住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

住職の独り言: 2015年11月アーカイブ

身は花とともに落つれども

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身は花とともに落つれども

心は香とともに飛ぶ


弘法大師空海 『性霊集』より

 

私たちは、この世に生まれたからにはいつかは死んでいかなくてはなりません。

昔から、遅れ先立つのはこの世の定めという通りです。

しかし、その限りある人生をいかに生きるか。

生れ落ちた境遇や条件は人によって違いますが、大切なのは毎日の過ごし方なのですね。


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弘法大師の上の言葉は、私たちのこの肉体は、咲き開いた花がやがて散るようにいつかは落ちてしまうものである。

しかし、善き人生を送った人の心は、花の香りが散った後も遠くまで飛ぶように、みほとけの浄土に昇る。

そして、そのかぐわしい香りは残された人の心にいつまでも残るだろう、という意味です。

 

短い言葉ですが、私たちに『かけがえのないあなたの人生ですよ』と、静かに語りかけていますね。

季節は秋から冬。

春から夏へと咲き誇った花の姿はなく、錦秋に照り輝いた葉も散り終えようとしています。

晩秋から初冬のひと時、この言葉とともに来し方を振り返ってみてはいかがでしょうか。

千四百万年の寺づくり

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千四百万年の寺づくり

 

「寺離れ」が進行する今日、私が地域における菩提寺の役割を考える時、いつも思い起こす出来事があります。私はこのエピソードの中に寺が蘇るヒントがあるのではないかと思っています。

 

屋久島に、今は亡き宗教詩人の山尾三省さんを訪ねた時のことです。

自ら軽トラックを運転して島内の案内をしてくれた三省さんは、「この車にエンストしないように走ってもらうには特別な技術が必要なのです」と笑いながらハンドルを握り、美しい滝やガジュマルの巨木、詩に描かれた東シナ海を望む浜辺へと連れていってくれました。

詩人と一緒に水の流れや一本の樹を見つめていると、目の前に広がる景色が何かを語りかけてくるように思われました。

やがて、プスン、パスンと音をたてる軽トラックが西部林道に差し掛かり、ヤクシカの群れがトラックの前を横切った時、詩人は車を止めて原生林へと私を導きました。そしてヤクシカの跡をたどって照葉樹の森へと分け入って行くのです。

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三省さんの後について森の奥へと入っていくと、涌き出たばかりの小さな水の流れがあり、詩人は裸足になってその小川に入ると、透明な水の中から小さな小石を拾い上げて言いました。

 

「この石は巨班正長石といって、千四百万年前に屋久島が海底から隆起した時にできたといわれています。」

 

私は素直に感嘆し、三省さんの掌に転がるその小さな石に見入りました。すると三省さんはその小石を私の手に握らせて、こう言いました。

 

「ほら、あなたの手の中には今、千四百万年という時間が握られています。一緒に、その途方もない時間を感じてみましょう」

 

詩人の言葉に促されるように、私は掌の小さな小石を握りしめ、その気が遠くなるような長い時の流れを思いました。

この時、原始の森のただ中で、私は何を感じていたのでしょう。

今あらためて振り返ると、私は目の前の小さな石から千四百万年という長大な時の流れを感じていたばかりではありません。

そのはるかな遠い過去から現在においても変わることがなく、そして遠い未来においても変わることのない何事かを、そのちっぽけな石から感じとっていたように思われます。

今でも瞳を閉じると、あの時の原始の森の気配や石の感触が甦り、その三世常住ともいうべき大いなる世界を思うのです。

 

この忘れ難い、印象深い出来事が、地域における寺院の役割を考える時、いつも思い起こされてきます。

寺院空間というものも、あんなふうにして私たちが大きな大きな世界に出会うための場所なのではないでしょうか。

かつて、日本に仏教が渡来した当時、人々はその仏像や教えを「三国伝来」といいましたが、この言葉にはインド、中国、日本というローカルな価値観を突き抜けた、仏教の世界性や普遍性がよく表れていると思います。

きっと私たちの祖先は、揺れ動く時代の価値観に左右されがちな人間には、おおきな世界、今風に言うなら普遍的な思想や世界観や人間観に触れることが大切であると知っていたのでしょう。

だからこそ、そのような大きな世界として仏教を求め、その世界に触れるための場所として寺院を建て守ってきたのだと思います。

そのような意味で、菩提寺というものは、地域における「屋久島」として人々が永遠なるダルマを感じ、その普遍的な世界と出会う場であり続けたいものです。

しかし、その「屋久島」の奥深い魅力も、正しい道案内をするガイドが必要です。詩人がポンコツの軽トラックで私を導き、その言葉と深い眼差しで私を促し、たった一つのちっぽけな小石から長大な時の流れの世界へ、そして三世をつらぬくダルマの世界へといざなったように、私たち僧侶も地域の人々に「小石」を手渡すものでありたいものです。

(東京観蔵院寄稿文より)

一日の安心と元気は仏壇から

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■一日の安心と元気は仏壇から

朝、仕事や学校に行く前に、仏壇に手を合わせると、手を合わせないより必ず良い一日になります。

不思議ですが、確かに毎朝のお参りは私たちに安心と元気を与えてくれます。

なぜ「朝の祈り」が一日に安心と元気を与えてくれるのでしょうか。

それについてある道を求める師が次のように語られました。

 

どんなに日でも、それは未知の一日です。

何が起こるかわかりません。

それは無意識の不安となり、私たちの行動を委縮させます。

つまり元気が出なくなるのです。

しかし、そんな無意識の不安を放置せず、神仏や祖先に「お守りください」ときちんと祈ることによって、私たちは「よし、大丈夫だ」という気持ちを得ることができます。(宗派によっては、神仏や先祖にいろいろと願い事をしてはならないという教義もありますが、あまり深く考えず、まずは見守ってほしいという心を持ち、神仏や祖先を身近に感じることが第一歩ですね)

この「よし、大丈夫だ」という気持ちで一日をスタートするのか、反対に不安なままスタートするのかでは、その人の言動、判断、表情などのすべてに違いが表れます。

「よし、大丈夫だ」という気持ちで家を出る人は、その日一日が祝福され、明るいものとして進展していきます。

しかし不安を抱えたまま家を出ることは、すべてにおいて不安と萎縮があり、能力も十分に発揮することはできません。

あう人も、私たちのそのような気持ちを無意識に感じ取り、接し方もお互いに影響されるでしょう。

自分の能力や人間関係など、それらを好転させていくうえで、「よし、大丈夫だ」という気持ちで一日のスタートを切るのは、魔法をかけるほどに大きな意味があるのです。

そのようにして、朝のわずかなひと時でも仏壇に手を合わせるのは、私たちに安心と元気を与えてくれます。

 

■合掌礼拝で毎日を元気に

 お祈りの仕方は、宗派により、次第や作法を言い出せばきりがありませんが、肝心なことは、姿勢を正して手を合わせ一時でも静かな気持ちになることです。

そして、ご先祖様や亡き人に対する「ありがとう」という感謝の気持ちで心を満たし、その感謝の気持ちで一日を過ごすと願うことです。

ご先祖に向けて、こうしてきちんと手を合わせ、「ありがとう」という感謝の気持ちを起こして一日をスタートする。

たったこれだけのことで、私たちは「よし、今日も大丈夫だ!」という安心に包まれ、自信がわいてきます。

こうして朝の仏壇のお祈りによって、私たちは元気になるのです。

そのような気持ちを一日一日と積み重ねていくと、笑顔も明るくなり、態度やしぐさもさわやかなものになるでしょう。

 

■「朝のお祈り」のご利益

 この「朝のお祈り」の時間は、食事の前や、出勤・登校の前が良いでしょう。

特に若い人やお子さんには、親御さんや祖父母のみなさまから進めましょう。

要する時間は一〇秒で充分です。(もちろん、もう少し長い方が望ましいですよ)

ただし、きちんと姿勢を正し、きちんと手を合わせることが大切です。

そして心を込めて、丁寧に鐘を鳴らしましょう。

ゆっくりと良い音がするように鳴らし、その余韻の間「ありがとう」の気持ちで心を満たしましょう。

静かに長く息をしましょう。

こうした感謝の心を生じさせる「朝の祈り」は、私たちの「怒り」とか「憎しみ」とか「むさぼり」という心の働きを抑え、反対に「許し」や「思いやり」や「与える」という心を自然と育てます。

思い浮かべてください。

「ありがとう」の気持ちで満たされている自分と、「このやろう」の気持ちで満たされている自分と、どちらがより望ましい自分でしょうか。

そして、日々の積み重ねがやがて運命を導くなら、どのような気持ちの自分で生きていくべきか、もはや考えるまでもないでしょう。

こんな言葉があります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

マザー・テレサ

 

お仏壇の祈り。
亡き人や祖先を偲ぶひと時。
手を合わせ、静かな呼吸に導かれて、「ありがとう」の気持ちが満ちてくる。

その心は、先祖の供養にとってはもとより、私たちの人生にとっても素晴らしい喜びをもたらしてくれるものですから、どうぞご家族ではじめましょう。

姿勢を正し、手を合わせ祈りの習慣を持ちましょう。

ナニゴトノ不思議ナケレド

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薔薇二曲

 

薔薇ノ木ニ

薔薇ノ花咲ク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

 

  

 

薔薇ノ花。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。

光リコボルル。

北原白秋 『白金之独楽』より

 

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北原白秋(明治十八~昭和四十二年)は明治末から大正、昭和にかけて活躍した詩人です。

詩人といっても、和歌、童謡、民謡にいたるまで幅広い活躍をした多芸多才な人で、篠ノ井で「更級節」を作詩した当時には長谷寺にも立ち寄りました。

上の詩「薔薇二曲」には、誰もが「当たり前」と、つい見過ごしている出来事を前にして、ひとり立ち止まって自然の不思議、いのちの神秘を感じている深い眼差しがあります。

私たちは誰もが詩人のような感性を持つことは出来ません。

けれども、たとえば亡き大切な人の命日など、ふと私たちが生きていることの不思議が胸に迫るときもあります。

幾世代も連なったいのちが、そして多くの縁(えにし)のお陰さまに支えられるいのちが、今ここで「わたし」として花咲いていること。

当たり前、ではありませんね。

ありがたいことです。

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