住職日記

四国遍路の思い出

おじいさん
 
 僕がそのおじいさんと会ったのはお遍路さんがずっと昔から旅の道標にしてきたという大きなクスノキの下でした。おじいさんはビニールの小さな青いリュックを背負って、クスノキの根元に腰をおろしていました。右手には曲がりくねった木の杖を持っていました。右足と左足は、種類も大きさも色も違うゴム草履を履いていて、もう何年も裸足でいるのが一目で分かるくらい真っ黒くなった足です。その足は僕の足とは違う形をしていて、とくに親指は左右ともぐにゃりと曲がっていて、そこだけ不思議なくらい真っ白な爪は爪の形をしていません。他の爪はどうなっているのかというと、もうみんな取れてしまったのか生えなくなってしまったのか見えませんでした。

 

僕がおじいさんの足を不思議そうにじろじろ見ても、おじいさんは僕なんかそこにいないかのように平気で大きなクスノキの根元に座っています。おじいさんが何も言わないので、僕は足を見てから次におじいさんの手を見ました。その手も足と同じように真っ黒でざらざらです。爪はとても硬そうで、足の爪よりは爪のように見えましたが、それでも僕の爪に比べたらそれは爪と言うよりは石のようでした。僕は相変わらずじろじろとその手を眺めていますが、おじいさんは平気で座っていました。

クスノキはお大師さまがお植えになったと言われる大きな木で、その下に立って見上げると、僕は誰かに見られているような気がして恐くなります。そんな時は何でもいいから声を出してみます。おい、と言えば、おいと木霊が返ってきます。すこし恐くなくなります。お大師さま、お大師さまが植えた木が、こんなに大きくなりました。

 おじいさんが僕には気がつかないように立ち上がりました。大きなクスノキが静かに風に揺れています。
「おじいさんもう行くの?」
 おじいさんは何も言わず小さな目を僕の方に向けました。おじいさんの顔は浅黒く汚れています。皺がいっぱいあってところどころに白い髭が伸びていました。おじいさんはまた目を道の方に向けると、歩き始めました。とてものろのろしています。一歩一歩がとても小さくて、右足と左足を引きずりながら重たそうに運んでいるようです。杖がなかったらきっと倒れてしまいます。クスノキの大きな枝の傘から出るのに何歩あるいたのか分かりません。僕は大丈夫かなと心配になりました。
「おじいさん、ずうっと歩いているの?」と僕は尋ねました。
 おじいさんは前を向いたままほんの少し首を動かしました。そしてとても小さなかすれた声で言いました。
「かれこれ四百周くらい、子どもん時から、手ぇ引かれて歩いてきた、それからずうっと歩いてきた、この頃は、山ん札所には登れんで、こうやって下から手ェ合わす」
 おじいさんは歩みを止めて杖を持ったまま黒くてガサガサの掌を合せました。僕はそれからは黙っておじいさんの後について歩きました。おじいさんのゴム草履は左足の鼻緒が切れかかっています。踵のところも削れてて素足が地面に擦れていますが、おじいさんは平気な顔でのろのろと杖を頼りに歩いています。青いリュックには何が入っているのか分からないけれど、リュックは萎んで背中にぶら下がっています。

 お大師さま、おじいさんは、いつまで歩くのですか。僕は日が暮れるまでおじいさんの後ろを黙って歩きました。おじいさんは、お大師さまに会えるのかな。それとも、もう会ったのかな。振り返るとまだそこにお大師さまのクスノキが見えていました。

コメント

  1. 幽黙 より:

    昨日たまたま
    奈良の宇陀にある
    四国写しを廻っていました
    丹波佐吉という
    江戸末期の名石工を訪ね廻っていたのですが
    一番から順番に
    ちょっとした山道を辿っていると
    四国の風景が
    ふっと蘇ってくてしまいました
    つい先ごろも
    切幡で出会った取材した末期乳癌の女性から
    実に何年振りかで手紙をいただき
    平良さんのところであちこち巡拝に
    参加されておられるなど
    元気で過ごしておられることがわかり
    なんともいわれずほんわり温かい気持ちになりました
    愚生は九番さんで休んでいるときに
    ひとりのおじいさんが歩み寄ってこられ
    「あんたは忌部を廻る人じゃな」
    と言われたのが今でも驚愕の思い出です
    その方自身が忌部修験の方だったのですが
    愚生はそのとき確かに忌部を訪ねるつもりだったので
    驚き以外のなにものでもなかったわけです
    四国摩訶不思議空間
    四国では不思議でもなんでもないような
    そんな気もするのですが…

  2. 長谷寺 より:

    幽黙さま
    >四国摩訶不思議空間
    四国では不思議でもなんでもないような
    そんな気もするのですが…
    遍路道をふくめ巡礼の道というのは
    僕らの直観の働きを開放してくれますね
    日常空間より
    いくぶんか
    宗教的な言説に自由が認められているのに
    それでいて混乱しない
    調和もあります
    もう10年以上が経つのに
    何の気なしに
    突然
    四国のある道のある記憶が
    バッと
    鮮烈に蘇る瞬間があります
    その直前の行為には
    その記憶との直接的な脈絡がないと思うのに
    ある道からの眺めが
    鮮やかに蘇ってきます
    なんなんだろうなあ

    それこそ
    不思議です
    また歩きたいですねえ

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