住職日記

森獏郎さんと公開対談

もう終わってしまったので宣伝ではありませんが、12日に千曲市の「アートサロン千曲」で、板画家の森獏郎さんと「木喰」をめぐっての対談をしました。

といっても、私は木喰仏についての見識もなく、それについての強い関心を持っているわけではないのですが、木喰さんが真言系統の修験の修行をしたり、作品に添えて歌われている数々の和歌に、空海とか阿字といった、真言宗のキーワードが頻出するので、そのあたりについての話しをしよう、と獏郎さんに誘われ蛮勇を奮って挑んだのでありました。

木喰さん入門

獏郎さんは、こんな人ですと一言で説明するのは困難な人物ですが、千曲市の森というところにお住まいで、基本的には「板画」を彫り、棟方志功の系譜を真っ当に継承している作家だと思いますが、その他に、詩人であり、俳人であり、民芸の研究と実践家であり、郷土史の研究者であり、ちょっとだけ市会議員であった時期もあり、種田山頭火、小林一茶の深い読み手であって研究者であり、まあそれでいてちゃんとご家庭もあって、なんだかよく分からないのですが、そういういろんなことを同時にやって、いつも会うと「オラはもう腰は痛えし、酒も飲めなくなったし、じき死ぬだな」というのだが、いつも異様に元気だ。初めてお会いした時も「もうじき死ぬ」と確かに言っていたが、いっこうに死ぬ様子はないどころか、ますます元気だ。どうなっているのだろうか。

獏郎さん入門

木喰さんもそうだ。

93歳くらいまで生きたとされているけれど、その生涯で残した多数の仏像も、実は還暦を過ぎてからが本格的な造仏の始まりで、歳を取るほどに、ある意味で傑作が出てくる。

僕らは、若い頃に能力を開花させて活躍し、後は次第に衰えていく、というライフサイクルを描きがちだけれど、それは最近に限られた人生観なのではないか。少なくとも、木喰という人は、80代になっても衰えるどころか、その意欲は増し、作品自体も若々しく精気を帯びてくる。

獏郎さんも、そうだ。現代の人生観の規格からだいぶ外れている。

ひょっとして年をとっていないのではないか。

でも、それは若いまま、と言うわけではなく、老成するほどに発現してくる境地というか、自在さや闊達さがあるということだ。

孔子曰く

七十にして心の欲するところに従って矩を超えず

という感じかな。

でも、木喰さんも獏郎さんも、ノリを超えず、というにはいささか規格ハズレだ。

木喰さんのエネルギーを考えると、粗食や粗末な生活環境も注目すべきだ。

木喰さんは、造仏の聖として全国を廻国して修行を始める前に、「木喰戒」という戒を授かっている。これは、現代の栄養学から言ったら、生きていけるのかな、と思えるような食生活だが、93歳までは生きることを木喰さんが証明している。

そういえば、超人的な活躍の日野原重明先生も「粗食」をすすめ実践しているそうだが、「食べすぎが老いを早める」といっていたから、かつて日本各地にいた木の皮や根っこばかり食べて修行していた木食上人たちが驚くべき活躍をするのには、実体験に基づく独自の食生活があったのだろう。

ひょっとして、獏郎さんも木の皮を食べているのだろうか。

対談では、私は日本の在野の宗教者たちである聖の話や、木喰さんがしばしば取り上げている「阿字」について、お話しをしました。

この大きな人物について話をしてみて改めて感じたのは、日本の江戸時代まで生きていた文化の実に深く大きなことか、と言うことでした。

庶民のレベルでの、きわめて豊潤な、高い次元の生活。

そうとは意識せず、宗教的に高い文化を当たり前のように暮らしていた人々。

生活化した神道、仏教を中心とする世界。

木喰さんの微笑仏は、すでにことさらに仏教哲学や実践を意識せずとも、その世界を暮らしている人々の社会に生まれた、美しい姿ではないかな。

これを機に、もう少し、木喰さんの世界を歩いてみたいと感じました。

 

コメント

  1. 雨ニモマケズ より:

     10月15日から25日に鬼無里の「ふるさと資料館」で開催された「山居仏特別展」を見たが、遊行僧が一木造の仏像を刻んで訪問先に奉納したのだろう、地域の家庭に現在も数多く残されているというのには驚いた。
     「円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのが特色だ」とされるが、拝見したものはどんな遊行僧が製作したのか、野趣に富みとても魅力的であった。
     そういえば、木喰上人については、立松和平氏が著したものを読んだことがある。
     「木の皮や根っこばかり食べて修行していた」遊行僧たちは粗食の極致であろうが、その原型は、生涯旅をし続けた釈尊にあるのではないかと思う。少なくとも「食欲」という煩悩を滅する修行の道・・・。
     「この大きな人物について話をしてみて改めて感じたのは、日本の江戸時代まで生きていた文化の実に深く大きなことか、と言うことでした。庶民のレベルでの、きわめて豊潤な、高い次元の生活。そうとは意識せず、宗教的に高い文化を当たり前のように暮らしていた人々。生活化した神道、仏教を中心とする世界。」
     和尚さまのこうした指摘は、新しい時代が築かれた過程で実は多くの大切な営みが失われてきた、という前回のブログにも通底するものですね。

  2. 幽黙 より:

    終わったのですね
    木喰さんの作品は
    晩年になればなるほど
    微笑みの深さが増してきて
    どんどん赤ん坊に
    なっていってるんですよね
    誤解を恐れずに言えば
    お年寄りが
    赤ん坊みたいに
    なっていくのに
    ちょっと似てるなって
    感じたりします
    一度だけ
    木喰仏を
    この手に持たせていただいたことがあります
    ふわっと軽く
    ずしんと重い
    不思議な感覚でした

  3. 長谷寺住職 より:

    雨ニモマケズ様
    有り難うございました。
    仏教では、師資相承が重んじられます。師である僧、先達としての僧。でもこれは突き詰めていけば、釈尊の面影が遥かに偲ばれる人、ということに他ならないのだと思いますね。今の言葉でいうならば『モデル』と言うことでしょうか。
    木喰という持戒の生き方の彼方に釈尊を見る。
    生活化した仏教あるいは神道という視点は、あんがい見落とされがちです。在家主義が出家主義かという見方だけでは、仏教は見えませんが、今日の自力・他力の議論には、暮らしの隅々までに浸透した仏教や神道のスピリットという見方が足りないと思います。
    が、仰られるように、そうであった奥ゆかしき日本の伝統的な生活は近代化によって著しく痛めつけられました。
    それはとても残念ですが、木喰さんや遊行僧たちが残してくれた『形』の中から、私たちは心底に眠っている心を思い出していくことが出来るように思います。

  4. 長谷寺住職 より:

    幽黙さま
    今回は、お陰さまで何とか切り抜けました(笑)
    ただ、話していて残念に感じたのは、私自身が木喰仏に接したことがないせいもあり、どうしても一般的な水位の話に終始してしまったことです。
    もっと木喰さんの世界へと自分自身が関わっていれば、その仏像や和歌や旅、それからその生涯をめぐって、先達である獏郎さんと話を深めていけたと思います。
    ピカソが、幼子のように描くまでに何十年もかかった、といったそうですが、一尊一尊を刻みながら、自心の中の何かをまさしく成仏させて、赤子の如くに純化していく旅だったのでしょうね。
    赤子を抱くと、そのような重さを感じます。
    あるいは、生まれ来る命を掘りたいという願望があったのかも知れませんね。

  5. 幽黙 より:

    そういえば
    獏郎さん入門も
    木喰さんにリンクが…

  6. 長谷寺住職 より:

    幽黙さま
    あ、すみません、勝手にリンクを張った上に間違っているとは(汗)
    さっそく直しました。
    あらためてよろしくお願いします。

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