住職日記

塩崎城のお話

大塔(おおとう)物語舞台

      塩崎城のお話

 今から、六〇〇年ほど昔、有名な京都の金閣寺が建てられた頃、ここ塩崎の地で、とても大きな戦がありました。歴史に残る激戦(げきせん)です。これから訪ねる塩崎城跡(白助城)は、その激しい戦があったことを今に伝えるお城として、日本の歴史の中でもよく知られる重要な場所です。

 物語は「大塔物語」というお話に詳しく書き残されました。この物語を頼りに、私達の故郷である平和な塩崎で、昔、そんな戦があったことを、一緒に学びましょう。


一、はじめに~大塔合戦のあらまし~

 今から六〇〇年前の時代は、室町時代と呼ばれています。京都の室町幕府の将軍を中心に、幕府から「守護」がやってきて全国の国々を治めていました。当時、私たちの信濃国は、現在の坂城町で栄えた村上一族を中心に地元の武士たちがとても強く、都からやってくる守護も手を焼いていました。

 そこで、幕府は古くから信濃と関係のある小笠原長秀を差し向けました。ところが、この小笠原長秀は、政治のやり方が下手なうえに、信濃の人々を馬鹿にして威張ってばかりいたので、信濃の武士たちは皆強い反感を抱いていました。とうとう、その勝手気ままな政治を続ける長秀に対して、誇り高い信濃武士たちは反旗をひるがえして立ち上がり戦となったのです。

 この時の戦が、世に「大塔合戦」と呼ばれる激戦で、私たちの故郷塩崎を舞台に繰り広げられました。信濃の武士たちは強く、小笠原長秀は追われてついに塩崎城に逃げ込みます。長秀の部下たちは、みな討ち死にし、残った長秀は知り合いの大井光矩(おおいみつのり)という武士に助けを願いました。大井の仲裁で、長秀はなんとか命だけは救われ、京都へ逃げ帰りました。幕府から来た守護が、地元の武士たちによって追い返される大事件として、日本の歴史の中でも有名な出来事です。

 この「大塔合戦」は、あまりに激しい戦いだったので、たくさんの死者が出ました。そのため多くのお坊さんたちが戦死者を弔、また戦のむなしさから、たくさんの人が出家してお坊さんになりました。

 塩崎城は、このように六〇〇年以上も前に塩崎を舞台繰り広げられた戦いの歴史を今に伝えています。この城は、その後も武田上杉いう有力な武将ちも重視しました。塩崎という土地が、信濃の国の中でとても重要な場所であることが分かります。

 城跡には、古い石垣や砦跡が今もしっかりと残っています。これから、その場所を実際に訪ねて、昔の人たちのこと、故郷の歴史を学びましょう。


二、塩崎城の姿 

 お城は、敵との戦いのため、また領地を守るために築かれました。六〇〇年前のお城は、松本城や姫路城のような立派な天守閣があるものではなく、実際の戦闘の時に「敵には攻めにくく味方には守りやすく」造られた、飾りのない戦いのためだけに築かれたシンプルなものでした。

 シンプルとはいっても、戦いのための工夫がたくさん施されていて、急な山の上に、長い塀のように石を積み上げたり、深い竪掘(たてぼり)を掘ったりして、敵が近づけないようにしました。敵の動きを見はったり攻撃したりするための高い「櫓」も作りました。

 塩崎城は、長谷寺の裏山のとがったところを利用して作られていて、どの方角からも攻めにくい、とても強いお城でした。昔から、こういうお城を「天然の要害」、「難攻不落の城」と呼びます。城跡の上の方に立てば、木々の間に、南は坂城、上田の方まで、北は川中島から、長野、須坂の方まで遠く見渡せます。背後は、篠山がそびえ自然の壁となっています。敵の動きも良く見えたでしょう。また、山の湧水も近くにあり、雨水をためる天水溜も作られていて、長い戦闘になっても戦えるようによく準備されていました。

 大塔合戦では、信濃の武士たちに追われた長秀がここに逃げ込みました。圧倒的に不利だった長秀でしたが死なずに済んだのは、この城が非常によく出来たものであったからでしょう。

 塩崎城跡には、当時の姿がいくつも残っています。それらを実際に見て、想像力を働かせて、昔の戦について考えてみましょう。

 

三、戦場の子供 

 大塔物語には皆さんと同じくらいの子供も登場します。そして、悲しいことに、命を落としてしまいます。

 それはこんなお話です。戦も終盤にさしかかり、兵の数の少ない小笠原軍が信濃武士たちに押され、一部の兵たちが古い大塔の砦に立てこもって何日も過ぎた時でした。もはや食べるものもなくなり、兵馬を殺して食べるほどでした。しかし援軍もなく、負けは明らかでした。

 ある時、負けを覚悟した小笠原の武士たちは、せめて自分たちの長男だけでも助けようと秘かに砦から逃がします。しかし下の弟たちは逃がすことが出来ず、とうとう食べ物も尽きて飢え死にするほかない状態になってしまいます。けれども、誇り高い武士たちは戦場で飢え死になどできないと、武士らしく切腹をしようということになります。この時、十三歳の八郎という名の少年が、故郷に残した母を思って、人目を忍んで泣きながら、故郷の方の空を仰いで歌を詠みました。

 

 世の中に

      さらぬ別れはしげけれど

                 親に先立つ道ぞ悲しき

 

 「世の中には、さけられない別れはたくさんあるけれど、親に先立って死んでいくことほど悲しいことはない」と、先立つ悲しみを歌ったのです。

 こうして砦に立てこもった小笠原軍は、武士はもちろん、行動を共にしていた子供たちまで全滅してしまいました。八郎も父とともに亡くなりました。

 後に、戦が終わると、死んだ夫と息子の八郎の形見が、お坊さんの手によって母のもとに届けられました。母は泣き崩れ、悲しみのあまりそのお坊さんのもとで尼となってしまいました。

 尼となった母は、息子の八郎の供養のためにとはるばると塩崎までやって来ました。そして、こんな歌を詠みました。

 

  あくがれて

      よるべも波の海士小舟

           うき塩崎にかかる身ぞ憂き

 

 ふらふらと波間にさまよう海人の小さな船のような私だけれど、息子が命を落としたこの塩崎に来てみれば、いよいよ悲しみは強くなるばかりだと。

 この後、母は夫と息子のお墓にたどり着き、お墓に向かって、まで夫も息子も生きているかのように語りかけました。いくら話しかけても返事があるはずもなく、ただただ嘆くばかりでした。泣く泣くお墓を後にした母は、善光寺に行くと念仏修行のお坊さんの中に入って死ぬまで夫と息子のお弔いを続けたそうです。

          

 六百年以上も昔、塩崎を舞台に、このように大きな、そして悲しい戦がありました。信濃守護である小笠原氏と、信濃武士たちの戦、「大塔合戦」です。塩崎城は、この悲しい物語を今に伝えています。これからも塩崎のみんなで守り伝えて参りましょう。

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