住職日記

未来の御成敗式目が生まれる日まで

未来の御成敗式目が生まれる日まで

ある文化が違う世界観を有する思想と出会うと、それを受け止め、吟味し、消化して血肉化し、その思想を自分たちの言葉で語り、それを「生きる」のに数百年という時間を要する。

そんな話を聞いたことがあります。

例えば仏教についていえば、今から2500年ほど前に、インドでお釈迦さまによって開かれた仏教は、人から人へと伝えられ、なんと500年という歳月をかけてシルクロードを進み、2000年ほど前、ちょうど紀元前後に中国に伝わります。

当時の中国は、大帝国の漢の時代の頃です。

この政治や経済、文化も完成に達しているような中華世界に、インドから、仏教というこれまた深い叡智の宗教思想が届けられたのです。

きっと当代一級の知性がその教えと向き合い、よくよく吟味して、これを中国世界に受け入れることを選んだのでしょう。

この後、インドのサンスクリット語の経典を漢字に翻訳する「漢訳」という大事業が延々と続けられていきます。


こうして中国に到達した仏教が「中国仏教」として花開くのに、それから400年という時間を要します。

長い年月を経て、ようやく外来の仏教が中国人の魂に届いたのでしょう。

この後、中国人の叡智と霊性から天台、法相、華厳、密教など、後に日本の精神文化に大きな影響を与えることになる流れが大いに栄え、やがて朝鮮半島へ、そして海を越えて日本へと伝えられるのです。


日本に仏教が伝えられたのは公式には6世紀半ばと考えられています。

お釈迦さまからすでに1000年の時が流れていましたが、当時の日本人もまた、この外来の宗教思想の受容の是非を巡って、たっぷりと時間をかけて吟味検証し、ゆっくりと受け入れて行ったようです。

国家的な仏教推進とともに、無数の僧たちが仏教に生涯をかけて挑み、祈り、学び、修行し、師から弟子へ、またその弟子へと展転として、お釈迦さまその人の悟りの内実へと迫り、その弛まぬ取り組みによって仏法は実にゆっくりと日本人の心の奥深く、魂のレベルまで根を下ろしていったのですね。

それはとりもなおさず、神道の世界へと根を下ろすことであり、やがて神仏習合という他の国や民族には類のない展開を見せつつ、人々の暮らしの中へ、言葉や習慣の中へと浸透していきました。

多くの外来文化が、こうした吟味検証に耐えられず消えていく中で、仏教が今日もなお身近な祈りや年中行事、さらには祖先を敬う儀礼として私たちの中に息づいてあることを思うと、祖先の知恵による長い吟味検証に耐えてきた意義を現代の皆さんにも見つめなおしてほしいと思います。


さて、そんなふうにして仏教が日本人の心の奥深く届いたのは鎌倉時代といわれます。

この時代の仏教は、しばしば新仏教と呼ばれ、道元、法然、親鸞、日蓮という偉大な宗教者たちが現れました。

これら新仏教の旗手たちに対して、旧仏教と呼ばれる奈良や平安の寺々の僧たちの中にも、民衆のために社会的活動を行った重源、ハンセン病者の救済に尽力した忍性などが活躍しました。

また全国津々浦々を巡って熊野や高野山、伊勢、善光寺や戸隠の霊場信仰を広め、人々に仏法を伝えた聖(ひじり)と称された名もなき僧たちの存在も忘れることはできません。

日本に仏教が伝えられて600年から700年の時をへて、いよいよ人々は仏法を生き、その宗教性、霊性をダイナミックに活性化していくのです。


そんな鎌倉時代のはじめに、京都の栂尾に明恵という華厳宗と真言密教の教えを生きた僧がいました。

華厳宗は伝統的なスタイルの学問を重視し、奈良の東大寺を中心とする流れです。

こうしたいわば保守派の中にあった明恵は、宗派を興したり、社会事業をした人ではありませんから、近年までは知る人ぞ知る存在でした。

しかし心理療法家で文化庁長官を務めた河合隼雄さんや随筆家の白洲正子さんが明恵の生涯と思想に光を当て、その存在を知る人が次第に増えてまいりました。

とりわけ明恵が若い日々より死の直前まで自分で見た夢を記述し続けた「夢記」は、一人の人間の長期に渡る夢の日記としてのみならず、その夢を通じて、ひとりの宗教家の魂が次第に高められ、深められていくさまが描かれたものとして、現代の宗教者や心理学者など、世界中から関心を寄せられるものとなっています。

興味のある方は河合隼雄さんの「明恵 夢を生きる(講談社)」をお読みください。

この明恵は華厳経というお経の学僧でした。このお経はお釈迦さまが悟られた世界を壮大なスケールと緻密な哲学で描き出すものです。

明恵はこの華厳経の学僧として若い頃から飛びぬけた能力を示していましたが、その道で栄達するより、教えの通りに山にこもって静かに瞑想し、修行することを好みました。そして何より、お釈迦さまその人に深く帰依していました。

お釈迦さまへの強烈な「恋慕」の念を生涯抱き続け、実際にインドに渡ろうと試みたほどです。そんなお釈迦さまへの憧れを失わない純粋な生き様をもち、ひたすら修行に明け暮れる徳のあるお坊さんというのは、隠れようとしてもその徳の香りが自ずから薫って、世に知られていくものです。

しかも時代が明恵を必要としたのでしょう。折りしも承久の乱が勃発して明恵の身辺も慌しくなり、たくさんの人が救いを求めて、教えを乞いに集まってくるようになりました。


そんな人々の中に、後の日本社会に大きな影響を残すことになる武士がいました。

彼の名は北条泰時、北条家の棟梁で第三代執権、この後100年続く北条家による執権政治の礎を築き、その高潔で質実剛健な人柄は後々まで語り草となった人物です。

この一代の傑物である北条泰時と明恵とが初めて出会うのは、承久の乱で明恵が落ち武者を匿ったり逃がしたりしていたのを詮議するためであったと伝えられています。

泰時の前に連れ出された明恵は「寺は殺生禁断の土地であり、お釈迦さまに帰依する私は逃げ込むものは鳥や獣であっても匿う。今後もそうするであろう。それが気に入らぬのなら、今ここで私の首をはねよ」と泰時に言い放ったといいます。

詮議していた侍たちもたじろぐ明恵の剛胆さと、仏法に殉じる覚悟の座った高潔な有様に打たれた泰時は、その場で明恵を生涯の師として帰依することを決意したといいます。


師と弟子という間柄になったからといっても、これによって泰時が明恵のもとで教義を学び修行をしたというわけでありません。

この師弟関係について河合隼雄さんは泰時が明恵に「人格的影響を受けた」と指摘しています。

つまり高潔な理想のリーダーと後世まで讃えられる泰時の偉大な人格が、この明恵との交流を通じて養われて形成されたというのです。


泰時の名を日本の歴史に輝かせる偉業として上げられるのは御成敗式目の制定です。

これは朝廷や公家の時代から武士が世を治める新時代の扉を開く画期的ルールとして、実際上の慣習や先例等を重視し定められたものでした。

この式目について泰時自身が語ったところでは、この式目は文字も読めぬ田舎者であっても、主は主として、従者は従者として忠を尽くし、親は親として子は子として孝を尽くし、曲がったことをせず正直を尊んで、みんなが安心して暮らせる世を作る、公正な「道理」に基づいたものだと申します。

この泰時のいう「道理」の思想的背景に、明恵が弟子たちに遺した有名な「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」という言葉があるといわれます。

明恵はこう言っています。

「人は阿留辺畿夜宇和の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」

『栂尾明恵上人遺訓』


いかがでしょう。この明恵の「あるべきようは」は、単に型どおりに振舞えばよいというものではなく、それぞれの与えられた環境や場面において「いかに生きるべきか」と自らに問う言葉であります。

常に仏弟子として善く生きることを自らに問うて生きた続けた明恵という美しい魂の人らしい言葉です。

この明恵から人間的な影響を受けた泰時は、自らの「あるべきようは」の問いを深め、後世に語り継がれる魅力的な人物へと、その人間性を磨いていったのでしょう。

そのような精神的な感化と人間的な成長の中から生まれた御成敗式目は、その後鎌倉時代から幕末に至るまで一貫して日本人の生き方の指針となり、社会や人間関係の基本となりました。

近代化、現代化の進む今日に至っても、私たちは日々の暮らしの中で無意識のうちに「道理」を重んじていますが、そこに泰時の式目の精神が息づき、その背景に明恵上人の「あるべきよう」を問う心、すなわちお釈迦さまが示した善き生き方としての仏法が息づいているのです。

もし二人の出会いがなければ、御成敗式目は生まれることはなかったでしょう。

明恵は一宗の宗祖にはなりませんでしたが、後の世への影響力という点から考えると、日本人にとって極めて大きな存在であるといえるでしょう。


さて、司法書士の皆さま。仏教が日本に届いて、真の仏教者といわれる明恵が現れ、その精神を人々の暮らしのルールへと立ち上げた泰時が現れるまでおよそ600年。

それは仏法が真に日本人の魂にとけ込む時間だったように思います。

一方、近代の法によって私たち日本人が国を興し社会を作り始めた明治維新より約150年。

仏法に600年の時をかけた日本人は、近代の法にどれほどの時間を必要とするでしょう。

昔と違い、情報の伝達は大量で高速化されましたから、ずっと短期間で私たちは「法を生きる」ようになるかもしれません。

しかし、それを受け取る私たちは、急激な都市化やグローバル化で地縁や血縁に基づくコミュニティが崩れ、人間が「孤立」する時代を生きています。

そんな私たちを守るために法の専門家としての皆さまへの期待はますます高まるでしょう。

司法書士の皆さまは、人類の歴史から見れば今なお新しい「近代の法」が、一層私たちの心の大地に根づき、それが芽吹いて、やがていつか「未来の御成敗式目」と花開くまで、お一人お一人がご自身の「あるべきようは」を問い、それを生き、地域のためにご尽力くださいますように。

ともに「法」につかえるものとして心よりエールをお送りいたします。

合掌

長野県司法書士会 会報「信濃」№373寄稿

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