住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

仏教: 2015年11月アーカイブ

同席対面五百生

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仏教には、出会いの大切さを示すものが多くあります。

一期一会とか、袖振り合うも多生の縁、挨拶などと言う言葉は、みんな仏教の出会いについての心、心構え、覚悟を表していますね。「たった一度の出会いでも大切に」ということですが、これが身近な人になるとどうでしょう。家族や夫婦に対して「一期一会」なんてことを意識することはありませんね。しかしむしろ、身近な人との関係こそが、私たちにとっては大切なのではないでしょうか。

 

こんな言葉があります。

 

同席対面五百生

 

これは、たまたま偶然にバスで隣り合ったり、たまたま喫茶店の向かいの席に座った見知らぬ人であっても、そのように同席したり対面したりする人というのは、これまで繰り返されてきた前の世で、五〇〇回は一緒に生きた人である、という意味です。「袖の振り合わせも五百生の機縁」とも言いますが、袖を振り合わせてすれ違うだけのような人であっても、目には見えない、深い深い縁があるということなのですね。

 

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すると、家族は、どれほど深い縁なのでしょうか。

バスや喫茶店でたまたま同席対面の人でさえ、五百生という深い縁があるのですから、この世で親子となり家族となり、また夫婦となる相手というのは、もう500回どころの縁ではありませんね。千回とか、1万回とか? それはもう、ずっとず~っと長い長~い魂の旅を共にしている存在なんだな、そんな気がしてまいります。

 

身近な人ほど、些細なことで喧嘩になってしまったり、すれ違ったりしてしまうものですが、前の世、その前の世、もっともっと遥か遠い世からの深いえにしが、自分と身近な人との間にはあるのだと考えてみると、(本当に前世があるないかの議論はさておいて)、ムカツク親、うざい伴侶も、少し違った意味を持った相手として感じられてまいります。私の遠い遠い過去から遠い遠い未来に続く魂の旅の同伴者なのだと思うと、相手も、また私も、お互いにお互いのために何らかの大切な意味を持っている(のかも知れません)。

 

私たちは、どうしても凝り固まった考え方や小さな視野になりがちです。ときには、大きな眼差し、スケールの大きな考えかた、途方もない時の流れの側から、自分を見つめ直してみるのも良いのではないでしょうか。

「同席対面五百生」、道ですれ違う人、電車で隣り合わせた人、そして身近な人を、いつもとちょっと違う視点で感じてみる。心が少し柔らかくなります。

身は花とともに落つれども

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身は花とともに落つれども

心は香とともに飛ぶ


弘法大師空海 『性霊集』より

 

私たちは、この世に生まれたからにはいつかは死んでいかなくてはなりません。

昔から、遅れ先立つのはこの世の定めという通りです。

しかし、その限りある人生をいかに生きるか。

生れ落ちた境遇や条件は人によって違いますが、大切なのは毎日の過ごし方なのですね。


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弘法大師の上の言葉は、私たちのこの肉体は、咲き開いた花がやがて散るようにいつかは落ちてしまうものである。

しかし、善き人生を送った人の心は、花の香りが散った後も遠くまで飛ぶように、みほとけの浄土に昇る。

そして、そのかぐわしい香りは残された人の心にいつまでも残るだろう、という意味です。

 

短い言葉ですが、私たちに『かけがえのないあなたの人生ですよ』と、静かに語りかけていますね。

季節は秋から冬。

春から夏へと咲き誇った花の姿はなく、錦秋に照り輝いた葉も散り終えようとしています。

晩秋から初冬のひと時、この言葉とともに来し方を振り返ってみてはいかがでしょうか。

一日の安心と元気は仏壇から

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■一日の安心と元気は仏壇から

朝、仕事や学校に行く前に、仏壇に手を合わせると、手を合わせないより必ず良い一日になります。

不思議ですが、確かに毎朝のお参りは私たちに安心と元気を与えてくれます。

なぜ「朝の祈り」が一日に安心と元気を与えてくれるのでしょうか。

それについてある道を求める師が次のように語られました。

 

どんなに日でも、それは未知の一日です。

何が起こるかわかりません。

それは無意識の不安となり、私たちの行動を委縮させます。

つまり元気が出なくなるのです。

しかし、そんな無意識の不安を放置せず、神仏や祖先に「お守りください」ときちんと祈ることによって、私たちは「よし、大丈夫だ」という気持ちを得ることができます。(宗派によっては、神仏や先祖にいろいろと願い事をしてはならないという教義もありますが、あまり深く考えず、まずは見守ってほしいという心を持ち、神仏や祖先を身近に感じることが第一歩ですね)

この「よし、大丈夫だ」という気持ちで一日をスタートするのか、反対に不安なままスタートするのかでは、その人の言動、判断、表情などのすべてに違いが表れます。

「よし、大丈夫だ」という気持ちで家を出る人は、その日一日が祝福され、明るいものとして進展していきます。

しかし不安を抱えたまま家を出ることは、すべてにおいて不安と萎縮があり、能力も十分に発揮することはできません。

あう人も、私たちのそのような気持ちを無意識に感じ取り、接し方もお互いに影響されるでしょう。

自分の能力や人間関係など、それらを好転させていくうえで、「よし、大丈夫だ」という気持ちで一日のスタートを切るのは、魔法をかけるほどに大きな意味があるのです。

そのようにして、朝のわずかなひと時でも仏壇に手を合わせるのは、私たちに安心と元気を与えてくれます。

 

■合掌礼拝で毎日を元気に

 お祈りの仕方は、宗派により、次第や作法を言い出せばきりがありませんが、肝心なことは、姿勢を正して手を合わせ一時でも静かな気持ちになることです。

そして、ご先祖様や亡き人に対する「ありがとう」という感謝の気持ちで心を満たし、その感謝の気持ちで一日を過ごすと願うことです。

ご先祖に向けて、こうしてきちんと手を合わせ、「ありがとう」という感謝の気持ちを起こして一日をスタートする。

たったこれだけのことで、私たちは「よし、今日も大丈夫だ!」という安心に包まれ、自信がわいてきます。

こうして朝の仏壇のお祈りによって、私たちは元気になるのです。

そのような気持ちを一日一日と積み重ねていくと、笑顔も明るくなり、態度やしぐさもさわやかなものになるでしょう。

 

■「朝のお祈り」のご利益

 この「朝のお祈り」の時間は、食事の前や、出勤・登校の前が良いでしょう。

特に若い人やお子さんには、親御さんや祖父母のみなさまから進めましょう。

要する時間は一〇秒で充分です。(もちろん、もう少し長い方が望ましいですよ)

ただし、きちんと姿勢を正し、きちんと手を合わせることが大切です。

そして心を込めて、丁寧に鐘を鳴らしましょう。

ゆっくりと良い音がするように鳴らし、その余韻の間「ありがとう」の気持ちで心を満たしましょう。

静かに長く息をしましょう。

こうした感謝の心を生じさせる「朝の祈り」は、私たちの「怒り」とか「憎しみ」とか「むさぼり」という心の働きを抑え、反対に「許し」や「思いやり」や「与える」という心を自然と育てます。

思い浮かべてください。

「ありがとう」の気持ちで満たされている自分と、「このやろう」の気持ちで満たされている自分と、どちらがより望ましい自分でしょうか。

そして、日々の積み重ねがやがて運命を導くなら、どのような気持ちの自分で生きていくべきか、もはや考えるまでもないでしょう。

こんな言葉があります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

マザー・テレサ

 

お仏壇の祈り。
亡き人や祖先を偲ぶひと時。
手を合わせ、静かな呼吸に導かれて、「ありがとう」の気持ちが満ちてくる。

その心は、先祖の供養にとってはもとより、私たちの人生にとっても素晴らしい喜びをもたらしてくれるものですから、どうぞご家族ではじめましょう。

姿勢を正し、手を合わせ祈りの習慣を持ちましょう。

幸いであれ!

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一切の生きとし生けるものは、

幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

いかなる生物生類であっても、

怯えているものでも

強剛なものでも、

悉く、

長いものでも、

大きなものでも、

中くらいのものでも、

短いものでも、

微細なものでも、

粗大なものでも、

目に見えるものでも、

見えないものでも、

遠くに住むものでも、

近くに住むものでも、

すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、

一切の生きとし生けるものは、

幸せであれ。

 

お釈迦さまの言葉 

『スッタニパータ』

 

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お釈迦さまは「縁起」という、今日で言うなれば「関係性」によって世界を観察し、一見固定的に見える物事や、固定的な観念や偏見にとらわれない自在な精神を獲得なさいました。そのため、今から二千五百年以上前の当時としては、驚くべき「平等の視点」にお立ちになっています。

上のお釈迦さまの祈りの言葉は、「幸いであれ」と願われているのが、人間だけでないばかりか、全てのいきとしいけるものが、距離も時間も越えて「幸いであれ」と祈られているのです。

もちろん、このお釈迦さの祈りの中に、私たちもあります。

「幸いであれ」とお釈迦さまに祈られた私たち。

いのちを大切に暮らしていきましょう。

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