住職日記

白助物語(長谷観音開基伝説を読む) その2

 旅の深まり

             

 翁かの説法の詞にしたがって、当山(※奈良の長谷山)に尋ね入るに、寳石いまだ顕はれ給わざる前なれば、堂舎もなく、本尊もいまさず。ただ茫然として山に向かうほどに、中心に當って光を放つところあり。其の在所に卒塔婆を立て、毎月に香花を備えて礼拝し念誦すること三ヵ年。

               

 大意 白助は善光寺如来が姿を変えて顕れた僧の教えにしたがって、奈良の長谷山を尋ね入っていきました。しかしその頃はまだ、ご本尊が出現した宝石も顕れていませんでしたので、当然お堂もなければ本尊もありませんでした。白助はただ呆然とし、山の奥へ奥へと向かっていくと、山の中心あたりに光を放っている場所がありました。白助はその場所を選んで卒塔婆を立て、月毎に香や花を供養し、礼拝し、念じ経を唱えること三ヵ年に及びました。

 

 白助は善光寺如来のお告げを真っすぐに信じて、はるばると奈良の長谷山を訪ねます。しかし、そこにはまだお堂もありません。物語の冒頭にありましたように、白助の旅は奈良の長谷寺が開山される百年も前のことなのです。当然のことながら今日のような立派な伽藍も何もない森閑としたところへやって来てしまい、白助は呆然とし、とりあえず山の奥へ奥へと進んでいきます。しかしその長谷山の奥の中心と思われる地点までやってきてみると、何やら神秘的な光を放っている場所があり、白助はそこで両親菩提のためにお参りをし、それが三年続いたということです。

 

 ここの一節は、注意深く読んでまいりますと『白助物語』におけるきわめて重要な場面が描かれていると思われます。すぐれた説話や縁起の物語には、人間の精神の働きが象徴的に描かれていますが、『白助物語』においても、ここにおいて物語が聞き手や読み手の魂に語りかけてくるべく深化していくのです。

 奈良の長谷山は古くから神秘的な霊地として信仰され、苦難から逃れたり、新たな人生を歩み始めるための神仏の霊告を受ける地としても知られていたようです。有名な「藁しべ長者」の物語も、主人公は奈良の長谷でお告げを受けています。そんな聖地でしたから、そこは修行者たちにとっての霊場でもあったと考えられます。

 

 日本には、昔から山にこもって念仏したりダラニを唱えたりして密教の修行をする人々がありましたが、奈良の長谷もまた古くからそんな山として信仰され、白助もそこで観音菩薩を本尊として修行していた人々の間に加わったのではないか、と考えられるのです。 こうした人々は、日本古来の山岳信仰、ことに後の修験道といわれる信仰を生きている人々でありました。山岳信仰は日本人が仏教渡来以前からもっていた信仰形態ですが、それが奈良時代までにはかなり仏教化し、白助の時代になると相当洗練された修行のシステムを確立していたようです。

 

 この時代の修験道は、別に「雑密(ぞうみつ)」とも言われ、後に弘法大師空海などの留学僧によって本格的な密教すなわち「純密」がもたらされるまで、大陸から断片的に入ってきていた密教修行を実践していました。その代表的な人物が有名な役行者(えんのぎょうじゃ)であり、ちょうど『白助物語』の頃近畿一帯を中心に大活躍していました。

 

 彼らは、社会的には反律令的な存在であったため、いわゆるアウトサイダーであり、決して正規の僧侶ではありませんでした。当時の正規の僧侶は、国家の承認を必要とした国家公務員であり、その年度ごとに出家できる人数も限られていました。なぜなら、当時の大和国家においては、中国文化を輸入することが熱望され大規模にその事業が進められていたのですが、その中国文化とはイコール仏教文化であり、大陸の文化を学んで輸入するということは、とりもなおさず仏教を輸入し、社会を広く仏教化することに他ならなかったのです。したがって、そうした国家事業のパイロットたる僧侶は、当然のことながら厳密な審査と試験を通過したエリートでなければならなかったのでした。

 

 しかし一方で、そうした国家プロジェクトとしての仏教推進とは別の次元で、つまり一般民衆のレベルでも、仏教は急速に滲透し始めていたのです。そんな民衆レベルでの仏教布教の旗手として、各地で活躍していたのが役行者に代表される修験者たち、当時の言葉で言えば「私度僧(私に得度した僧侶)」といわれた人々でした。筆者は白助もまたそうした「私度僧」の系譜に属する人物、あるいは一時的にせよそのようなグループに加わった人物であったのではないかと考えています。

 

 彼ら「私度僧」は一ヶ所に定住せず、各地の山岳霊場を遍歴するいわゆる遊行者たちであり、それぞれに観音菩薩や孔雀明王や弥勒菩薩を崇敬し、それらを本尊とする山々で瞑想や峯駈けといった荒々しい修行をしていたのです。

 

 そしておそらく大和長谷の土地は、そうした修験者たち、ことに観音菩薩を本尊として修行する修行者たちのセンターであったと考えられます。したがって白助も、長谷の山に分け入って礼拝と念誦の修行をしたというのですから、観音菩薩を本尊として、そうした密教修行を積んだのでしょう。ちなみに信濃国善光寺もまた阿弥陀如来を本尊として密教的な修行する私度僧たちのセンターであった可能性も十分あるでしょう。僧だと思ったものが実は阿弥陀如来だったという表現も、阿弥陀如来の境地を深める瞑想修行を深めていた僧であったと考えることが出来るでしょう。

 

 そのように考えてこの部分を読むと「ただ茫然として山の奥へ向かう」という一節は、文字通り山の奥へと分け入って進んだことを示すばかりでなく、白助自身が密教的な修行を通じて自分自身の精神の奥へ奥へと心の旅を深めていったことを示していると読むことが出来るでしょう。白助は自分の心の奥へと瞑想修行を深めてゆき、心の奥の中心と感じられたところに、卒塔婆(五輪塔)という仏教の教えのシンボルをイメージする。あるいは心の中心に光を放つ場所は、五輪の宝塔のように輝くのかもしれません。

 このような体験を三年にわたって深めたというのは大変なことだと思われます。白助は信濃から大和まで命懸けで肉体的な旅(巡礼)をしましたが、たどり着いた初瀬の山奥では、精神的な旅(礼拝・念誦)をしたのです。かつて大和の長谷山は隠国(こもりく)といわれ、死んだ人の霊の住まう「あの世」への入り口として知られていました。白助の旅は、こうして生の世界からどんどんと遠ざかっていきました。

 

      

             

 或夜の夢に件の卒塔婆の下に、今顕はれ給う金剛座の辺りに、立像の十一面観世音菩薩まします。其の右の脇に十七八計の童子います。夢の内に歓喜して、誠に当山は観音利生の砌なり。掌を合わするところに童子告げて云く。此の尊に汝が功を入れ奉らば、汝が所願必ず成すべし。明日この山を出るとき、最初に相たらん女を妻とすべしと。

               

 大意 ある夜の夢に、白助が建てた卒塔婆のそば、それはちょうど現在の本尊がお立ちになっている金剛座の辺りですが、そこに十一面観世音菩薩がお立ちになっておられます。その右脇には十七、八歳とおぼしき童子が従っています。白助は夢の内ながら感激し「まことにこのお山は観音さまが福徳を生んでいらっしゃる場所であった」と合掌しました。その時、童子が白助にこう告げたのです。『今後この本尊さまに向けて修行の功徳を積んでいけば、お前の願いはみな叶うだろう。明日、この山を出るときに最初に会う女性を妻としなさい』。

 

 白助の精神世界の旅は続き深まっていきます。彼は、ここでいよいよ観世音のお姿を拝します。三年にわたる心身の修行によって、夢にさえ観音さまが顕れたのですが、夢に観音さまが顕れるというのは、白助の心の深いところにまで観音さまへの一途な思いが行き届いたと読むことができます。

 

 昔から、修行者や信仰心の篤い人は、夢の中で神仏と出会いますが、それは非現実的なことではなく、真心から祈る人の内面にとっては深い意味のある体験なのであり、当人においては確かに意味をなす現実というべきなのです。ですから、昔話や民話の中で「夢」という言葉が出てきた時は、それは主人公の心の世界や精神世界での内的体験だと考えてみると理解しやすいと思います。

 

 説話の表現やエピソードが客観的に荒唐無稽であっても、「内的な事実」と受け止めて大切にしていくことここでは大切ではないでしょうか。そのような姿勢は、密教や仏教の修行では重んじられます。こうした点から、白助の様子を考えてみると、ここに描かれている不思議で神秘的とも言える模様は、白助の内面的な体験の移り変りやプロセスが描写されていると読むことが出来るでしょう。

 

 白助の心の奥での体験は、最初光を放つ世界を感じてそれが卒塔婆という仏教のシンボルをイメージすることによって表現されています。しかし三年にわたる心の深まりによって、白助はその抽象的であった光と卒塔婆を、より具体的な姿として感得するに至るのです。その抽象から具体化への変化は、前章で述べたように「自己矛盾によって分裂し引き裂かれている自己を祈りという宗教行為によって再統合」していく過程であり、祈りの対象が具体的に顕れてくるとき、白助の引き裂かれていた自己が再統合を始めていくのでしょう。そしてその具体的な光こそ、十一面観世音菩薩であり、うら若い童子とは、そうした人知を超えた体験と私たちの日常的な心をつなぐ純粋な心を表していると思われます。

 

 ところで十一面観世音菩薩はその真言に見られるとおり、「悲(カルナー)」を本体とする菩薩です。菩薩としてのキャラクターの中心をなすのは、悲という徳、苦しみを抜く性質です。私たちは白助という人物の「苦」が、この十一面観音によって抜かれたことも考える必要がありそうです。なぜなら、ほかならぬこの菩薩によって救われる意味を問うことなしに、白助物語はその深いメッセージを味わうことが出来ないからです。他の仏ではなく、観音菩薩であり、ことに「カルナー=悲」を中心とする十一面が白助の再生に関与するのはなぜなのでしょうか。

 

 この点こそが、ある意味でこの物語の主題ともいえるわけですが、少なくともこの場面において、人間の魂の再生には、「悲」という精神が重要であることが表されているようです。この観音菩薩によって体現されるところの悲という宗教心、すなわち観音性の回復、再生、顕現が、内的な体験としては「観音菩薩の出現」とか「観音さまと会う」という出来事として体験されるのではないでしょうか。三カ年に及ぶ祈りと瞑想の果てに、白助のうちに「悲」という精神性が蘇ってくる体験、またはそのような精神性が新たに生じてくる体験があり、それが夢中に観音菩薩と会うという出来事として体験されたものと思われます。

 

この時白助は、自分の中で癒されることなく悲嘆の声を上げていた両親の魂が、観世音(悲)によってしっかりと救われ癒されていくのを感じたのだと思われます。まさしく祈りの成就であり、白助の魂の再生の瞬間なのです。ここにおいて白助は、生の世界から死の世界へと進めてきた旅を終え、一転して生の世界へ、すなわち実社会へと帰還の旅を開始します。悲という精神性の蘇生が、ひとりの人間をして現実社会へと復帰させる原動力となる話は、「現世利益」という観音菩薩の利益の意味を改めて考えさせるエピソードです。

 

 さてこうして白助は善光寺如来の導きによって、観音さまを本尊とする修行方法を示され、それが盛んに行なわれていた長谷という霊地にこもって実践した。そして、その修行の中で、白助は有り有りと観音菩薩を目の当たりにする神秘的な体験をしたのです。こう読んでみると、荒唐無稽に思える伝説にも、なかなか深い意味が読み取れてきますし、私たちの心も、実はそうした深い意味を知らず知らず読み取っているのです。

 

 それにしても、白助はなぜここまで徹底的な修行に打ち込み、観世音の救済を熱望したのでしょう。単純な両親の菩提祈願というだけでは説明がつかない熱意です。それはなぜか。私たちの想像が許されるなら、おそらく白助の両親の死に方に、白助という人間の人生に決定的な影響を与える事情があったのではないでしょうか。その死によって白助が受けていた哀しみと痛みは、命懸けの巡礼と修行によってしか癒すことが出来なかった。その哀しみと痛みを克服し、白助が自立した人間として生きていくためには、このような巡礼の旅に出る必然があったのでしょう。

 

 しかし、さらに一歩踏み込んで考えると、この飛鳥時代という社会状況は、国家というものの出現と進展の時代です。国家という枠組みが、人間社会に従来の共同体にはなかったさまざまな問題を引き起こし始めた時期です。仏法が指摘する生老病死の苦しみの本質に変化はなくとも、社会構造の大きな変化に伴って人間関係も複雑化し、苦しみの様相も多様化したのではないでしょうか。この時期に、日本人が世界宗教である仏教を導入したのは、その普遍的な世界観や救済の思想をもってしなければ救済できない苦しみや悲劇が生じ始めたからであるとも言えましょう。より普遍的で高度な体系を持つ宗教思想が、社会や人々によって求められたということが考えられるのです。

 

 十一面観世音菩薩が当時広く迎え入れられた背景には、社会的、宗教的な需要として、白助のように「悲」という精神性の回復を求める人々が多くあったと考えられます。そのことは、国家という社会の仕組みには、「悲」によって救われるような悲劇を生み出す傾向があるとも、また「悲」という人間性を傷つける働きがあるとも考えられます。またそうであるが故に、その悲の再生のために、観音菩薩という「悲」の権化としての存在が強く求められるのかも知れません。

 

後に述べるように、長谷という場には「再生」という宗教性が見いだされています。日本古来の再生の霊地である長谷に、「悲」の権化である十一面観世音菩薩がまつられたのは偶然ではないでしょう。人間性における魂の再生には悲という宗教性が重要な働きをなし、その悲という精神の活性化には、十一面観音という仏教のカミへの信仰と瞑想実践が最適であること。十一面観世音菩薩とは、この古代国家生成の動乱期に、不可避的に生じてきた新たな人間苦を救済するものとして、そうした悲嘆に心身を引き裂かれている人間の魂が、癒され甦りを果たす上で最も勝れた導き手として求められ、そんな魂の前にこそ顕れる菩薩なのではないでしょうか。

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