長谷観音の開基伝説
シラスケ物語

当山開基のお話し「シラスケ物語」
日本三所信濃国長谷観音開山伝説 長谷寺霊験記(奈良長谷寺所蔵鎌倉時代初期)巻下より

 仁王三十五代、舒明天皇の時代でありました。奈良の長谷寺の御本尊が出現された宝石もまだ世に知られていなかった頃、すなわち本尊さまが顕れるより百年ほど前のことでしたが、信濃国の更級郡にある姨捨山のそばに、允恭天皇の六代目の子孫にあたる白助(しらすけ)の翁(おきな)という男が住んでいました。

 この白助の一族は、かつて都にあって朝廷に仕えていましたが、お祖父さんが仕えていた高貴な方の身に良くないことが起こり、一族は信濃の国に移り住んで貧しい暮らしをしていました。白助は幼くして両親と死に別れ、成長してから後は両親の供養ために、誓いを立てて毎日薪を集めて千日間にわたって清めの湯を沸かし続け、毎日一本ずつ供養の卒塔婆を造り続けたのです。そして今や、白助は千日の湯と千本の卒塔婆という大願を果たすことが出来ました。

 しかしながら、こうした千日の湯と千本の卒塔婆によって両親の菩提を供養したいのですが、白助は僧も知らないし、布施をして僧を招きたくても貧乏でそれも叶いません。何とか供養の法要をしたい白助は、善光寺にお参りをし必死にお祈りをしました。すると七日目の朝になって、突然一人の僧が現れて白助に言いました。『お前の親を思う気持ちは誠に深い。私が行ってお前の願いを叶えよう』。白助は大いに悦んで、僧を更級の家に招き、法要の導師として年来の悲願であった両親の供養を果たしました。

 その僧は法話の中で白助にこう教えました。『お前の願うところを叶えたいなら私の言う通りにしなさい。日本の大和の国(現在の奈良県)の長谷寺という土地は心願成就の霊地である。なぜなら、そこには生身の十一面観世音菩薩がいらっしゃり、いつも人々にご利益をもたらしておるからだ。お前もその山に参詣し、自分自身の現世と来世の幸福と、両親の菩提を祈願すると善いだろう』。

 その法話の後、僧は白助が供養のために千日の間沸かしつづけた湯で沐浴をしました。すると、やがて浴槽からこの世ならぬ芳しい香が漂ってきました。白助は不思議に思い窓から覗き込むと、何とそこには金色に光り輝く阿弥陀如来がいらっしゃるではありませんか。白助は喜びのあまり浴室に入って礼拝しようとしましたが、入ってみるともう如来は消え、ただこの世ならぬ香だけが残っていました。

 その後、長い年が経って浴室は壊れてしまいましたが、建物の板が七枚だけ残され新長谷寺(当山)の観音堂に納めてあり、それらは今なおこの世ならぬ芳しい香を放っているのです。この板こそは善光寺如来の奇跡の証しではないでしょうか。きっと善光寺如来が一人の僧となって現われ、奈良長谷山が今も昔も観音の霊地であることを世にお知らせになったのでしょう。

現在の大和長谷寺(真言宗豊山派総本山)

 白助は善光寺如来が姿を変えて顕れた僧の教えにしたがって、奈良の長谷山を尋ね入っていきました。しかしその頃はまだ、本尊が出現した宝石も顕れておらず、当然お堂もなければ本尊もありません。白助はただ呆然とし、仕方なく山の奥へ奥へと向かっていくと、山の中心あたりに光を放っている場所をみつけました。白助はその場所に卒塔婆を立てそれから三年間にわたって、月毎に香や花を捧げて、礼拝し、念じ経を唱え続けました。

 ある夜の夢に、白助が建てた卒塔婆のそば、それはちょうど現在の本尊がお立ちになっている金剛座の辺りでしたが、そこに十一面観世音菩薩がお立ちになっていらっしゃいました。右脇には十七、八歳とおぼしき少年が従っておられます。白助は夢の内ながら感激し『本当にこのお山は観音さまが福徳を生んでいらっしゃる場所であった』と、観世音に礼拝し合掌しました。その時、少年が白助にこう告げました。

『今後この観音さまに向けて修行の功徳を積んでいけば、お前の願いは必ず叶うだろう。明日、この山を出るときに最初に会う女性を妻としなさい』。

 夢から覚めて山から下りていくと、初瀬の里の森というところで、白助は少年を一人連れた女に出会いました。その女は姿形があまりに美しくて、白助としては近づきようがありません。しかし白助は兎にも角にも親しげに近寄ってみて、夢に顕れた観世音のお告げを語って聞かせました。すると女はただちに「あなたに従いましょう」と云うではありませんか。白助は大喜びで、さっそく女と少年を連れて故郷の信濃国更級郡へ帰っていきました。

 妻となった女は、姿形といい心といい、馴れるほどにますます情け深くなっていきました。そうして二人で暮らしているうちに、このように素晴らしい女性がいるということが、土地を治めていた蘇我大臣の耳に入りました。大臣はその女性に興味を持ち、夫である白助に親しげに近づいてきました。そしてある時、大臣は白助と小弓を競っている時にこう言いました。『小弓勝負に私が負けたらお前に千両の金をやろう。しか私が勝ったら、お前の妻を私に譲ってくれ』。そう言われた白助は、妻を思い心から困り歎きます。そこで観世音に祈りを捧げたところ、勝てないと思った勝負に勝って千両の大金を得ることが出来ました。

 領主はさらに言いました。『最強の力士をもってお前と相撲を取らせよう。もし我が方の力士にお前が勝ったら、お前を領家代に取り立てよう。しかし、もし我が力士が勝ったら、お前の妻を私に譲ってくれ』。白助は答えます。『あなた様となら私自身が相撲をしましょう。しかしあなたが代りの力士を立てるのなら、私も誰か力士を探して参ります』。そう言って後日を約束して白助は領家のもとから帰ってきました。

 白助はこのいきさつを妻に語って聞かせます。すると妻はそれに答えて言いました。『あなたは何も心配することはありません。私が代りの力士を見つけだしましょう』。そう言うと、奈良の長谷より連れてきた少年を使いに出したのです。

 少年は翌朝になって、六十才くらいの疲れきった様子のヨボヨボの男を連れて戻ってきました。ところがこの男が相撲に勝ったのです。白助は大喜びでこの男が何者なのかを尋ねましたが、男は詳しく答えようとしませんでした。そこで、白助は密かに男の帰っていった先を見届けると、近江国の高島郡にある太山寺という寺の右の仁王さまであることがわかったのです。

 白助はこうして約束どおりついに領家代となり、千両の金によって大変豊かになりました。そこで両親のため、そして自分をここまで導いてくれた観世音の大慈悲に対する報恩のために、かつて長谷山の山中で夢に拝んだ十一面観世音菩薩を造り、自分の家の敷地に寺を建てました。これこそ今日の信濃国更級郡にある新長谷寺であります。

 白助が代官となって寺を建てて九年が過ぎたある日のこと、白助が造った本尊の左手が突然なくなってしまいました。その時、空はにわかに曇り、山は怪しい気配に包まれ、白助の屋敷はすっかり雲に覆われてしまったのです。夜になって妻がこう言いました。

『私は実は奈良の長谷寺の土地の神である瀧蔵権現である。大聖観世音の使いとしてここにやってきていたのである。先に本尊の左手を消したのも私が示したことであった。お前の願いはもはや叶っている。私は大和の長谷山に帰ってからも、常に此方の山にも守護の光を向けるだろう。これまではこちらの伽藍を守ろうとお前と夫婦の姿を取ってきたのである。このことは決して人に語ってはならない。ただし、私の形見として、また後の世の人々のために、私の手を留め残していく』。

そう言い残し、妻であった瀧蔵権現は天に上り霞に消えてしまわれたのです。そしていつも供にいた少年も『私も大和長谷山の山口の神である。これまではお前に仕えて参った。このことは決して人に語ってはならない』と言って天に上っていってしまいました。

 その夜になって、天に去った妻が常日頃大切にしていた手箱からこの世ならぬ芳しい香が漂って白助のいた部屋を満たしました。白助は不思議に思い蓋を開けて中を見てみると、そこには妻の左の腕が残されていたのです。それから七日後、箱の中の腕は肌の色が変わって金色に輝きだしました。そこで白助がその腕を本尊の失われた左手の部分につなぐとピッタリと合いました。今日もなおこの観世音の御手は温かであります。これらはみな奈良初瀬山の観世音の御恵みであり、初瀬山の神々の御働きによって信濃の長谷寺を建立したのも人々を救おうというためなのでしょう。この信濃の長谷寺は今日も霊験新たにして、人々の信仰を集めています。

 翁には五人の子供がありましたが、翁は亡くなるにあたって、それぞれに一万石を与えました。それ以来人々はみな白助を五万長者と呼んだということです。これらはみな、大和の国の長谷観音の本願であり、善光寺如来のお告げによって、(大和長谷寺の本尊が顕れた)寳の石も未だ顕れる遥か昔に、長谷山の恵みを受けた話でありました。

白助物語:原文

仁王三十五代、舒明天皇の御宇に、当寺(大和長谷寺)の宝石も観音も、いまだ顕れたまわざる前一百年ばかりに、信濃国更級郡姨捨山のほとりに、允恭天皇六代の孫、白介(白助に同じ)の翁という人おわしき。

(白助の)祖父、朝家(皇室・大君)に不忠のことあって、彼の国に移されて後、彼の国の土民となり、貧人てぞおわしける。幼少のとき父母に別れ、生長の後、孝行をつくす雙親の菩提の為に、みづから薪を取って、千日の湯をわかし、毎日一本の卒塔婆を造る。すでに千日の湯、千本の卒塔婆、思いのごとく成就す。

お能の翁面を思わせる白助像(開基殿本尊)

これを供養せんとするに導師も布施もなし。思いのあまり善光寺に参ってこのことを祈るに、七日に満する早朝に、忽然として一人の僧現に来たり。請わざるに云う。汝の孝養の志もっとも深し。我行って汝が願いを果たさんと云う。翁悦んで更級郡に共に行って、この僧を導師となし、宿願を果たす。

其説法の詞に、教て云く、汝が所願成せんと思は、我朝大和國長谷寺と云う所は、功徳成就の地、生身の十一面観自在菩薩在す。衆生を利する砌なり。毎月彼の山に参詣して、自身の現當二親の菩提を祈るべしと云う。

説法の後、施主の翁が請に依て、件の僧千日の湯屋に入って沐浴す。則ち浴室に異香薫じにおいければ、翁あやしみて窓の間より僧をみるに、金色の阿弥陀如・来まします。随喜のあまりに、内へ入って礼せんとするにましまさず。ただ異香のみ留て、多年を経て湯屋破れて後、浴室の板七枚を新長谷寺のお堂に納む。異香薫じて今に有り。末代眼前の不思議。是れ善光寺の如来化けて、長谷山は観音往古の霊地たることを顕したまえるなり。

翁かの説法の詞にしたがって、当山(奈良の長谷山)に尋ね入るに、寳石いまだ顕はれ給わざる前なれば、堂舎もなく、本尊もいまさず。ただ茫然として山に向かうほどに、中心に當って光を放つところあり。其の在所に卒塔婆を立て、毎月に香花を備えて礼拝し念誦すること三ヵ年。

或夜の夢に件の卒塔婆の下に、今顕はれ給う金剛座の辺りに、立像の十一面観世音菩薩まします。其の右の脇に十七八計の童子います。夢の内に歓喜して、誠に当山は観音利生の砌なり。掌を合わするところに童子告げて云く。此の尊に汝が功を入れ奉らば、汝が所願必ず成すべし。明日この山を出るとき、最初に相たらん女を妻とすべしと。

夢さめて下向しけるほどに、初瀬の里、森というところにて、童子一人具したる女に合ぬ。みめことからゆゆしくして、立ち寄るべき様もなし。翁兎角親しみ依って、夢想の様を語る。女則ち汝に従わんと云う。悦んで具足して本国更級郡に下る。

此の女みめと云い、心さまと云い、馴るるに付て彌々志し深し。月日を送る程に、かかる女房ありと、領家蘇我大臣これを聞きて、心移って、かの夫に親しみ寄って、或る時領家と翁と小弓を番て云様、我もし負けなは千両の金を汝に取らせん。我もし勝たらは汝の妻を我に與えよと云う。夫心中に深く歎いて、思いのあまりに観音に祈念し奉て、計らず勝て千両の金を取る。

領主かさねて云く。最上の相撲を以て汝に合む。もし我方敗けなば汝をして領家代と成さん。我れもし勝たは汝が妻を我に與えよと云う。翁答て云く。君ならば我も合へし。代を立は、我も人を尋と云て、後日を契て去ぬ。翁此事を妻に語る。こたえて云う。汝ぢ歎くことなかれ。我汝が代りを尋ねと云て、則ち長谷より具する所の童をやる。

次の朝六十ばかりの男の疲衰えたるを具して来る。その男相撲にまた勝ちぬ。翁悦んでこの男の由来を尋に、詳かに答えず。密かにこの男の行く所を見るに、近江国高島郡太山寺の右の仁王と見成す。

彼の翁終に領家代と成り、千両の金を以て、ゆゆしく富貴にして、且は二親の菩提の為、且は大悲報恩の為、夫が長谷寺( 奈良)にて夢に拝し處の十一面を造り奉って、我が敷地に寺を建つ。今の信濃国更級郡の新長谷寺是れなり。

その後九ヵ年を経て、くたんの本尊の左手忽然として失せぬ。時天くもり山幽にして、翁が家を巻き覆い、夜中に及んで件の女房の云う。我は是れ長谷寺の地主瀧蔵権現なり。大聖の御使に此の所に来れり。然るに此本尊の御手失せ給ふ事並びに我が怪異也。汝が所願すてに成就す。我れ本山に帰って、常に此の山に影向し、この伽藍を守り奉んと思ひ、日頃汝と夫婦なりと。人に語るべ可らす。但し、後の形見の為、来世衆生のため、我が一手を留と云て空に上り、霞に入ってうせたまいぬ。則ち亦具する所の童、我は是れ長谷の山口の神なり。日頃汝に仕と。人に語るべ可らずと云って同じく天に上る。

其の夜、かの女房日頃持ちたりける手箱、異香薫じて室に満つ。恠んて蓋を開けて見れば、中に件の女房の左の手あり。七日を経て後、肉色変て金色と成る。この手を本尊の御手に合て、都へて違わず。今にこの仏の左の御手温かなり。是れ併當寺の観音の御恵も、此の山の諸神の御方便にて、彼新長谷寺を建立し人を度せんか為なる者か。今に威験新にして、貴賎の帰依を成す。

この翁に五人の子息あり。死去の時分各一万石を與う。其れより人合て五万長者と名つく。凡そ和州長谷寺の本願は、善光寺の如来の告に依って、寳石未だあらわれざる前、この山の利生にあつかる。

住職による解説

 鎌倉時代初期の編纂と伝えられる『長谷寺霊験記』は、奈良長谷寺の霊験譚を集めた説話集ですが、その下巻の冒頭に私たち長谷寺の縁起を伝える白助の翁の物語が記されています。

 この物語は今を去る遥か1400年も昔、更級の里に住んでいた一人の男シラスケが亡き両親の供養を祈り、善光寺如来の霊告によって大和の国の初瀬へと巡礼の旅に出るところから始まります。シラスケの貴種流離譚を思わせる謎めいた話や、美しい女性との出会いと別れ、女が残していった左腕の怪異など、物語は私たちの深い心の旅へと誘いながら、やがてシラスケによる本尊十一面観世音菩薩の奉安と信濃国長谷寺の開基へと展開していきます。私たちはこのシラスケ物語を読み味わう時、この物語が人間の魂の再生と成熟への物語として見事に描かれていることを知るでしょう。

 「ハツセ」という言葉は、「初瀬」とも「泊瀬」とも表記されますが、これは水の流れに強い関心を持った古代人の霊魂観に由来します。我々の祖先は、水の流れが泊まっては流れ初める瀬に、終わりと始まりがひとつになる永遠への世界を垣間見、魂が死んで甦ってくる霊地として畏れ敬ったのです。そのように水の流れが泊まっては流れはじめるのは「長い谷」であり、各地のそうした奥まった谷川が「ハツセ」と呼ばれて聖地として信仰されたと考えられています。したがって、そこへ往って還ってくるのは「死と再生の擬似体験」であり、長谷詣でとは、自らの魂の死と再生を願う巡礼なのです。その幽明の境に観音菩薩は立ち現われるのではないでしょうか。

 シラスケの『シラ』は古語としては「生まれ清まり」を意味する言葉であるといわれますから、まさしくこの物語は、ハツセという聖地において生まれ清まった、再生した人間の物語なのです。そしてシラスケの祈りは彼ひとりの祈りであることを超えて、やがて当山を開き、更級の大地に仏教や豊かな文化を育むまでに広がっていきました。

 私たち日本人の心は、今、深い闇へとさ迷い込んでいます。この暗い闇から再生する新しい物語の創造が望まれています。この物語が、そんな魂再生の物語を創造する手がかりを与えてくれるものとなることを祈っております。

動画 長谷寺開基の物語

数年前に、地元の小学生たちが、有線放送で演じてくれたものです。

絵本

信州長谷寺縁起 白助ものがたり

作画・森貘郎 文・岡澤恭子