住職日記

焼八千枚護摩供 その5 行の厳しさ

焼八千枚護摩供 その4へ(前の記事へ)

法のえにしに恵まれて

この護摩行は、大法であるがゆえに実修することができる僧は多くありません。用意するもの、道場、手伝ってくれる僧侶をはじめとする人がとても多くなります。その意味で私は環境に恵まれ、師をはじめとする仲間の僧侶や、全面的に支えてくれた妻や家族、寺の総代など諸々の縁に恵まれました。当日の助法の僧侶は二十五人に及び、早朝から最後まで信者の方々も次々と参拝随喜され、僧侶と一体となってひたすらに慈救呪を唱え続け、行者である私を支えてくれました。

行を支える、たくさんの善男善女の祈り
行を支える僧侶たち。行を通じてサンガの絆が深まる。

私個人の能力については、体力はそこそこあると思いますが、仏法についての知識は少なく、またお経が示す仏さまの三昧の世界について理解する智慧は乏しく、また本来こうした行をするまでに深める心身の体験、何より積み上げるべき功徳が全く足りないと思います。ことに「霊性」と言うところの宗教心が浅く、このような行に挑むにふさわしい「法器」であるか忸怩たるものがあります。

本来、このような行というのは、自ら発願することも大切ですが、その発願に対して、同じ行を積んだ師が、弟子の日々の様子から八千枚護摩に挑む段階に至っているか否かを厳しく見極めるものだと思います。
実際、ある大先達のお話をお聞きしたところ、その方の寺では住職になったら必ず八千枚護摩を勤める定めがあるそうですが、それをいつやるは先代住職である師が決めるそうです。その大先達も、住職を引き継ぎ、何年も本尊の護摩供養に励み、何千回も護摩を焚いたところ、ある時「そろそろどうだ」と師に言われたということでした。
その点では、私は自分の器量の程も知らずに、身に余る行に挑んだとも言えますが、そんな至らない私であったからこそ、たくさんの仲間が支えてくれたものと思います。

乳木の束。108本ずつ束ねられるのは煩悩の象徴。

そんな甘くない

そんなありがたいえにしと、多くの法友や檀信徒の祈りの支えに励まされ、私の焼八千枚護摩供はやがて五千枚、六千枚と順調に進んでいき、このまま最後までいけるかも、と感じた方も多かったようです。経験を積んだ会奉行もそう感じたそうですし、私自身も、ひょっとするとこのまま最後までいけるかもしれない、と思うこともありました。ところが、この行はやはりそんな簡単なものではありませんでした。

七千枚を越えたころ、にわかに腕が重くなってきたのです。それまでの断食断水もあり、肉体も精神も大変厳しい状態となりました。順調に走ってきたマラソンランナーが、最後の数キロ地点で、突然目の前に険しい山を見出して絶望するような状況で、残りの数百本を焼き切ることは到底不可能であると心も折れ、まさにギリギリの限界に至ってしまいました。

体も心もが重くなり手が止まる

急激に視界は狭まり、闇の中に護摩の炎だけが赤い光で明滅しています。疲労の上に脱水や酸欠もあったに違いありません。
今となって思うのは、伝統の荒行というのは、先人たちの体験の積み重ねの中で、こうして肉体をギリギリの状態へと導くように、瞑想の次第が調えられているのでしょう。そのようなギリギリの身体の中に、はじめて顕れてくる世界と、行者は向き合うことになります。
そうやって、進むにならず引くにもならぬところで、意識の深層へと体験を深めていくのでしょう。
しかしそれはとても苦しいものなのです。なぜなら、そこで見えてくるもの、そこで顕れてくるもの、そこで対峙しなくてはならないものは、まみえたくない己の弱さであり、醜さであり、これまでその弱さ醜さで生きてきたカルマだからです。それが、いろんな姿や言葉となって、迫ってくるし、耳元でささやいてくるのです。
体も心もギリギリな状況で、勇気を奮ってそのカルマと向き合います。お悟りを前にしたお釈迦さまに、マーラ(悪魔)の軍勢が、次々と姿を変えながら襲い掛かってきたというエピソードが思われます。恐怖や誘惑が巧妙に、行者を、進むべき道とは別の道へと誘い込み、追い込みます。
お経には、ここで奮い起こすべき心を「勇猛心」と呼び、このカルマと向き合い決して退かない勇敢なる菩提心によって、魔宮は震えあがり、悪魔の軍勢が退却すると。そんな自身の戦いを、勇気をもって何とか続けていく先に、初めて見いだされる扉、その扉を押し開けた先に開かれる世界へと、行者は進まんとするのです。

しかし、その扉を開くのは容易なことではありません。
まさにそこにおいて、お経が示す不惜身命の気迫と、菩提心が問われます。

かくいう私は、その扉に手をかけるどころか、はるか手前でもがいているのでした。
七千二百枚に差し掛かったころには、一本一本の小さな乳木が、文字通り鉛のように重くなって体が動かなくなり、ついに手が止まってしまいました。勇猛心どころではありません。
助法のお坊さんたちも必死に私の体を支え、マッサージなどを施し、周囲の僧侶信徒さんたちが、声を張り上げて慈救呪を唱え続けているのも分かりましたが、その声も次第に遠くになり、世界が暗くなっていくのを感じていました。
意識を失ったのです。

焼八千枚護摩供 その6(次の記事へ)

身心の限界なのか、、、
何とか続けようとするが、、、
どうしても動かないからだと心
先輩方が体のケアで支える
炎だけがわずかに見えていました
シェアする