住職日記

安らぎに親しむ一分間の修行

師曰く、瞑想とは、、、、。

最近は、私たちお坊さんも、リモートでの勉強会や会議が増えました。

先週は、自分自身の「エンディング」を考えるzoom勉強会に参加してお話をさせていただく機会もありました。エンディングつまり自分の人生の閉じ方を考えるにあたり、お葬式についてお坊さんのお話を聞こう、という企画でした。

先日は、仏教について、とりわけチベット仏教について学ぶ、初心者のための勉強会に参加しました。

チベットのお寺

チベットに伝えられる仏教は、実は私たち日本に伝えられている仏教ととても似ています。日本語とチベット語と、使う言葉は違っても、同じお釈迦さまのお経を伝えているのですから、考えてみれば当然と言えば当然ですね。

歴史的にも、同じような時期に仏教が伝えられ、それ以前の自然を敬う宗教と仏教とが併存、融合しながら発達してきた歴史も大変よく似ています。

もちろん、それぞれ千数百年の歴史がありますから、それぞれ独自に発展している部分もたくさんあり、何もかも一緒というわけではありません。

礼拝するチベット僧

さて、そのオンラインの勉強会では、チベット仏教の大まかな歴史を教えていただきましたが、最後に、先生が「少し瞑想しましょう」とおっしゃって、参加者みんなで先生の案内で数分間の瞑想をしました。

その時に、先生が、瞑想について話してくださった言葉がとても印象に残りましたので、皆さんにシェアしたいと思います。

「瞑想は長時間やらなくてよい。一分とか、短くてもよいので頻繁にやると良い。なぜなら瞑想は、心が『安らぎ』に親しんでいくための修行だから。そしてその安らかな心と日常との心ができるだけ断絶しないよう心がけることが大切です。そのためにも短い瞑想を頻繁にやると良い」。

瞑想は、心が安らぎに親しむための修行である。。。。

なんだか、あらためて、その通りだと、深くうなずかれるのでした。

修行というと、心身を鍛える、とか、無になる、とか、苦しみに耐える、というイメージを、私たち坊さんでさえ固定的に持っています。

きっと多くの人が、坊さんの修行って、大変そう、と思っているでしょう。

しかし、お釈迦さまの目指したのは「心の安らぎ」です。

「イラストや」さんにもお釈迦さまが!

しかも、先生は「そのために何時間もやる必要はない、一分で良い、そんな短い瞑想を少しずつ繰り返して、心が安らぎに親しむようにしていくんです」。そうお話しされました。

いつもイライラしている、しょっちゅう怒っている、何かというと怒鳴ってしまう。そんな自分が嫌になってしまうことってありませんか。

先生の言葉で振り返れば、そんなときの私たちは、イライラに親しみ、怒りに親しみ、怒鳴ることに親しんでいるわけですね。

思えば、大切な自分の時間や人生が、そんなふうにして、イライラや怒りの心でその多くを占められてしまうとしたら、なんともばかばかしい話です。もったいないです。

同じ時間を生きるなら、楽しく、愉快に、安らかに生きていきたい。

一分瞑想で安らぎに親しむ


仏教は、そのための教えなのですね。

そのためには、自分の心が、イライラではなく安らぎに親しむように仕向ける、つまり安らぎに親しむ修行をすると良いわけです。

一分間。

背筋を楽に伸ばして、ゆったりした呼吸に気持ちを向ける。

それだけ。

一分間。

先生は、出来れば、それをだんだん増やしていく。長い時間やるのではなく、一分間を、頻繁に、とおっしゃっていました。

安らぎに親しむ回数を増やす、ということですね。

長時間やっても、それで疲れて飽きてしまうと、残りの時間は、心が反対(イライラ・怒り)の方に行ってしまうそうです。一日の1時間みっちり修行しても、のこりの23時間、安らぎから遠ざかっていたら、効果がないとのこと。

それより、一分の瞑想で安らぎに親しみ、その気持ちを保つように心掛けながら過ごし、またどこかで一分瞑想、また日常の暮らしを営み、また一分。。。

そうやって、いつしか心が安らぎに親しむ時間が増えて、イライラや怒りが遠ざかっていく。

修行って、そういうものなのですね。

皆さんも、一分瞑想を、ちょっとずつ暮らしに取り入れてみませんか。


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