住職日記

野沢菜を漬けました

年の瀬が近づき、寒さも冬らしくなって来ました。

風が冷たくなったと外にでるズクがなくって来る頃になると、一本の電話が入ります。

それは、弟の奥さんのご実家からで、「今年もそろそろですよぉ」と、お寺で漬ける分の野沢菜を分けて下さるお電話なのだ。

いつ頃からか、北風小僧の寒太郎のように、我が家にいよいよ冬を知らせる電話を頂くと、いそいそと頂戴に向かう。

ちょうど、長谷寺と千曲川をはさんで東側の山の麓にお宅がある。

車で、広々とした田んぼの中を抜けていくと、あちこちの畑で野沢菜を収穫している人の姿を見かける。また、庭先で家族総出で野沢菜を洗って漬け込んでいる家もある。

信州の冬の始まりだなぁ、と思う。

お宅に着くと、お母さんが玄関先でやはりたくさんのお菜洗いをしていた。

陽射しもあって、そんなに寒いとは感じなかったから「ちわ、暖かいですねエ」と声をかけたら、「あら、いらっしゃい、でも、風は冷たいよ」と笑う。

この季節に、肌を切るように冷たくなってきた水で洗う。そういうものなんだから仕方ないけど、確かに野沢菜を洗い流す水に吹く風は、少々の陽射しが当たってもヒリヒリと冷たい。

お寺で頂くのは、すでにきれいに洗ってもらって軽く乾してもらってあった。

毎年のことながら、まったくありがたい。

「気候のせいか、なんだか今年のは細いみたいだねぇ」という。

二把、10キロほどの野沢菜を頂いき、ご主人に挨拶をして帰る。

その夜、夕食の後でさっそく女房と漬けよう、と思った矢先、娘のインフルエンザが発症した。

熱が上がり、野沢菜漬け大会は延期となった。

ようやく娘の熱も下がった。早くに気がついてお医者さんでお薬を頂いたのが効いたのか、一時40度近くまで上昇した熱もスルスルと下がってよく食べよく寝る。

そこで、今朝、朝食の後で延期されていた野沢菜漬け大会に挑んだ。

夫婦の共同作業は、披露宴などでは「ケーキ入刀です!(私の場合はたる酒の鏡割りでしたなぁ)」なんて言って浮き浮きしたりするが、生活が始まるとこういう漬物を漬けるような作業が中心になる。それに、だいたい夫は妻に命ぜられるままその「共同作業」に粛々と従うのみである。

なんでも、最近では、冷たい水より、少し温めの湯で洗ったほうが良いそうである。

それは朗報である。

昔の人だって、暖かい湯が水道から出ればそうしたに違いない。精神主義的な話の中には、物理的な条件によるものも少なくないと思われる。が、ぬくぬくと湯で野沢菜を洗っていると、やはり何となくご先祖に、特に代々のお嫁さんに申し訳ない気がする。

そういえば、亡くなった母親はいつもひとりで漬けていた。

手伝ってほしいとも言わず、気がつくとすでに漬け終わっていたから、今にして思えば、子どもらが学校に行っている間などに済ませていたのだろう。

「手伝ったこと、ないな」と野沢菜を洗いながら女房にいった。

「息子なんてアテになんないわねぇ、本当に」

「親父もアテにならなかったようだ」

「そう言えばね、野沢菜漬けの素とか、樽とか買いに行ったらね、街のスーパーには売ってないのよ。それで、うちの近所まで戻ってきたら、いっぱい売ってたわ。野沢菜漬けコーナーまであるの。きっと、新しい住宅街に住んでいる世代では、もう野沢菜漬けしないのね。だから店頭に並べても売れないってことよ」

「なるほど、でも郊外の、うちの近所みたいな周辺には売ってるったことは、まだまだ自宅で漬け込む家がいっぱいあるってことだな」

「そういうことね」

「しかし、なんだな、漬物を漬けないということは、その家の味とか、冷たい水で嫁をいびるとか、そういう文化はなくなるな」

「言葉では伝わらないけど、こういう作業を通じて伝えていたことは、たくさんあるものね」

「そうだなぁ」

「ショクイクって、最近よく言うじゃない?」

「食欲?昔から言うぞ」

「ショクイクよ、食事の食に、教育の育と書くの」

「食を育ててどうするんだ?」

「食を通じて育てるのよ、子どもたちを」

「放っておいても、勝手に食べてるぞ、特にうちの息子は」

「ううん、そうじゃなくて、食を通じて、いのちや地域文化や、家族のことや、自分のことを学ぶのよ」

「ほほう」

「それでラジオを聴いてたらね、子どもに自分で弁当を作らせてる学校があるんだって。それがね、いろいろ大変だけど、けっこういいらしいのよね」

「へぇ」

「でも、ある中学校でね、親に弁当を作ってみようって企画でやってみたんだって」

「そしたら?」

「そしたらね、ある生徒が、授業ではちゃんと作れたのに、手作り弁当の日には全部レトルトのおかずを弁当箱に入れてきた子がいたんだってさ」

「なんで?」

「それでね、先生も驚いて、その子に訊いたらしいのよ」

「そしたら?」

「そしたらさぁ、その子、子どもの頃から一度もお母さんに手作りのご飯を作ってもらったことがなかったんだって」

「それはまた・・・」

「その子は、その弁当を『復讐弁当』って言ったんだってさ」

「・・・・」

思わず、野沢菜を洗う手も止まる。

野沢菜を漬ける作業だけじゃなくて、親から子へと、いろいろと作業を介して伝えることはあるらしい。

母親が、家族の知らない時に、冷たい水で野沢菜を漬けていたことを思う。

女房が言う。

「そのラジオの先生はね、子どもの頃、おうちが貧しかったんだって。でね、親が出席する地域の集まりか何かがあると、必ず宴席があってお重のお弁当がでたんだってさ。それを親が持ち帰ってくれて、子どもたちはそれを食べるのがとても嬉しかったんだってさ」

「へえ」

「それがね、実は、自分の親は自分の空腹をこらえて、子どもたちのために箸をつけずに持ち帰って来ていたんだって」

「そういう時代だったんだな」

「だから、自分が親になってみてね、自分の空腹を堪えて我が子に食べさせたいと思えるかなって、どう?」

「今の世の中、なかなかそういう事態にまでは発展しないな」

「そうでしょ、昔、貧しかった時代には、そんなふうにして食べ物ひとつとっても、親の思いを伝える場面があったのよねぇ」

「今は、マック買ってやったり、セブンの肉まんを買ってやったり、買ってやることでかわいがるけどな」

「だから、豊かな時代に、親子の絆を深めるのは難しいということなのね」

「なるほど」

と、頷いていると、女房が次なる作業を命じる。

「ほらほら、ちょっと漬けた野沢菜を上から押して、そしたら物置から15キロの重石を運んできて、次に樽を外に出して重石を載せてね、ハイ、アリガトアリガト、ふうぅ、疲れるわねえ、ホントにもう」

この時代は、食を通じて親子の絆を深めるには難しいが、野沢菜漬けを通じて夫婦の絆を強化するには適しているのかもしれない。

 

 

かくして、今年も野沢菜は漬け終えた。

少し安心。

暮れがせまってくる前に、大切な行事を無事終えた。

 

今年は美味しく漬かるかなぁ。

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