住職日記

大横綱でなかったとしても、不世出の大ヒーローである

はっきり申し上げて、私は朝青龍のファンでありました。

身近で接したことがないから、この大横綱には「相撲に対する敬意」がないのか、はたまた「綱をしめるに足る品格」が備わっていないのか知りようがないけれども、テレビで見る限り、この方が土俵に上るとワクワクするわけである(あった、と過去形になってしまったが)。

きっと、こういう私のようなファンは「相撲道のナンタルカを知らない素人」だから、気楽なことを言っていられるのであろう。

多くの朝青龍ファンは、私のような「相撲道のナンタルカを知らない素人」に違いない。

逆に、「相撲道のナンタルカを知っている玄人」にとって、朝青龍と言う横綱は、許しがたい存在なのだろう。

この「ナンタルカ」を、朝青龍という人物は、多年に渡って蔑ろにし続け、玄人ファンのお相撲に対する感情も逆なでしたのだろう。

思うに、お相撲に限らず、日本の文化には、制約の厳しさがある。

社会全体は、むしろ放任であるが、茶道とか、武道とか、あるいは俳句や和歌のように、ある『ジャンル』において『道』が求められるような世界は、大変厳しい規則があり、その道を進む人は、その道によって人格を練磨していく、という伝統がある。

それは、仏道をモデルにしているかも知れないし、内田樹さんが「辺境論」の中で述べているように、日本という特殊な地域性が育んだ文化と言える。

だから、茶道の家元、歌舞伎の宗家、俳句の先生なども、厳しく品格を問われる。

そこでいう品格と言うのは、醸し出されるもの、である。

その道に明け暮れているもの、いわば『求道者』には、多年に渡る練磨の末に、その道の香りが薫習され、人格からも立ち居振る舞いからも、言動からも、すべてがその道を香りたてる。

そういう醸し出されるもの、と言うのは、やはりテレビでは分からない。

それに、道の外にいるテレビ観戦者の我々には、そのような分かりにくい品格やナンタルカより、横綱の強さ、勢い、生命力、闘争心、パワー、総じて『花』に引かれた。

この花には、だいぶ毒があったようだが、貴乃花などのスターが次々と土俵を去っていったときに、さみしい土俵に咲いた大輪であった。

この大輪は、「大草原の少年」のまま、やんちゃで、わんぱくで、無軌道で、品格もナンタルカもお構いなしに、自己中心的で周囲に迷惑をかけっぱなしだったのだろう。

だが、その規格外の存在こそ、型にはまったこの息苦しい世の中で、息詰まる思いで生きている我々にとっては、待望のヒーローだったのではないだろうか。

学校では決してほめられない価値、集団生活では決して評価すべきではない価値、新聞やテレビでも、賞賛するのが困難な価値。でも、多くの人が、きっと学校の先生たちでさえも、心のどこかに秘めている、憧れ。

過去の人なら、坂本龍馬や織田信長のような「無法天に通ず」を断固貫く人物はもてはやされるが、目の前で、自分の重んじている『道』をノシノシと踏み外して平然としている人物を見たら、嫌がる。坂本龍馬が大好きであるという人であっても、同時代にあって彼と価値観や人生観を共有していくのは、容易なことではなかっただろう。

朝青龍関は、相撲道が求める品格は最後まで醸せなかったが、この横綱は、我々テレビ観戦者が求める『品格』は大いに発散していたし、この世知辛い世の庶民が歓声を挙げ溜飲を下げるヒーローのナンタルカは、誠に立派に体現していたように思う。

その意味では、不世出のヒーローなのだ。

お相撲の『道』からは逸脱を繰り返したから、いわゆる大横綱とはいえないかもしれないが、やはり私は好きである。

審議会や、理事会や、玄人衆が嫌うほど、好きかも知れない。

でも、もっともっとお相撲が好きになって、その『道』のナンタルカが分かってきたら、やっぱり「ケシカラン」と感じるようになるのだろうか。

 

 

それにしても、与党の幹事長さんが起訴されるか不起訴になるかという重大な問題が国民の関心ごとであるべきこのタイミングで、どうして「横綱引退」で話題沸騰になってしまうのか。

これってやっぱりおかくしないか。

 

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