては、月と共に生きてきた歴史の方が、はるかに長い人類の歴史を思うと、瞑想とまではいかなくても、もっと月を見上げ、月の光でしか見えない世界を感じる時間を大切にしていきたいものですね。

 

合掌

(住職記)

天気予報好きDNA

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3月7日 曇りのち雪 時おり吹雪く


亡くなった母親は、なぜかテレビの天気予報が好きでした。

朝、昼、そして晩と、主にNHKニュースの後半にある天気予報をチェックしていました。

 

そして冬なら「ああ、東京は明日寒いわね」とか「あらやだ、長野は本州で一番寒いわよ」とつぶやき、夏なら「見て見て、東京38度ですってよ」とか「まあ、長野でも35度なんて、いやねぇ」とぼやくのです。

 

東京の天気なんて、長野に住んでいるのだかどうでも良さそうなものですが、どういうわけか東京の天気をチェックしてはつぶやいたりぼやいたり。もしかしたら、離れて暮らす仲良しの姉妹たちが東京方面にいたからかもしれませんが、そうやって毎日朝昼晩、天気予報をチェックしていました。

 

思えば、天気予報も細かくなりました。

昔は、かなり大雑把な天気図で、担当の方も、「私の言っていることはあくまで予報ですから」というどこか弱気な感じが漂っていましたが、最近は違いますね。

 

母親の影響か、私も天気予報をしっかり見ています。

とりわけ才色兼備な女性気象予報士が自信満々に伝えているのを楽しみにしているわけですが、実は美しい気象予報士以上に、NHKの週末だけ登場するおじさん予報士の南利幸さんのファンなのです。あの駄じゃれ、おやじギャグがたまりません。なにか、おれも頑張ろう、という気になります。南さんは、地方の一寺院の住職を励ますつもりなど毛頭ないと思いますが、どういうわけか、ほのぼのとして、頑張ろうという気持ちになります。全国には、南さんのささやかな駄じゃれを楽しみにしている人がたくさんいると思います。今後とも、なにげない感じの、ダジャレで私たちをほのぼのと元気にしてください。


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ダジャレを飛ばす気象予報士 南利幸氏」より

私は、母のDNAのお陰で天気予報好きではありますが、予報そのものより、南さんのダジャレやお天気キャスターさんたち手を変え品を変えて気象の魅力を伝えるアイディアが楽しみです。

 

ところで今日の天気予報はと言えば、またまたピタリと当たり、午後から雪になり、夕方を過ぎてからだいぶ降っています。こんなに当たってしまうのも、なんだかつまらない気もしますね。「あ~した天気になぁれ」と下駄でお天気占いをしていた方が、天地自然と気持ちが通っているような気がします。

 

(住職記)

3月5日 啓蟄 晴れのち曇り

 

春は卒業の季節。

昨日は息子の高校の卒業式に参加し、しみじみ。

私の母校に通った息子は高校生活を大満喫し、部活動に、生徒会活動に、そして学業にと、正直、私の息子とは思えないほど真面目に、熱心に、そして楽しく取り組んでいた。

 

そんな息子たち卒業生たちを見つめ、30年以上も前に、自分自身もこの場所から巣立ったのだと思うと、時の流れの矢の如きに、やや途方に暮れる。

 

建物も、制服も、多くが当時とは変わってしまった母校ではあるが、校庭や新しい校舎の中庭の木陰などには、昔と変わらない姿があった。不思議なことに、日頃は全く思い出すことのないような30年以上も前の出来事や親しかった友達の顔が次々と蘇ってきた。

そして、なかなか会えなくなってしまった懐かしい顔が蘇る。

二度と会えなくなったしまった人も、ある。

 

卒業式は、若者にとっては、人生で初めての別れ。

愛別離苦の悲しみを知るレッスン、ともいえる。

そのせいか、卒業にまつわる名曲も多い。

誰もが、この別れの季節を彩る思い出の曲があるのではないかな。

最近は、学校で歌われる合唱曲にも感動的なものが少なくない。

 

でも、このような学校での別れの場で歌われるのは、世代を超えて歌い継がれる歌が良いように思う。やはり定番はこれでしょう。

 


 

 

ふりかえれば、私たちは、大切な別れの場面で、「ちゃんと別れる」ということが案外とできていないものですね。亡くなった作詞家の阿久悠さんはこう言っています。

 

「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」

 

しかし、阿久悠さんは最近の日本人は、ちゃんと別れることが出来なくなってきている、と危惧を抱いていたそうです。

皆さんはいかがですか?

卒業式は、そんな「さよなら史」を刻んでゆく大事な一歩ですね。 


(住職記)

うしれいひなまつり

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3月3日 桃の節句 晴れ。冷たい風、強し。


女の子の健やかな成長を祈る、桃の節句。


中国には数千年に一度だけ花を咲かせて実をつける不思議な桃を食べると不老長寿になるという伝説があるそうです。

その実を食べたのが、かの孫悟空。

そんな昔から、桃には不思議な力があるとされ、女の子の成長祈願のために、その神秘の力の加護が願われたのですね。

やはり、古代の人々のビーナスや大地母神への深い信仰を思うにつけ、母なるもの、生命を生み育む偉大な女性の健やかな成長は、私たち人間の基本的な願いのひとつですね。


私にも娘がありますのでこの季節には小さいながらも雛人形を飾ってお祝いします。

私自身弟と二人兄弟でしたから、こういう可愛らしい行事とは縁がありませんでした。

こうして娘を持ってみて初めて感じる桃の節句ならではの喜びや感慨、そしてまた幼かった娘が、少女へ、そしてまた大人びて成長していく姿には、そこはかとない寂しさのようなものもありますね。

これは男親だからでしょうか。




それにしても童謡「うれしいひなまつり」のこのもの悲しさはなんでしょう。

少しも「うれしくない」という響きです。むしろ悲しくなってきます。

でも、この哀調に、日本的な情緒を確かに感じますし、こういう喜びの中にも悲しみを感じ取っていくところに、私たち日本人の世界の感じ方のようなものがあるのかもしれませんね。

「うれしいひなまつり」の作詞をしたサトウハチローは、愛娘を若くして亡くしています。

そのためこの歌にはその悲哀がどこかに漂っているとも言われていますね。

「生きていれば、今日は娘の祝いの日だったなぁ」という詠嘆のような響き。

そんな悲しみがあることを知るほどに、幼い命よ健やかであれ、と祈らずにはいられませんね。

(住職記)

しわよせの日

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3月2日 晴れのち曇り。午後から冷たい雨。

 

お寺の会計事務を修行する。苦行。これぞ難行。

よく滝に打たれたりするのを苦行というが、やりたい人にとっては苦行でも何でもない。

好きでやってる人もある。

 

たまりにたまった会計処理の滝に打たれる方が苦しい(に違いない)。

 

苦とは、仏法では自己矛盾を言う。

春、卒業、好きな人と別れる、愛別離苦。

春、就職、嫌いな上司と会う、怨憎会苦。

私、会計、やりたくないのに、やらねばならない。嗚呼。


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かくのごとく、苦手なことを先送りしてしまうのは、私だけではないだろう。

先送りして、会計事務がたまりにたまった今月今日。

本日は、しわ寄せの日です。嗚呼。

シーツのしわを伸ばしていく。すると目の前はしわのないきれいな状態になる。

が、しわを寄せた方はくしゃくしゃだ。


それにしても「しわ寄せ」とは実にうまい言葉だ。

日本語には本当に見事な表現が多い。

 

しわ寄せって、英語でなんて言うんだろうか。

 

さっそくネットで検索する

(そんな暇があったら会計事務を片付けろ、という声が聞こえる)。

 

例文:社員にしわ寄せが行く

take a toll on the workers

 

というらしい。

「しわ寄せ」という視覚的なイメージはわきませんね。

でも、「toll」の語源を見てみたら、、、納得。

ギリシャ語の『税金』(笑)

 

何か見てくれを整えたり、やりたいことばかりしていると、

それなりに後で支払わなくてはならない、ということなのですね~。

 

お釈迦さまも仰っています。


すべては移ろいゆく。

怠らず、怠らず、励んでゆくのだ

 

勤精進。


今日は、一段と身に染みる言葉です。

 

(住職記)

温かな陽ざしに誘われて

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温かな陽ざしに誘われて

 

3月1日。晴れ。

朝は冷え込んだけれど、春めく陽射しで10時頃にはだいぶ暖かくなった。

そんな温かさに誘われて、毎月の命日に「月参り」をしているお檀家さんのお宅に歩いていくことにする。

お寺の石段を歩いていくと、散歩をしている人とすれ違う。

みんな春に誘われて出てきたのだな。

啓蟄は近い。(虫と一緒にしてはいけないかな(笑))

 

月参りのお宅では、お仏壇で一緒に般若心経をお唱えする。

今日は御詠歌も唱えさせて頂いた。

お経が住むと、いつも奥さまとのお茶のひと時。

信州はお茶のみ文化が高度に?発達しているので、誰かが家に来るといろんなお茶うけが並ぶ。

私もそれがいつも楽しみ。

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美味しいお茶と漬け物を頂いて失礼する。

ちょうど昼時で弥生の陽射しはとても温かだ。

お寺への道を、どこを歩いていこうかと思いながら選んだのは、車道がなかった昭和30年代まで、村の人たちがお寺に登っていくのに行き来していた畑の中の道。

「ほら、あの道を通ってみんなお寺へ来たもんだ」

と、子供の頃に父に聞いたのを思い出した。

その畑道に入るとすぐに、足元にオオイヌノフグリがたくさん咲いているのに気がつく。小さな花なのに、その淡い青を輝かせて春の到来を告げている。

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この畑道は、しばらく行くと『鶴萩古墳』という古墳の横を通る。

一件小規模な円墳だけれど、中の石室には巨大な石が用いられるなかなか立派な古墳だ。どんな人が埋葬されたのか知る由もないが、その先室への入り口にもオオイヌノフグリはたくさん咲いていて春ののどかさもひとしおだ。

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日当たりのよい場所には少し気の早いタンポポも顔を出していた。

 

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まだ朝夕の寒さは厳しいけれど、確かに春を感じる信州さらしなです。

 

こんな季節の長谷寺もいいですよ。

こころ穏やかになる、少し温かな春の日に、観音さまにお参りください。

(住職記)

いのりのしずく

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小児科医の細谷亮太先生のお話しを通じて、小林一茶の句を味う機会を得た。

 

一茶は、家庭的には実はとても不遇の人だった。それは、一茶の句に親しむうえでは、とても大切なことだと思う。よく知られているのは、ようやく授かった我が子に死なれてしまった時の句だ。

 

露の世は 露の世ながら さりながら 

 

一茶は、仏法にも明るい人だった。その仏法に照らすまでもなく、世の無常は理解していたし、まさにこの世は露のようにはかないものである。

そのことはよく理解している。

しかしながら、いったいなぜ、どうして我が子は逝ってしまったのか、なぜなのか、、、。

この「さりながら」に込められた、あるいは、ここから滲み出してくる、怒りとも嘆きとも悲しみともいえる、思い。。。。

大切な人を亡くした方には、静かに響いてくる句ではないでしょうか。

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かの哲学者・西田幾多郎も我が子を失った時の思いを語ります。

「人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡すべての傷を癒やすというのは自然の恵めぐみであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である」。

 

一茶にはもう一首、私たちに胸に響く句があります。

 

蛍来よ我拵し白露に 一茶

(ほたるこよ わがこしらえし しらつゆに)

 

蛍は、古来、先立った懐かしい人の魂とされます。

一茶は、夏の夜に舞う蛍に呼びかけています。蛍よ、こちらにおいで、この私の用意した滴のもとに、と。まるで有名な『ほ、ほ、蛍こい、あっちの水は...』の歌のようですが、この句は、亡くした娘を偲ぶ句なのだそうです。幼くして亡くなってしまった娘の魂を呼んでいるのですね。

蛍は、夏の夜に、草花の葉先などに自然と結ばれる水滴を求めて飛んできてとまります。

蛍.jpg

山陰観光【神々のふるさと山陰】旅のポータルサイト


一茶はどうでしょう。そんな滴を乗せた夏草のそばにいるのではありませんね。そうではなくて、「我が拵えし白露に」と言っています。私が用意した露のもとにおいで、と。

では、一茶はその白露をどのようにしつらえ(用意し)たのでしょう。井戸から汲んできたのでしょうか?そうではありませんね。

細谷亮太さんは「それは一茶自身の念によって拵えた露だ」と仰いました。

一茶自身の念によって、、、。 

みなさんは、この「白露」をどう思いますか。

亡き人を、強く強く強く思い(念い)、その思いを凝縮していく。

それによって、一茶の手のひらには、ひとしずくの白露が結ばれる。

あるいは、それは乱舞する蛍の中に、一茶の方に迷い舞ってきた一匹の蛍があり、そこに娘を感じて思わず零れ落ちた一茶の涙であったかもしれません。

いずれにしても、その「白露」は、娘を偲んで止まない追慕の念によって拵えられたものなのですね。

 

季節はまだ春浅く寒い日々は続きますが、一茶の句を味わい、心は夏の夜の蛍を思いました。

 

2017年8月

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