住職日記

白助物語(長谷観音開基伝説を読む) その3

 旅から還って

       

             

 夢さめて下向しけるほどに、初瀬の里、森というところにて、童子一人具したる女に合ぬ。みめことからゆゆしくして、立ち寄るべき様もなし。翁兎角親しみ依って、夢想の様を語る。女則ち汝に従わんと云う。悦んで具足して本国更級郡に下る。

                         

 大意 白助は、夢から覚めて山から下りていくと、初瀬の里の森というところで、童子を一人連れた女と出会いました。その女は姿形がとても美しく、白助としては近づきようもありません。しかし翁は兎にも角にも親しげに近寄って、夢の経緯を語って聞かせました。すると女はただちに『あなたに従いましょう』と言うではありませんか。白助は大喜びで、さっそく女と童子を連れて故郷の信濃国更級郡へ帰りました。

 

 白助の物語は、これまで彼の内面的な修行が中心でありましたが、この辺りから、白助の冒険はむしろ現実の世界との関わりが中心になってまいります。文字通り夢からさめ、現の世界での活躍へと展開していくのです。観世音菩薩はその経典が説くように「現世利益」の願いを叶える仏といわれますが、前章までに描かれたように、現世において利益を得るためには、慈悲心(観音性)の回復や再生が前提とされます。観音経がその全段を通じて「一心にその名を称えれば」とか「彼の観音の力を念ぜば」というのは、救済神としての観音を呼ぶということのみならず、私たち自らのうちに秘められている慈悲心呼び覚ますこと、あるいは傷ついて死に掛っている観音性を蘇生されることも意味しています。内的に仮死状態にあった観音性という精神が、私たちのうちに蘇るとき、今日の医療が提唱する「実存的転換」があり、従来の実存において解決できなかったことが解決したり叶わなかった願いが自ずから叶う。慈悲心(観音性)というのは、実存においてはそれほど重要な働きをなすものといえるのでしょう。

 

 さて、夢から覚めた白助は、すなわち慈悲心の再生を果たし実存的に転換した白助は、観世音の夢告のとおり、山から下りた長谷の里の森という場所で、最初に出会った美しい女を妻とします。妻としますといっても、現在の私たちの感覚からすると、この場面はやや理解に苦しむといいますか、非常識な印象を与えます。なぜなら、初対面の女性に向かって、突然「あなたと結婚しなさいという夢を見たので妻となってください」と言えば、まず確実にその女性は逃げ出すでしょう。

 

 ところが、この女性はふたつ返事で同意してくれます。昔話には、時々このような場面があるようです。つまり神仏のお告げを受けると、現代人の目から見たら信じられない気軽さで人生を変更してしまうのです。白助自身も、観世音の夢告に対して素直に対応しています。観音さまがそう仰るんだからそうするのが善かろう、という感じです。人間中心主義、科学時代の私たちは、こんな白助や女性の行動に首を傾げてしまいますが、考えてみると先に述べた実存的な転換ということを、現代の私たちより古代の人間はスルリと出来たのかもしれません。「自己の確立」にこだわるあまりにっちもさっちもいかなくなる現代の人間に比べると、白助の時代の人々は、やわらかな心身のあり様を持っていたのかもしれません。

 

 しかし実存的な大転換をし魂の再生を果たすには、やはり白助のように、自分の存在を懸けた修行をしなくてはならないのかも知れません。末期がんの患者が、苦しい闘病の中から自己の生き方に大きな転機が訪れた時に、余命が少ない中にも「生きる意味」を再び見出して「元気」を取り戻し、その結果余命が飛躍的に伸びる例があるそうです。まさに白助はこの旅を通じて現世に生きる意味を見出していくのです。その最初に、人生の伴侶となる女性との出会いが描かれるのです。現実的な生きていく意味を回復する時に、異性の存在(エロス)が重要な働きをすることはしばしばあることです。物語はここから、妻である女性を軸に展開していきます。

 

      

 此の女みめと云い、心さまと云い、馴るるに付て彌々志し深し。月日を送る程に、かかる女房ありと、領家蘇我大臣これを聞きて、心移って、かの夫に親しみ寄って、或る時領家と翁と小弓を番て云様、我もし負けなは千両の金を汝に取らせん。我もし勝たらは汝の妻を我に與えよと云う。夫心中に深く歎いて、思いのあまりに観音に祈念し奉て、計らず勝て千両の金を取る。           

     

 大意 妻となった女は、見目といい心といい、馴れるほどにますます情け深くなっていきました。一緒に月日を過ごすうちに、このように素晴らしい女性がいるということが、土地を治めていた蘇我大臣の耳に入りました。大臣はその女性に興味を持ち、夫である白助に親しげに近づきました。そしてある時、大臣は白助と小弓を競っている時にこう言います。『小弓勝負に私が負けたらお前に千両の金をやろう。しか私が勝ったら、お前の妻を私に譲ってくれ』。白助は心から困り歎きます。そこで観世音に祈りを捧げたところ、勝てないと思った勝負に勝って千両の大金を得ることが出来ました。

 

 白助は貧しく生き、両親の供養のことばかりで頭が一杯の人生を歩んできた人物だったと思われます。ですから、孤独で女性とも縁のない朴念仁だったでしょう。そんな彼が、旅をして生まれ変わり、女性と結ばれて生活を開始します。彼の暮らしは喜びと発見に満ちていたでしょう。きっと女性というのはこんなにも素晴らしいものなのかと、妻となってくれた女との暮らしを謳歌したに違いありません。(もちろん、女性とはこんなにも強いものかと驚いて、夫婦という関係の難しさに打ちのめされたこともあったはずです)

 

 ところが、その妻があまりに美しいという評判が、土地の権力者の耳に届きます。昔は、結婚というものも現在のような法的な制度として成立していませんでした。今日と違って女性の立場も極めて不安定で、社会的には交換されてしまう物のような扱いを受けていた時代もありました。そんな時代の権力者にしてみれば、美しい女を手に入れるのに、ためらいがあったとは思えません。しかし、この「蘇我の大臣」は比較的フェアな人物らしく、いきなり奪うことはせず、一応は勝負によって目的を果たそうとしています。

 

 これまで、白助を苦しめてきた問題は、極めて精神的な課題が中心でした。しかし巡礼と修行の命懸けの旅を終えて精神的に自立した白助は、今度は実社会に向けて人生の旅をすすめます。その第一歩が結婚でありましたが、内面的な問題をある程度克服した白助の前に、女性をからめた外的な諸問題が続くのです。

 

 白助はあまり武勇に優れた人物ではなさそうに思われます。ですから、負けるに違いないと心配でならず、こんな重大な問題なのに当事者である妻に相談も出来ません。その点では白助はまだ現実に立ち向かう上で弱さを持っているようです。

 

 ただ、かつての白助と違うのは、内面的な支えとしての観世音への信仰を確立しています。すなわち、白助は観世音に祈念することで、図らずも勝ってしまうのです。「意外にも」ということでしょう。これは観世音菩薩の現世利益の優れた面を強調するエピソードでありますが、観音経には、どんな危機に面しても観世音の名を呼ぶことを忘れなければ危機をチャンスに転ずることができると説かれています。有名な種田山頭火の庵を「其中庵」といいますが、それはどんなパニックの中にあっても観音の名を唱えるだけの静かな心を失わない人間でありたい、という意味がこめられた名前なのです。「其中」とはパニックに混乱する人々の「其の中の一人」ということであり、観音経の「其中一人」という言葉からきています。白助は困惑と動揺の中にあって、観音に祈ることを見失わなかったことによって、戦いに際して自分の能力を出し切ることが出来たのでしょう。先に述べて慈悲心の働きとしてみるなら、慈悲の心は動転しパニックになりそうな精神状態を平静に静める力も持っているということでしょう。

 

      

             

 領主かさねて云く。最上の相撲を以て汝に合む。もし我方敗けなば汝をして領家代と成さん。我れもし勝たは汝が妻を我に與えよと云う。翁答て云く。君ならば我も合へし。代を立は、我も人を尋と云て、後日を契て去ぬ。翁此事を妻に語る。こたえて云う。汝ぢ歎くことなかれ。我汝が代りを尋ねと云て、則ち長谷より具する所の童をやる。 

              

 大意 領主はかさねて言いました。「最強の力士をもってお前と相撲を取らせよう。もし我が方の力士にお前が勝ったら、お前を領家代に取り立てよう。しかし、もし我が力士が勝ったら、お前の妻を私に譲ってくれ」と。白助は答えます。「あなた様となら私自身が相撲をしましょう。しかしあなたが代りの力士を立てるのなら、私も誰か力士を探して参ります」。そう言って後日を約束して白助は領家のもとから帰ってきた。白助はこのいきさつを妻に語って聞かせます。妻はそれに答えて「あなたは心配することはありません。私が代りの力士を見つけだしましょう」と言いました。そして妻は奈良の長谷より連れてきた童子を使いに出しました。

 

 領主はさすが政治家です。ずるい駆け引きやインチキな勝負に人を誘い込んで陥れようとしています。実社会の現実に向き合って生きていこうとする白助の前に、こうして難問が続けられます。今度はより取り組みにくい問題として、文字通り「取り組み」を避けがたい相撲が課題となっています。(このへんに、物語の持っている何とも言えないユーモアを感じることが出来るでしょう)

 

 しかし白助も次第に生きていく智慧をつけ始めています。彼は領主の口車に乗ってしまわずに、「オレも力士を連れてくる」と五分五分の勝負をするように持ち込みます。この点で白助の現実に対処する成長が描かれ、白助は相撲の方はともかくとして、領主との智慧比べでは堂々とやりあっているわけです。

 さらに白助の成長が次に描かれています。彼はこの難問についてためらわず妻に相談しているのです。前回の小弓比べの時は、恐くて妻に打ち明けることが出来ずにいました。しかし、その難問を観世音の支え(慈悲心)によって乗り越えた白助はさらに一回り大きくなっており、人間的な成長を遂げているのです。そこで彼は、愛する妻と智慧と力を合わせてこの無理難題に取り組むわけです。

 

 私たちもまた、人間的に未熟な間は現実の問題を処理していく際に、ひとりよがりな取り組み(独り相撲!)によって自滅的な失敗を繰り返します。しかし、そうした経験の中で、相談すべきは相談し、助力が必要なときは援助を請うことができる人間へと成長していくのです。自立とは必ずしも依存を排することではないのですね。

 

 白助のこの辺りのストーリーは、ほとんど白助が受動的な姿で描かれていますが、その受け身の姿の中にも、積極的な決断や主体的な取り組みがあり、それを支えているのが智慧というものなのです。このようにして、白助は内面的にも外的にも成長していくのです。

      

             

 次の朝六十ばかりの男の疲衰えたるを具して来る。その男相撲にまた勝ちぬ。翁悦んでこの男の由来を尋に、詳かに答えず。密かにこの男の行く所を見るに、近江国高島郡太山寺の右の仁王と見成す。             

 

 大意 童子は翌朝になって、六十才くらいの疲れきった様子のヨボヨボの男を連れてきました。ところがこの男が相撲に勝ってしまいました。白助は大喜びでこの男が何者なのかを尋ねましたが、男は詳しく答えようとしませんでした。そこで白助は、密かに男の帰っていった先を見届けると、近江国の高島郡にある太山寺という寺の右の仁王さまであることがわかりました。

 

 童子が連れてきた男はどうしようもないヨボヨボの男だった。ところがこのヨボヨボが領家の最上の力士に勝ってしまう。それもそのはずで、ヨボヨボに見えた男は実は近江の国の太山寺という寺の仁王さんだったのです。

 

 白助はこの男を最初に見た時どう思ったのでしょうか。おそらく「大丈夫だろうか?」と不安になったに違いありません。けれども、ここでの白助は慌てて観音さまに祈念しないのです。むしろ、妻と童子を信頼してヨボヨボ男にすべてを任せたのでしょう。すると現実とは得てしてそういうものですが、小さな姿の陰に大きな力が秘められていたのです。

 

 この話はいささか教訓的でもあり「人は見た目によらない」とか「見た目で人を判断してはならない」という生活の智慧を私たちに教えています。白助もまた、現実に鍛えられていく中で、表面的な現象に左右されずに、本質的に物事をとらえる力を身につけていくようです。そのために白助は男の後についていき、男の正体を探求します。

 

 しかしながら、この小さな挿話も、先の白助と女の結婚と同様に私たちを考えさせるでしょう。なぜなら、今日の私たちなら、自分の一生を左右する勝負の代理人がどこの馬の骨とも知らぬまま任せ切ることは出来ないと思われるからです。いくら信頼する妻の紹介とはいえ、躊躇わずにはいられないはずです。そして前もってその男の由来を調べあげたくなるでしょう。

 

 ところが、白助の態度は逆なのです。このような、自分を囲んでいる事情の展開に対する取り組み方の違いは、白助のものと現代の私たちのものとで、どちらが善いのかはわかりません。しかし、準備万端で自分の人生を計画したり貯金したりしている現代の私たちの方が、自分の世界を狭苦しいものに整えてしまっていると感じられることも実際ありますので、時には、必要以上の慎重さは止めてみるのも却って善い結果を生むこともあるのでしょう。

 

 ちなみにこの近江国の太山寺という寺は、戦国時代に織田信長によって焼かれてしまって今は跡地だけが伝えられているそうです。織田信長に焼かれたという歴史が意味しているとおり、それまでは大変な権勢を誇った寺で、天台宗の修験道の中心的な存在であったらしいのですが、白助の危急を救うのがこの寺の仁王だったというのは何を意味しているのでしょうか。

 

 『白助物語』の一つの特徴は、このように場所や時代などが、比較的特定されているということです。また特定されているだけに、私たちが長谷寺の歴史を想像する助けにもなります。近江という土地は、大和の長谷寺の開山の事情にも深く関わっています。また、信濃の長谷寺の歴史には、かつて天台宗であったのではないかと思われる節が多々ありますので、その点を考えていくうえでも、この仁王さんの存在は今後も検討するべきものと思われます。

 

      

 彼の翁終に領家代と成り、千両の金を以て、ゆゆしく富貴にして、且は二親の菩提の為、且は大悲報恩の為、夫が長谷寺( 奈良)にて夢に拝し處の十一面を造り奉って、我が敷地に寺を建つ。今の信濃国更級郡の新長谷寺是れなり。

        

 大意 白助の翁はこうして約束どおりついに領家代となり、千両の金によって大変豊かになりました。そこで両親のため、そして自分をここまで導いてくれた観世音の大慈悲に対する報恩のために、かつて長谷山の山中で夢に拝んだ十一面観世音菩薩を造り、自分の家の敷地に寺を建てました。それこそ今日の信濃国更級郡にある新長谷寺なのです。

 

 白助は領家からの難問を見事にクリアし、領家の代官としてこの土地を治めることになりました。そこで、白助はかねてよりの悲願であった両親の供養のためと、自分に力を与えてくれた観世音に対する感謝をこめて、その仏像と仏殿を建立します。

 

 白助の冒険物語はここで一つの区切りを迎えます。彼は最初に両親の供養をきっかけにして自分の修行のための旅をします。その巡礼によって精神的な成長を果たしてからは、聖なる世界から俗なる世界へと帰還し、まずは結婚し、そして現実的ないわば社会人としての修行をし、ついにそこでも成功を納めるのです。

 

 この前半から中盤にかけての展開は、白助という一人の人間の成長の軌跡であると同時に、私たち人間の心身の成長の在り方をも表しているように思われます。

 

 さらに、ここで語られていることは、宗教というもののあり方の理想でもあると思われます。というのは、白助という人間は、最初まったく個人的な動機だけで悪戦苦闘していますが、それがその内面的な修行を終えるとにわかに他者との関係性を回復し、女性と結ばれたり、外圧として迫ってくる実社会と関わっていくからです。私たちの宗教性というのも、このようにして個人的なテーマの克服が次第に社会性をもったものに高まり、他に対する慈愛の働き掛けとして表現されていくべきものなのではないでしょうか。

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