住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

松原泰道老師の思い出

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昭和、平成を代表する仏教者である松原泰道老師が亡くなられた。

偉大な僧の死は遷化というが、まさ松原先生はこの世での教化を終えて、あの世の教化へと遷っていかれたのだ。

101歳だった。

老師には長谷寺の法話会にお越しいただいたことがある。

もう10年以上も前のことであるが、私は長谷寺でも法話や講演会を開催して学びの場を作りたいと考えていた。

その話を知人にしたところ、彼が松原先生を紹介してくれたのだ。

そこで、長野市の刈萱山西光寺で開かれた「南無の会」に講師としてお越しになっていた先生とお会いすることになった。

初めて目の当たりにする老師は、すでに90歳になっていたと思うが、そのような年齢を感じさせなかった。

その日の法話が何であったかよく憶えていない。

私は、その顔や声の響きや立ち姿に見とれていたらしく、肝心の話をよく聞いていなかったらしい。 

ただ、聖書の言葉を取り上げて愛について話していたことだけが記憶に残っている。

その夜、老師を囲む会に参加させていただき、知人のとりなしでご挨拶をし、長谷寺での法話会のお願いをした。

老師は始終にこやかで私の話に耳を傾けてくださり、分かりました参りましょう、とお答えになった。

 

講演会の日までは、少し日があった。

その間、老師の著書を読んで過ごしいた。

ある日、思い立って、軽井沢にある老師の禅室(日月庵)を訪ねてみることにした。

大雑把なことしか知らなかったが、なんとか行き当たると決め込んで車を走らせた。

軽井沢といっても広い。浅間山の麓だ。確か群馬県側だったと思う。

どうやってたどり着いたのかよく憶えていないが、それほど迷うこともなく不思議とたどり着いた。

老師はご不在であった。

夏の間はここで過ごすことが多いと聞いたいたけれども、90歳を過ぎても、乞われれば日本中のどこへでも法を説きに行く。しかも、ひとりで電車に乗って。

初めてお会いした日の夜、長野市の法話会でいつも幹事役を務めている信者の女性が、「先生は、法話の旅の途中で死んでもいいと思っているのよ」と私に話し、「ねえ、先生」と松原老師に振ったことがあった。

老師は、そうなんですよ、と微笑まれた。

 

軽井沢の禅室は、小さな住宅のような建物と、少し離れた場所に禅道場があった。

私が、庭先に立って眺めていたら、中から女性が現われて「どうぞ」という。

恐縮しながらも、庭に入るとお留守番だという女性は、せっかく若いお坊さんが来てくれたのに先生がいなくてごめんなさいね、先生もとても残念がるわよ、と言った。

そうして、禅道場に案内してくださった。

中に入ると、正面に、先生の友人が刻んだという本尊がまつられていた。

鉈彫りのような、ゴツゴツした肌なのに、ぜんたいの立ち姿がとても優しく、そしてどっしりとした存在感のある像だった。

私が手を合わせていると、後ろから女性が話してくれた。

 

先生は、ここにいる間は、毎朝3時に起きて、お顔を洗われお支度を整えられたらこちらにいらっしゃるの。

あちらの玄関を出られる時から、何か私には分からないお経文を唱えながら、真っ暗なお庭の道を歩いてこちらに来て、それから何時間も座っているのよ。

 

大きな浅間山の山麓の一隅で、朝の3時から独座する松原泰道老師の姿が目に浮かんだ。

 

庭に出て、先生が経文を唱えながら歩くという自宅から禅室までを僕も歩いてみた。

10メートルちょっとの道のりであろうか。

まだ夜明けまで遠い、真っ暗な時刻に、ここを経文を唱えて禅室に進んでいくひとりの老師。

何を唱えているのだろう。

森の動物たちが、静かにその経文を聞いているのだと思うと不思議な気持ちがした。

ふと、足元を見つめた。

すると、そこには、自宅と禅室とを行き来する老師によって踏み固められた「道」があった。

 

長谷寺での法話が終わり、控え室に御礼のご挨拶に行った。

心ばかりではあったが、いくばくかの法礼(謝礼)を包み、御礼の言葉とともにそれを差し出した。

すると、その瞬間、老師は非常に厳しいお顔になり、ピシャリと私が差し出したものを戻すように言われた。

 

私はあなたのお気持ちに応えてここに来たいと申したはずですよ。

 

それだけ言うとまたお優しいお顔に戻り、こう付け加えた。

 

でも、講師の中にはたくさんお金が欲しいと言う方もあるでしょうから、その時のためにそれは取っておくといいですよ。

 

そう言って実に優しく微笑まれた。

 

詩人の山尾三省さんは、松原先生の微笑みは太陽のようだ、といっていた。

 

 

その日の法話の中で忘れられない話がある。

老師のお母さんへの思いだ。

 

老師は母の顔を知らないのだという。老師をお産みになってまもなく亡くなったという。

ところが最近、90近くなってからというもの、毎朝洗顔の時に鏡を覗き込んで思うことがある。

「ああ、私の母も生きていらっしっゃたら、こんな顔になったのであろうか」と。

鏡の中の、ご自分の皺だらけになった顔の中に、見たこともない母の面影を見るのです。

すると、涙がこぼれてくるのです、と。。。。

 

毎朝、あの禅室への道を歩む老師は、母の面影を偲びつつ歩むことも合ったのだろうか。

あの踏み固められた道には、涙もこぼれたのだろうか。

歩くのがやっとになっても話を聞きたいという人が寺に来れば出て行って法を説いたという松原泰道老師。

 

仏日すでに隠れぬ

長夜いつの暁をか待たん

法船またくだけぬ

苦海何をたのんでか渡らん

【舎利講式 明恵上人】

 

南無釈迦牟尼仏

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雨ニモマケズ :

今朝の新聞を見て、訃報を知りました。
まさに“巨星墜つ”の感があります。

私も師の著作をいくつか拝読し、かるかや山での「南無の会」の法話も拝聴いたしました。
私を仏道信仰に導いてくださったおひとりと言えます。

師の教えは、間違いなくのちのちまで、著作などを通じて伝えられることでしょう。

(合掌)
南無釈迦牟尼佛
南無釈迦牟尼佛
南無釈迦牟尼佛

雨ニモマケズ様

仏教は、
生き方ですよ、

と、ある講演会でお話しになっていました。
なんてことない一言ですが、

ああ、そうだった、

と、あらためて痛感したものです。

高度成長期から、今日に到るまで、
老師がいてくださったお陰で、
消えそうな仏法の灯が守られてきました。

老師の守られた灯を伝えていきたいですね。

Red ジョーユー :

ヒョンなことから、たどりつき、、、びっくり!
そうでしたね!南無の会やってましたね!(笑)

お通夜へ行って来ました。
スゴい人でした。

僕は、「南無の会で僧侶になった」というタイトルでお話したことがある位、南無の会に30年前、出会い、現在に至っています。
南無の会は、会員もスタッフも30歳、年をとりました、、、。

わが師花山勝友先生そして松原泰道先生亡き後は、
無着成恭先生しかもういらっしゃいません、、、。
でも、九州ですから、、。

来年、所属寺の座間仏教会にご出講くださいます!
僕は、浄土真宗無着派ですから、、、(笑)

では、また!  合掌~合笑~なあむ

Red ジョーユーさま

ややや、これはこれはようこそお立ち寄りくださいました。
南無の会の大先輩!

人に聞きましたが、1週間前に奥様もお亡くなりになったとか。

なんだか、凄いご夫婦です。

え?浄土真宗無着派?

さすがです。

あるいは上田派、あるいはカギュ派、あるいは護憲派、あるいは笑い療法派、あるいは・・・。

その多彩かつ軽々としたフットワークこそ、ジョーユー師の魅力であり、その柔らかこそ、南無の会の精神ですね。

私も、たくさんの世界に属しながらそれに捕われず、おおきなダルマにつながっていたいものであります、はい。

横田清一 :

1月19日NHKテレビ「あの人に会いたい」で生前の松原老師の姿が放映されました。念のため録画をしておきました。再度映像を見たところ老師の義母が7月29日に空襲にあい死亡したとコメントガがあり、もしかして老師の命日と同日ではないかと気になりそれを確認するため本記事を読みました次第であります。

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