住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

住職の独り言: 2010年5月アーカイブ

昨日は、先輩のお坊さんの晋山式@軽井沢でした。

法要の最後に、体調を崩しているお父様(先代住職)が車椅子で登場し、声にならない声を振り絞って退任の挨拶をして新住職にエールを贈ったのでした。

50年という長い年月、住職をつとめた方です。

私の父の大変親しい友人でもあり、その病まれたお姿は、お元気だった頃の姿を知るものにとっては、とても痛ましいものでした。

介添えの僧侶が、マイクを手に持って口元に近づけると、それをさえぎって自らマイクを手に取られました。

どのようなことを仰るのかと、心して耳を澄ましました。

しかし、マイクを使っても、何を仰っているのか聞き取ることは出来ないのでした。

けれども、声を振り絞って何かを語りかけているのはしっかりと分かります。

何を言わんとしているのか、その具体的な事柄よりも、むしろ言葉にならない声と、伝えんとするその必死の仕草において、師から弟子へ、先代から新住職へと、大切なものが伝わっていったに違いありません。

その姿は息子である新住職さんにも、檀家さんたちにも、深く心に刻まれたことでしよう。

まさに万感の思いを継承する場面に立ち会うことが出来て感激でした。

思いを継いでいく。

そういうことが成り立ちにくい時代の風潮ですが、寺という場は、代々の住職というだけではなく、その地域の人々にとっても、そのようにして世代を超えていく一筋の思いが、静かに、しかし確かに流れていく場でもあると感じたのでした。

おめでとうございました。

葬式不要論略縁起

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「葬式いらない」「戒名いらない」という発言の背景にある意識は、家族とか親戚とか地域という血縁や地縁をベースとする帰属意識から、良かれ悪しかれ自由になった人のものなのだろうし、そのような意識に向けて語りかけられている言葉だと思う。

これに対して、従来の葬儀や結婚式というものは、儀式の機能から見ると、血縁や地縁の帰属意識を強化する働きがあったと思う。
地縁や血縁に基づく結束力を維持していなければ、農業をベースにする生活は営めないのだから。
当然、日本の仏教は、こういう地縁と血縁を基礎とする地域社会のものであった以上は、その帰属意識に向けて語られる言語によって発展してきたものだ。

その意味で、従来の地縁・血縁の帰属意識から離脱した都市生活者にとっては、伝統的な葬儀や仏教寺院や僧侶のあり方は、せっかく「自由」を獲得した心身を再度回収しようと迫ってくるものだ。

都市に住み世代を重ねれば、あらたな血縁や地縁に帰属していくこともあるから、中には逆に伝統的なスタイルの葬儀や寺院や僧侶に違和感を感じない人もあるかもしれない。

しかし、都市生活というものは、伝統的な地縁や血縁から離脱した人によるものだから、伝統的なシステムとの幸福な出会いは困難だろう。それらは「自由」を妨げる「悪」に映ることさえあるのではないだろうか。

葬式不要論の発言に目くじらを立てるより、発言のこうした背景に目を向けて、従来の帰属意識とは別の意識を基本にして生活している都市生活者にとってふさわしい葬送の形を模索していくべきではないだろうか。

もっとも、伝統的な価値観に依拠している寺院と言ってはみるものの、僧侶が伝統的な学びや修行を真に実践していないのだから、やっぱしこういうのって説得力ないなあ。

福岡伸一さんのダイエット論

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NHKに生物学の福岡伸一さんが出演していた。

 

と、その前に、私は実は食べるのが早い。

もっとよく噛んだ方が良い、と自分でも思うし、女房にも指弾いや指摘されている。

いただきます、と一緒に食べ始めたら、同席している人が何人いても、概ね最初に食べ終わってしまう。

かつて、本山の修行道場では、こんなことがあった。

私は若いお坊さんたちの生活指導をしていたことがある。

そこにF君という好青年がいて、私の仕事のサポートしてくれていた。

私とF君とで、30人ほどの若い坊さんたちと暮らしていたわけである。

まさに寝食を共にするという毎日だったのだが、ある日、F君がこう言った。

「ひとつだけ、お願いがあるんですが・・・」

「エ、なんだい?」

 

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