住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

仏教の最近のブログ記事

今日はお釈迦さまの誕生日

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48日 花まつり お釈迦さまの誕生日

 

今日は「花つまり」お釈迦さまの誕生日(降誕会)。

お釈迦さまは、今から、2500年ほど前に、インドの北、今のネパールのあたりにありました釈迦国という小さな国の王子としてお生まれになりました。

ルンビニーの花園で、お母さまの右脇からお生まれになるや直ちに北に向かって七歩あゆんで、右手で天を、左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と唱えられたと伝えられます。王子は、シッダールタ、全てを叶えるもの、と名づけられました。


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 (画・牧宥恵)


そして、健やかな成長の中で、シッダールタ王子は、深く人間の生老病死の「苦」を見つめ、その苦しみが永遠に輪廻する世界からの真の解放(解脱)の道を求めて、29歳の時、家族も地位も財産も捨て、ひとり出家されたのでございます。

それから、髪をそり、ボロをまとい、真理をたずね、師を求め、命がけの苦行をし、かつて誰もしたことのなかほどの断食をきわめて6年の間ひたすらに真理への道を求めて参りますが、いずれの道にもシッダールタは満足できず、それらを離れ、それらを超えて、ひとり心身を調え、かの菩提樹のもとで深い瞑想に入られます。

 

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(菩提樹)


そして長い瞑想の末、目覚めを妨げる悪魔マーラーを退けて、シッダールタは12月8日の朝、明星の輝くころ、悟りを開き、ブッダ=目覚めた人となったのでございます。

以来、80歳でクシナガラの沙羅の林で入滅されるまで、自ら目覚めた解脱への道を、人に応じ、苦に応じ、病に応じて説き示し、多くの人が弟子となり、多くの人が慰められ、多くの人が帰依し、その法は、時を超え、国も民族も越えて、今日に伝えられています。

 

どうか、多くの皆さまに、お釈迦さまとのご縁がありますように。

その善き教えと、皆さまが出会われますように。

この世に、お釈迦さまの教えが広まり、長く伝えられていきますように。



 

南無釈迦牟尼如来

南無釈迦牟尼如来

南無釈迦牟尼如来

 

合掌

(住職記)

すきなことば

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46日 晴れ 春らしくなってきました

 

今日は、長谷寺とも縁のある詩人の故・山尾三省さんの詩から、私の大好きなものをひとつご紹介します。


ことば

        山尾三省

 

あなたはどんなことばがすきですか

海ということば

森ということば

いのちということばが

すきですか

それとも

平和ということば

やすらぎということばが

すきですか

それとも

争いということば

憎しみということば

むかつくということばが

すきですか

 

それともまた

しらけるということば

切れるということばが

すきですか

 

私は今

いのちということばと

やすらぎということばが

とてもすきです

 

いのちということばには

わたくしの光があります

安らぎということばには

わたくしの涙があります

 

あなたはあなたで

わたくしはわたくしで

もろともに

ほんとうに心から好きなことばをみつけて

そのことばを大切にし

そのことばを生きていくのが

人間であり

人間社会であると

わたくしは思います

 

いのち

やすらぎ

 

あなたはどんなことばがすきですか

*           *              *              *

 

長谷寺は仏教の中でも真言宗の教えを伝えています。

真言というのは、字の通りに「まことの言葉」ですが、それを教義として宗教哲学的に理解し体解するのは容易なことではありませんね。

仏の道は、悟りや救いの道として人類の宝である一方で、良寛さん「釈迦といういたずら者が世に出でて世間の人を惑わするかな」という歌があるくらいですから、その『難しさ』というのが立ちはだかって、私たちの意識を遠ざけてしまいますね。

この三省さんの詩は、実は、そういう難しく感じられる仏の道を、分かりやすく語ったものでもあります。

「ほんとうに心から好きなことばをみつけて、そのことばを大切にし、そのことばを生きていく」こと。それが、真言宗という、まことの言葉を生きていくということに通じていくのですね。

愛とか、思いやりとか、感謝とか、誰でも大切にして生きていきたい言葉ってありますよね。モットーとか、座右の銘とか、いろいろといい方はありますが、本当に真心から日々大切にして生きていく言葉。自分の人生を、その言葉とともに歩んで行けるような言葉と出会えたら、それはなんて素晴らしいのでしょう。

みなさんは、どんな言葉がお好きですか?

時々、静かに見つめなおしてみてはいかがでしょうか。

合掌

(住職記)

死別のレッスンとしての涅槃会

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3月15日 涅槃会(やしょうま)晴れ  

 

信州では月おくれとなる本日、長谷寺におきましても、お釈迦さまの涅槃会が営まれました。

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午前と午後、あわせて150人ほどのお参りを頂いて、皆さんとともにお釈迦さまへの報恩と追慕のお祈りをしました。

 

涅槃会は、その遺法の末世の弟子たる私どもが、出家も在家もともどもに、お釈迦さまへの報恩の誠をささげる法会です。しかしそれだけではありません。


いのちのちかい

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3月11日 晴れ 

 

いのる、ということ。

 

日本語は、その語源をさかのぼると、私たちの祖先の心を今に伝えています。

「いのる」という言葉<やまと言葉>は、「い」と「のり」に別れるそうです。

「い」は、息とか、息吹にもあるように「いのち」を意味する言葉。

「のり」、天皇陛下の「みことのり(詔)」とか、神主さんの「のりと(祝詞)」にみられるように、うそ偽りのない言葉、神仏の前での誓いの言葉、というような意味を持つ言葉だそうです。

 

すると、「いのり」とは、「いのちの誓い」という意味になります。

 

つまり、私たち日本人の祖先は、カミ(神)や死者の魂、祖先の霊の前で、「いのちの選手宣誓」をしていたわけですね。

 

間もなく春の甲子園大会。高校球児の精一杯のプレーを見ることができます。

あの開会式の選手宣誓では、どんなことを誓いますか?

「宣誓、われわれは、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々、最後まで全力を尽くして戦うことを誓います」

だいたい、こんな感じですね。

では「いのちの選手宣誓」としてのいのりでは?

 

「せいいっぱい、生きることを誓います!」

そう、誓っているのではないでしょうか。

それが、日本人にとっての、祈り、なのですね。


神仏の前で、祖先の前で、祈るということは、一生懸命、ベストを尽くして、与えられた場所で、限りある命を生きてまいります。

そう誓うこと、それが、いのり。

いのちの祝詞、いのちの誓い。

 

今日は、東日本大震災の七回忌となる祥月命日でした。

幾万の尊い命が失われました。

その犠牲となった一人ひとりの方のみ霊の安らかなることを、祈る私たち。


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(田老町にて)


それは、犠牲となった方々のみ霊に誓うことなのですね。


「私たちは、せいいっぱい、生きてまいります」と。

 

合掌

(住職記)

地獄コール

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3月6日 蟄虫啓戸 うす曇り 穏やか

  

私は、小学校の読み聞かせをしています。

毎週月曜日、「今日はどんな本を読もうかな」と、子供たちの顔を思い浮かべながら、本を選ぶ楽しみがあります。

 

もっとも、私の場合、子供たちは私の職業を知っているせいか(村のお寺の和尚なので)、決まった傾向の本を期待しています。

 

それは「地獄」に関するもの(笑)

 

名著『じごくのそうべい』をはじめ、最近は紙芝居の『小僧さんの地獄めぐり』など。お寺の地獄図を持っていったこともあります。

「こんなのでもいいですか?」と学校の先生に尋ねました。

「ぜひぜひおねがいします」とのこと。

 

 

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子供たちはじごくが大好き(笑)

ある時は、違う本を持っていったところ「え~地獄の話じゃないの~つまんな~い」「地獄がいい!」「ぼくも~」「地獄っ地獄っ」「じーごーくー」と地獄コール。

 

娑婆からの地獄コールに、閻魔大王も苦笑いのことと拝察します。合掌。

 

それならば、と期待に応えて、大いに気合を入れて「小僧さんの地獄めぐり」を読んだところ、げんなりしてしまう子もありました(汗)。


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この紙芝居、絵が素晴らしいので、想像力や感受性が豊かな子には、インパクトが強すぎるかも。どうか悪い夢を見ませんように。

 

この紙芝居、ひろく現代っ子(老若男女)の皆様に、強くお勧めします。

おじいさん、おばあさんは、お孫さんにプレゼントしましょう。

さし上げるだけではだめですよ。

必ず、気合を入れて、読みましょう。

 

読みながら、きっと思うはず。

閻魔さまが、ずっと見てたのかな。。。と。

わたしは、だいじょうぶだろうか。。。と。

 

お釈迦さまは仰います。

悪いことをせず、善く生きて、こころを清らかにしよう。これが仏の教えである。

 

閻魔さまが、ジロリとご覧になっています。

 

(住職記)

檀家さんこんにちは

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私とお寺とのご縁。人とお寺とのご縁。

檀家と菩提寺という関係の中で、日本人はどんな心を育んできたのでしょう。

個人を大切にする現代のライフスタイルが進んで、従来の共同体つまり地縁・血縁に基づく文化や価値観は、現代の人には好まれなくなっています。

それらはどこか個人の自由に対する「しがらみ」や「重荷」というマイナスなものとしてイメージされやすいのではないでしょうか。

ですから、地縁・血縁を基盤とする寺院も、なにやら前時代のしがらみのシンボルであるかのように思われ、仏教に興味を持つ人であってさえ、菩提寺や寺を敬遠するようになっているのではないでしょうか。

 

しかし最近は、グローバル化が進んだためなのか、海外の人々からの高い評価もあり、かえって伝統的な文化を見直されています。

伝統の見直しは、社会的な文化にも広がりを見せ、特に少子高齢化社会が進む地域の課題として、コミュニティの『絆』の再生がテーマになっている中で、地域の寺の機能にも関心が集まり始めていますね。

 

そこで、人々と寺とをつなぐ、檀家と菩提寺という間柄についても、必ずしもマイナスなものではなく、プラスなものとして再評価する動きもあります。

そこには、不透明な社会で、しかも人生100年時代の老病死という人生の問題も抱えながら、自分の人生をしっかり生きていきたいという現代人の願いがあるのかもしれません。

まいてらのホームページでは現代における檀家さんとお寺のご縁の物語が紹介されています。

檀家さんこんにちは」、ご覧下さい。



護摩祈祷

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新春初詣の護摩祈祷の様子です。

少しだけアップいたします。
参拝結縁の皆さまとともに、心ひとつに観音さまに祈りを凝らす護摩祈祷。

燃えあがる火焔を見つめ手を合わせます。


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『とても元気が湧いてきました』

『気持ちが澄んできました』

『伝統の儀式がとても新鮮な体験でした』

『太鼓の音がすごい迫力でした』

『厄払いをしたなぁという気持ちになりました』

参拝の皆様、それぞれいろんな感想があります。

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感じ方はそれぞれでも、観音さまへのお祈りをしている間に、何かご自分の中に湧き上がってくる思いや気持ちと向き合う時間は、とてもいいものですね。


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仏教(宗教)には、いろんな法要があり、いろんな祈り方があります。

ぜひ一度、真言密教の伝統の法要、護摩祈祷にもお参りしてみてください。

おまちしております。




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全国に広がる長谷観音信仰

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全国に広がる長谷観音信仰

 

長谷寺というお寺は、日本各地にみられます。

 

宗派は様々ですが、そのほとんどのお寺が十一面観音を本尊としています。

 

とても不思議な気がしますが、平安時代に大変盛んになった、奈良の長谷観音信仰が広がって、各地に「新長谷寺」が建立されたとされます。

 

今では、当時のことは良く分かりませんが、寺伝によると、信州さらしな長谷観音も、この長谷観音信仰とゆかりがあります。

 

インターネットには、各地の長谷寺の紹介もございますので、折に触れ、インターネットでヒットした(ご縁があった!)長谷観音をご紹介していけたらと思います。

 

今回は、九州福岡の長谷観音さま。

御本尊の御姿が中心となりますが、とても美しいので最初にご紹介させて頂きます。




御開帳のご案内

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自らをキャンドルとせよ

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自らをキャンドルとせよ

 

師走を迎え、この季節になると街のそこかしこにクリスマスの飾りやライトアップが賑やかです。特に、キャンドル、ろうそくの明かりというのは何とも言えないぬくもりを感じますね。


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お寺のライトアップについて専門の先生と話していたら面白いことを聞きました。

ロウソクの灯の形についてです。

あのぽっと灯される、小さなロウソクの炎は、ロウソクならではの姿かたちをしていますね。

愛らしくて、見ているだけで心が温まります。

先生はある時「こんな素敵な炎だから、もっと大きくしたらどうだろう。みんな喜ぶしビックリするんじゃないか」と思いついて、いろいろと実験をしてみたそうです。

ところが、ロウソクというものは、大きくしたり灯芯を太くしたりしていくと、少しは大きくすることが出来るそうですが、ある程度の大きさを超えてしまうと炎の形が壊れて、メラメラぼうぼうと盛んな火になってしまうのだそうです。

結局、ロウソクの可愛らしい灯火は、ロウソクでしか灯せないことが分かったそうです。

さて、クリスマスに先立って、12月8日にはお釈迦さまが悟りを開いた成道会を迎えました。

お釈迦さまは「自らを燈明とせよ」と説きました。

この時に、お釈迦さまの胸に灯されていたのは、どんな炎だったのでしょう。

私は、大きく燃え上がる炎ではなくて、小さなロウソクの炎のような、小さな灯芯に灯される小さな灯火だったのではないかと思います。

大きく、立派な形にしようとしてもできない、自分自身の器のサイズに相応しい姿かたちの炎。

それは小さなキャンドルかもしれませんが、燃え盛って姿や形が乱れることもない、ほのかだけれど、静かに人生の道を照らす。

そういうちょうど良い大きさの炎となって生きる。

クリスマスを前に、自分自身をひとつの灯として、ちょうど良いかどうか見つめ直してみませんか。

自分自身について、大切な気づきの贈り物があるかもしれませんよ。

明日香 岡本寺寄稿〈一部訂正〉

同席対面五百生

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仏教には、出会いの大切さを示すものが多くあります。

一期一会とか、袖振り合うも多生の縁、挨拶などと言う言葉は、みんな仏教の出会いについての心、心構え、覚悟を表していますね。「たった一度の出会いでも大切に」ということですが、これが身近な人になるとどうでしょう。家族や夫婦に対して「一期一会」なんてことを意識することはありませんね。しかしむしろ、身近な人との関係こそが、私たちにとっては大切なのではないでしょうか。

 

こんな言葉があります。

 

同席対面五百生

 

これは、たまたま偶然にバスで隣り合ったり、たまたま喫茶店の向かいの席に座った見知らぬ人であっても、そのように同席したり対面したりする人というのは、これまで繰り返されてきた前の世で、五〇〇回は一緒に生きた人である、という意味です。「袖の振り合わせも五百生の機縁」とも言いますが、袖を振り合わせてすれ違うだけのような人であっても、目には見えない、深い深い縁があるということなのですね。

 

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すると、家族は、どれほど深い縁なのでしょうか。

バスや喫茶店でたまたま同席対面の人でさえ、五百生という深い縁があるのですから、この世で親子となり家族となり、また夫婦となる相手というのは、もう500回どころの縁ではありませんね。千回とか、1万回とか? それはもう、ずっとず~っと長い長~い魂の旅を共にしている存在なんだな、そんな気がしてまいります。

 

身近な人ほど、些細なことで喧嘩になってしまったり、すれ違ったりしてしまうものですが、前の世、その前の世、もっともっと遥か遠い世からの深いえにしが、自分と身近な人との間にはあるのだと考えてみると、(本当に前世があるないかの議論はさておいて)、ムカツク親、うざい伴侶も、少し違った意味を持った相手として感じられてまいります。私の遠い遠い過去から遠い遠い未来に続く魂の旅の同伴者なのだと思うと、相手も、また私も、お互いにお互いのために何らかの大切な意味を持っている(のかも知れません)。

 

私たちは、どうしても凝り固まった考え方や小さな視野になりがちです。ときには、大きな眼差し、スケールの大きな考えかた、途方もない時の流れの側から、自分を見つめ直してみるのも良いのではないでしょうか。

「同席対面五百生」、道ですれ違う人、電車で隣り合わせた人、そして身近な人を、いつもとちょっと違う視点で感じてみる。心が少し柔らかくなります。

身は花とともに落つれども

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身は花とともに落つれども

心は香とともに飛ぶ


弘法大師空海 『性霊集』より

 

私たちは、この世に生まれたからにはいつかは死んでいかなくてはなりません。

昔から、遅れ先立つのはこの世の定めという通りです。

しかし、その限りある人生をいかに生きるか。

生れ落ちた境遇や条件は人によって違いますが、大切なのは毎日の過ごし方なのですね。


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弘法大師の上の言葉は、私たちのこの肉体は、咲き開いた花がやがて散るようにいつかは落ちてしまうものである。

しかし、善き人生を送った人の心は、花の香りが散った後も遠くまで飛ぶように、みほとけの浄土に昇る。

そして、そのかぐわしい香りは残された人の心にいつまでも残るだろう、という意味です。

 

短い言葉ですが、私たちに『かけがえのないあなたの人生ですよ』と、静かに語りかけていますね。

季節は秋から冬。

春から夏へと咲き誇った花の姿はなく、錦秋に照り輝いた葉も散り終えようとしています。

晩秋から初冬のひと時、この言葉とともに来し方を振り返ってみてはいかがでしょうか。

一日の安心と元気は仏壇から

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■一日の安心と元気は仏壇から

朝、仕事や学校に行く前に、仏壇に手を合わせると、手を合わせないより必ず良い一日になります。

不思議ですが、確かに毎朝のお参りは私たちに安心と元気を与えてくれます。

なぜ「朝の祈り」が一日に安心と元気を与えてくれるのでしょうか。

それについてある道を求める師が次のように語られました。

 

どんなに日でも、それは未知の一日です。

何が起こるかわかりません。

それは無意識の不安となり、私たちの行動を委縮させます。

つまり元気が出なくなるのです。

しかし、そんな無意識の不安を放置せず、神仏や祖先に「お守りください」ときちんと祈ることによって、私たちは「よし、大丈夫だ」という気持ちを得ることができます。(宗派によっては、神仏や先祖にいろいろと願い事をしてはならないという教義もありますが、あまり深く考えず、まずは見守ってほしいという心を持ち、神仏や祖先を身近に感じることが第一歩ですね)

この「よし、大丈夫だ」という気持ちで一日をスタートするのか、反対に不安なままスタートするのかでは、その人の言動、判断、表情などのすべてに違いが表れます。

「よし、大丈夫だ」という気持ちで家を出る人は、その日一日が祝福され、明るいものとして進展していきます。

しかし不安を抱えたまま家を出ることは、すべてにおいて不安と萎縮があり、能力も十分に発揮することはできません。

あう人も、私たちのそのような気持ちを無意識に感じ取り、接し方もお互いに影響されるでしょう。

自分の能力や人間関係など、それらを好転させていくうえで、「よし、大丈夫だ」という気持ちで一日のスタートを切るのは、魔法をかけるほどに大きな意味があるのです。

そのようにして、朝のわずかなひと時でも仏壇に手を合わせるのは、私たちに安心と元気を与えてくれます。

 

■合掌礼拝で毎日を元気に

 お祈りの仕方は、宗派により、次第や作法を言い出せばきりがありませんが、肝心なことは、姿勢を正して手を合わせ一時でも静かな気持ちになることです。

そして、ご先祖様や亡き人に対する「ありがとう」という感謝の気持ちで心を満たし、その感謝の気持ちで一日を過ごすと願うことです。

ご先祖に向けて、こうしてきちんと手を合わせ、「ありがとう」という感謝の気持ちを起こして一日をスタートする。

たったこれだけのことで、私たちは「よし、今日も大丈夫だ!」という安心に包まれ、自信がわいてきます。

こうして朝の仏壇のお祈りによって、私たちは元気になるのです。

そのような気持ちを一日一日と積み重ねていくと、笑顔も明るくなり、態度やしぐさもさわやかなものになるでしょう。

 

■「朝のお祈り」のご利益

 この「朝のお祈り」の時間は、食事の前や、出勤・登校の前が良いでしょう。

特に若い人やお子さんには、親御さんや祖父母のみなさまから進めましょう。

要する時間は一〇秒で充分です。(もちろん、もう少し長い方が望ましいですよ)

ただし、きちんと姿勢を正し、きちんと手を合わせることが大切です。

そして心を込めて、丁寧に鐘を鳴らしましょう。

ゆっくりと良い音がするように鳴らし、その余韻の間「ありがとう」の気持ちで心を満たしましょう。

静かに長く息をしましょう。

こうした感謝の心を生じさせる「朝の祈り」は、私たちの「怒り」とか「憎しみ」とか「むさぼり」という心の働きを抑え、反対に「許し」や「思いやり」や「与える」という心を自然と育てます。

思い浮かべてください。

「ありがとう」の気持ちで満たされている自分と、「このやろう」の気持ちで満たされている自分と、どちらがより望ましい自分でしょうか。

そして、日々の積み重ねがやがて運命を導くなら、どのような気持ちの自分で生きていくべきか、もはや考えるまでもないでしょう。

こんな言葉があります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

マザー・テレサ

 

お仏壇の祈り。
亡き人や祖先を偲ぶひと時。
手を合わせ、静かな呼吸に導かれて、「ありがとう」の気持ちが満ちてくる。

その心は、先祖の供養にとってはもとより、私たちの人生にとっても素晴らしい喜びをもたらしてくれるものですから、どうぞご家族ではじめましょう。

姿勢を正し、手を合わせ祈りの習慣を持ちましょう。

幸いであれ!

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一切の生きとし生けるものは、

幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

いかなる生物生類であっても、

怯えているものでも

強剛なものでも、

悉く、

長いものでも、

大きなものでも、

中くらいのものでも、

短いものでも、

微細なものでも、

粗大なものでも、

目に見えるものでも、

見えないものでも、

遠くに住むものでも、

近くに住むものでも、

すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、

一切の生きとし生けるものは、

幸せであれ。

 

お釈迦さまの言葉 

『スッタニパータ』

 

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お釈迦さまは「縁起」という、今日で言うなれば「関係性」によって世界を観察し、一見固定的に見える物事や、固定的な観念や偏見にとらわれない自在な精神を獲得なさいました。そのため、今から二千五百年以上前の当時としては、驚くべき「平等の視点」にお立ちになっています。

上のお釈迦さまの祈りの言葉は、「幸いであれ」と願われているのが、人間だけでないばかりか、全てのいきとしいけるものが、距離も時間も越えて「幸いであれ」と祈られているのです。

もちろん、このお釈迦さの祈りの中に、私たちもあります。

「幸いであれ」とお釈迦さまに祈られた私たち。

いのちを大切に暮らしていきましょう。

チベットに伝わる十一面観音のお話

 

 

ある時、観音菩薩は阿弥陀如来に対して誓いをたてます。

 

 

この世の生きとし生けるものをすべての苦しみから救います。

 

もしも、この誓いが揺らぐようなことがあれば、自分の頭が粉々になっても良いと。

 

 

そう阿弥陀如来さまに誓って精進します。

 

 

ところがある時、自分の目が届いていないところで、さらに多くの者たちが不幸に苦しんでいることを知り、観音菩薩は深く驚き悲しみます。

 

その胸中に一抹の不安がわくや、彼の頭は粉々に砕け散ってしまいました。

 

 

これを見ていた阿弥陀如来さまは、観音さまを憐れみ、もう一度生きとし生けるものの多ために精進する機会を与えるため、その砕けた頭をつなぎ合わせ十一の顔を持つ十一面観音菩薩に生まれ変わらせました。


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これは、チベットに伝わるお話としてチベット仏画(タンカ)の絵師である馬場崎研二さんがご著書の『異境』の中で紹介されているものです。

 

長谷寺のご本尊である十一面観音さま。

どうして十一のお顔を持つようになったのかを伝えるお話です。

生きとし生けるものを救いたいという観音菩薩の大きな誓い。

その誓いのありがたさをあらためて感じるお話ですね。

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