住職日記

再生の聖地ハツセに学ぶ

 

 

長谷寺の長谷はそもそもハツセという。

漢字を当てれば「果瀬」「泊瀬」「初瀬」と書く。

果は果てること、泊はとまること、初ははじまること。

 

終わり、とどまり、始まり――。

 

山深き谷あいの奥の、清らかな水が流れくだる何処かに、そのような特別な「瀬」がある。

 

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流れくだってきた水が果て、泊まり、流れはじまる。

 

ハツセとは、一所でありながら、死と生と、そしてそのどちらでもある幽明のあわいでもある。

 

人々はいつしかこの三つの意味を秘めこんで、長い谷という地勢だけをもって長谷と表記したのだろう。

 



古来、人々はその「瀬」に詣で、そして再生を祈った。

 

魂に深い傷を負う人が、よみがえりを願った。

そこでひとたび果て、とどまり、そして再び生まれた。

長谷参りとは、その基層にこうした犠死再生を横たえた巡礼である。

この幽明のあわいに、いつの頃か、十一面観世音菩薩が出現された。

これはいかなることか。

十一面は「大悲」を本願とする観音である。

大悲(マハーカルナー)とは、大いなる憐れみであり、他者の悲しみ苦しみを我が悲しみ苦しみとする心である。

 

この同悲同苦の観音がハツセの中心におわすのは、人間性の、あるいは魂の再生にとって何が必要であるのか、そしてそれは見方を変えれば「何の欠如が再生を必要とするような状況に人を追い込むのか」を示してもいよう。

ハツセの叡智に学び、同悲同苦の観音性において再生に取り組みたい。

 

 

 

 

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