「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」
仏教の最近のブログ記事
宗教学者の島田裕巳さんが『葬式は、要らない』という本を出版し売れている(と、今朝の新聞広告に書いてある)。
実はまだ読んでいないから感想や書評というわけではない。
以前、島田さんの「戒名」についての本を読み考えさせられることが多かった。
氏はその後も私たち既成の仏教界・寺院に対して、概して手厳しい内容の書物を著しているから、今回もタイトルどおり、また新聞の大きな広告のとおりに、今日の葬送をめぐる寺院や僧侶また葬祭業者や、それらのビジネスに流されている現代人のあり方に対する批判的内容、そして「先進諸外国」との比較による『あるべき葬式』『新しい葬儀のスタイル』の提案であろう。きっと日本のお坊さんが嫌いなんだろうなあ。
そういえば、有名な白洲次郎さんは、「葬式無用、戒名不要」と遺言したという。かっこいい。
でも、遺族と親しい友が集まって酒盛りをしたという。それは、葬式であろう。
でも、彼を評して「風の男」って、それもある種の戒名であろう。
だから、葬式は必要なのだ、戒名も必要なのだ、と威勢よくこの本のタイトルに文句をつけようというわけでは、ない。
ただ、こうした批判の矛先になっている僧侶や寺院、または業者のあり方が、日本全国津々浦々の全部の僧侶や寺院、業者のありようではないと思うのだ。都市型の問題意識が、全国にすっぽり該当するわけではないのに、大手の出版社の広告や記事は、全国に行き届いてしまう。メディアは、あんまり無頓着に都市型の事象や問題意識を流してほしくない。それは「寝た子を起こすな」と言うのではなくて、現代的な観点や価値観にのっとって批判しようとすれば、地方の文化などは、どれもこれも批判できるし、また逆に、「これでいいのだ」と言う肯定がしにくいものなのだ。ことに若い世代は、都市型のモードや論理や価値観に沿っていき易いから、面倒な人間関係や手続きや知識を必要とする地方の伝統的な文化や習俗は、その意義を吟味する猶予もなくまるで「文化大革命」みたいになってしまう。
今日、チベット問題は暗礁に乗り上げている。
国際的な中国の地位向上に比例して、その問題の解決に向けて他国は中国政府に言い難い状況が進む。
その一方で、中国は国際社会での存在感が増すにも関わらず、この問題を解決しないでいることは、他国からの信頼を得られないことになる。
私たちはいったいどんなスタンスを取っていくべきなのだろうか。
ダライラマ法王日本代表部のサイト内に、過日開かれた国際的なチベット問題に取り組む集まりの宣言が紹介されている。
僕も参加している、日本の僧侶たちの集まり「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」も、問題提起をしながら、どのような活動を展開していくべきなのか、模索が続いている。
そんな僕らにとって、この宣言はひとつの大きな指針を与えてくれている。
代表部のサイトからの引用ですが、お読み下さい。
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第5回チベットに関する世界議員大会は、2009年11月19日、「チベットに関するローマ宣言」および今後数年間の行動計画を採択して幕を閉じた。
もう終わってしまったので宣伝ではありませんが、12日に千曲市の「アートサロン千曲」で、板画家の森獏郎さんと「木喰」をめぐっての対談をしました。
といっても、私は木喰仏についての見識もなく、それについての強い関心を持っているわけではないのですが、木喰さんが真言系統の修験の修行をしたり、作品に添えて歌われている数々の和歌に、空海とか阿字といった、真言宗のキーワードが頻出するので、そのあたりについての話しをしよう、と獏郎さんに誘われ蛮勇を奮って挑んだのでありました。
獏郎さんは、こんな人ですと一言で説明するのは困難な人物ですが、千曲市の森というところにお住まいで、基本的には「板画」を彫り、棟方志功の系譜を真っ当に継承している作家だと思いますが、その他に、詩人であり、俳人であり、民芸の研究と実践家であり、郷土史の研究者であり、ちょっとだけ市会議員であった時期もあり、種田山頭火、小林一茶の深い読み手であって研究者であり、まあそれでいてちゃんとご家庭もあって、なんだかよく分からないのですが、そういういろんなことを同時にやって、いつも会うと「オラはもう腰は痛えし、酒も飲めなくなったし、じき死ぬだな」というのだが、いつも異様に元気だ。初めてお会いした時も「もうじき死ぬ」と確かに言っていたが、いっこうに死ぬ様子はないどころか、ますます元気だ。どうなっているのだろうか。
木喰さんもそうだ。
最近、いろんな場面で使われる「戦略的云々」という言葉。
これって、どうなんでしょう。こういう表現でしか、伝えられないものなのかな?
例えば、私たちの真言宗智山派には教化部という仏教の教えを世に広めるための専門部署がありますが、そこに「仏法布教戦略局」という看板を掲げるとすると、やはりなんか違うぞ、という気がする。
「戦略」という言葉は、英語のStrategyからきているらしいが、この言葉を訳せば戦略というより「方策」という言葉になるべきで、攻撃的、戦闘的ニュアンスは本来含んでいないものだと思われる。
戦略的、と言うと、仮想であれ何であれ、敵対的な存在が想定されている。
今日は、歯の話。
四世紀に、インドからスリランカに伝えられたというお釈迦さまの左の犬歯をまつるお寺がスリランカにある。スリランカの仏教徒のあつい信仰の対象となっていて、歴代王朝守護の宝物、王位継承の印として常に大切にされてきた。従って争奪もくり返された。現在はこの仏牙をまつる仏牙寺、または仏歯寺があり、ヌワラに祀られているそうです。スリランカ第一の名刹であり、平常は仏塔型の黄金の容器におさめられ、時には公開されるといいますから、お参りしてみたいですね。
仏さまには三十二相=完全無欠な容姿が備わっているといわれますが、こんな歌があります。
弥陀の御顔は秋の月
青蓮(しょうれん)の眼は夏の池
四十の歯ぐきは冬の雪
三十二相春の花
夫は五つの方法で妻に奉仕しなければならない。
一、尊敬する
二、軽蔑しない
三、道から外れたことをしない
四、権威を与える
五、装飾品を与える
『長部経典』-シンガーラへの教え-
お釈迦さまの肉声を多く伝えるとされる原始仏典の中には、難しい言葉は見られません。
分かりやすく、相手の人格や能力や環境に応じて具体的な生き方を説き、今日にも見事に当てはまる内容のものがたくさんあります。
↑の教えは、、、
観音さまの歌
観音さまほど古来から私たちの国で親しまれてきた仏さまはいらっしゃいません。
その救いの心は、長い年月の間に日本人の文化の基層や私たちの心の深いところにまで染み渡り、根づいています。
それだけにお寺ばかりでなく、実に様々な場所にまつられたり描かれたりします。
なかでも、今様といわれる昔の流行歌や和歌、漢詩や俳句などに数多く歌われてまいりました。
そうした中からいくつかご紹介したいと思います。
古来の人が観音さまに寄せた想いや、今の私たちの心にも通じるものをお感じいただけるかもしれません。
じっくりと声に出して読み味わってみてください。
●今様(中世の流行歌)
観音深く頼むべし
弘誓の海に船うかべ
沈める衆生引き乗せて
菩提の岸まで漕ぎ渡る
昭和、平成を代表する仏教者である松原泰道老師が亡くなられた。
偉大な僧の死は遷化というが、まさ松原先生はこの世での教化を終えて、あの世の教化へと遷っていかれたのだ。
101歳だった。
老師には長谷寺の法話会にお越しいただいたことがある。
もう10年以上も前のことであるが、私は長谷寺でも法話や講演会を開催して学びの場を作りたいと考えていた。
その話を知人にしたところ、彼が松原先生を紹介してくれたのだ。
そこで、長野市の刈萱山西光寺で開かれた「南無の会」に講師としてお越しになっていた先生とお会いすることになった。
初めて目の当たりにする老師は、すでに90歳になっていたと思うが、そのような年齢を感じさせなかった。
その日の法話が何であったかよく憶えていない。
私は、その顔や声の響きや立ち姿に見とれていたらしく、肝心の話をよく聞いていなかったらしい。



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