住職日記

夢やぶる初音枕に一周忌

先日、母の一周忌の法事が営まれた。

時の経過を早いと感じたり遅いと感じたり、人間は時計の針の運行のようにはいかない心の流れを持っている。

わけても日本語の『とき』という言葉には、解く、溶く、融ける、ほどけるなどと通じる語源があるそうだから、何か固いものが融け出したり、固く絡まった糸がほどけたりするような、状態の変容を認めたときに初めて時が経ったと感じ取る面があるのであろう。

その意味で、母の死から一年間時計の針を運行を続けたのだが、僕の中で『時が経った』とうなずくことが出来るだろうか。

 

この一年で、母の夢を3回みた。もっと見ているのであろうが、目が覚めても記憶に残っているものは3回で、そのうち1度は声だけであった。電話で話をしたのである。

 

裏山石仏.JPGのサムネール画像

 

職業(?)柄、死について考えたり、学ぶ機会は少なくない。実際、檀家さんの葬送に立会うのであるから、悲嘆の場面には何度も出会って来た。とりわけ、仏教というものは、死に対する関心が深いので、仏教を学ぶということは自ずから死についての思索を深めたり考察をする機会が増す。

ところが、柳田邦男さんの言葉を借りれば、こうした『死』一般に関する考察というのは、三人称の死、というものであり、そこには悲しみがないのである。誰かの死であるからこそ、『死とは何ぞや』と飽きもせず堂々巡りも可能になる。

しかしながら、親の死、家族の死、兄妹の死、恋人の死、というものは「二人称の死」であって、そこには悲嘆や喪失がある。彼、または彼女の死について、残されたものは「なぜ?」と問わないではいられない。「How(どのように)」ではなく、あくまでも「Why(なぜ)」なのだ。どのような病に罹り、どのような経過を辿って心臓が停止したのか、というようなことではなく、自分にとってかけがえのない存在である人物が、「なぜ」そんな経過を辿ることになるのか。答えなど見出せない問いであることを承知しながら、それでも繰り返しあてどもなく『なぜ』と問いかけてしまうのが、二人称の死なのである。

 ◇

母の病気が明らかになり、痛みが強くなると痛み止め薬も強くなっていったが、そんな現実が心底を直撃することから防衛するかのように、僕も精神のアンテナをゆるやかに麻痺させていったような気がする。そして、今もなお、ぼやけた感覚が痛み止めとして効いているように思うときがある。

法事の席には母の姉妹の顔もあった。とても仲のよい、そして、にぎやかな姉妹である。彼女たちが揃うと、母も楽しそうであった。元気なときはもちろん、闘病中も、姉妹が来るとなれば不思議と言う他はない活力を見せ笑い転げていた。4人の姉妹は年齢とともに彼女たちの母である人、僕にとっては祖母とよく似てきた。当たり前のことだが、別々の顔立ちの4姉妹なのに、それぞれの中に祖母の面影が宿り、立ち居振る舞いにも、懐かしい明治女の雰囲気があるのである。

尊敬する松原泰道老師が、かつて長谷寺での講話に来てくださったことがある。すでに90歳を過ぎていたと思うが、こんな話をなさった。

老師のご母堂様は老師をお産みになって間もなく亡くなり、老師は母のお顔を知らないそうである。しかしながら、90歳を越えたその時になっても母への追慕の念は止み難いとお話しになった。そして、毎朝洗顔し、鏡に向かうときに、鏡の中の自分の顔の中に母の面影を探してしまう、と仰るのです。母の面影が、身を分けてもらった自分の中にこそ宿っていると思うと、鏡を見ながら涙がこぼれると。

そんな老師のお話を思い出しながら、僕は3姉妹には母の分まで長生きをして欲しいと願った。

彼女たちが元気でいる限り、例えば、80歳になったら母を偲んだり、腰の曲がった母を想像したりすることが出来る。事実、彼女たちの笑い顔や白髪の具合、笑い声、そして気配の中に、懐かしい母の面影が宿っている。

 

33石仏.jpgのサムネール画像

写真は、昨年の葬儀の朝に、3姉妹と早起きして寺の裏山に上り、朝日をお参りしたときに撮影した石仏である。あれから一年が過ぎた。今日は、母の命日である。

朝から、母の友人からの花が届き、私の友人までがお参りに来てくれている。

ゆるやかに、なだらかに、まだまだ別れの中にある。

 

 

 

コメント

  1. satomi より:

    「窓拭きは曇った日にするのよ」
    拙い子供が初めて得とくしたお掃除のコツ。
    あれから何十年たった今でも 曇りの日に窓を拭くたび、やっこ叔母ちゃんの声が甦ります。涙とともに。。。
    80歳になったら、腰が曲がるって? 誰が? (笑)
    骨年齢56歳って判定が出て、有頂天になってますよ!

  2. 長谷寺 より:

    satomiさま
    コメント有り難うございます。
    何気ない日常の仕草の中に宿っていすまね。
    先日も、朝、目が覚めて布団の中でうだうだしていると、タイマーで動いたらしい洗濯機の音が階下から聞こえた時に、朝早くから動き回っていた母の足音が思い出されました。
    56歳の骨密度ですか、、、、。
    では、90歳になっても異常に元気な姿の中に母の面影を偲ばせていただきたく楽しみにしています。

  3. 幽黙 より:

    まずは合掌
    実はあまりゆるりと
    お話をさせていただいたことはありません
    でも
    勢いがあるというか
    気風が良いという
    そういう印象が強く残っています
    そう夏の風のような…

  4. 長谷寺 より:

    幽黙さま
    人間の出会いというのは、あった回数が多ければ出会っているかと言うと、必ずしもそうではなくて、たった一度の出会いであっても、互いに深いところで出会いを成就していることもありますね。母について、そのような印象を抱いてくださっているからには、互いにそうとは意識せず何か通い合うものがあったのかもしれませんね。
    有り難うございます。

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