住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

葬式は、要らない、か?

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宗教学者の島田裕巳さんが『葬式は、要らない』という本を出版し売れている(と、今朝の新聞広告に書いてある)。

実はまだ読んでいないから感想や書評というわけではない。

以前、島田さんの「戒名」についての本を読み考えさせられることが多かった。

氏はその後も私たち既成の仏教界・寺院に対して、概して手厳しい内容の書物を著しているから、今回もタイトルどおり、また新聞の大きな広告のとおりに、今日の葬送をめぐる寺院や僧侶また葬祭業者や、それらのビジネスに流されている現代人のあり方に対する批判的内容、そして「先進諸外国」との比較による『あるべき葬式』『新しい葬儀のスタイル』の提案であろう。きっと日本のお坊さんが嫌いなんだろうなあ。

そういえば、有名な白洲次郎さんは、「葬式無用、戒名不要」と遺言したという。かっこいい。

でも、遺族と親しい友が集まって酒盛りをしたという。それは、葬式であろう。

でも、彼を評して「風の男」って、それもある種の戒名であろう。

だから、葬式は必要なのだ、戒名も必要なのだ、と威勢よくこの本のタイトルに文句をつけようというわけでは、ない。

ただ、こうした批判の矛先になっている僧侶や寺院、または業者のあり方が、日本全国津々浦々の全部の僧侶や寺院、業者のありようではないと思うのだ。都市型の問題意識が、全国にすっぽり該当するわけではないのに、大手の出版社の広告や記事は、全国に行き届いてしまう。メディアは、あんまり無頓着に都市型の事象や問題意識を流してほしくない。それは「寝た子を起こすな」と言うのではなくて、現代的な観点や価値観にのっとって批判しようとすれば、地方の文化などは、どれもこれも批判できるし、また逆に、「これでいいのだ」と言う肯定がしにくいものなのだ。ことに若い世代は、都市型のモードや論理や価値観に沿っていき易いから、面倒な人間関係や手続きや知識を必要とする地方の伝統的な文化や習俗は、その意義を吟味する猶予もなくまるで「文化大革命」みたいになってしまう。

東京を中心とする都市型のライフスタイルが生み出す問題意識は、都市化しつつも伝統的なライフスタイルを尊重する地方の地域社会には、必ずしも一致しないと思う。

また、日本の仏教が国家や貴族、武家などに依拠していた経済基盤を失っていく過程で、葬儀を重視してその祭祀を執り行うことを通じて経済的基盤を確立してきたことは、単に教団組織や寺院の伽藍を守るために既得権益をガードしてきたのではなく、仏教を守り伝えるという意識もあったし、またその仏法によって死者の霊が慰められ、祖先の供養ができると受け止めてきた、日本人の霊性の歴史的背景もあると思う。

どうしたら、死んだ人の魂が鎮まり、慰められるのかということについて、日本人は強い関心を抱き続けてきた。

その長く強い問いと検証に耐え、日本の仏教の葬送文化は培われてきた。

親族の亡魂をきちんと供養するという文化が、日本人に安定感のある精神の醸成を促してきた。

そう私は思う。もしも、このまま、こうした文化を経済原理だけで端折り、簡略化を続ければ、日本人は、個々においてもまた社会全体においても、精神的な安定感を失ってしまうのではないだろうか。

うがった見方をすれば、怪しげな新宗教の跋扈にしても、現代人を悩ます精神的な不安や疾患なども、精神活動の基底を支えていた葬の文化、祖霊鎮魂の文化が崩れていることに、大きな遠因があるのではないか。

 

島田さんの本の主たる問題提起でもある葬儀の費用についてであるが、一般的な消費に関わる費用と比べて、時間的な金額が高額だと思える。確かに安くはない。しかしながら、それらが「功徳」となって亡き人に回向される、またそれによって地域の宗教空間(寄り合いの場、憩いの場、祖霊の鎮魂の場)が維持される、また現実的に各家庭や個人が引き受けている社会的な責任において、「故人に成り代わって生前の恩にお礼する」という意識から、関係者に贈答品や食事でその意を表す、、、。今時の住宅は葬式を想定していないし、葬式を想定した地域住民の態勢になっていないから、会場を借りなくてはならないし、各種の手続きも代行してもらわなくてはならない、、、、。

そんなふうにして、費用がかさんでいく諸要素のどれかが、「ムダ」とあたかも事業仕分けするかのような切り捨てられるだろうか。一番批判しやすいのは、お布施であろうが。。。。

また欧米の諸外国(なぜか学者は欧米を何もかもについて進んでいるという立場であるが、もうそういう辺境劣等意識に付け込むような啓蒙パターンは止めてほしい)と比較して葬式の費用がべらぼうに高いということも、その金額だけを取って一方的にダメだしをするのもどうかと思う。

例えば、アメリカ人は毎年クリスマスに一家族で3000ドルから5000ドル(約25万から45万)を家族や友人へのプレゼントに用いる。それを、諸外国と比較して異常であるといって批判してもしょうがない。葬式のスタイルも文化や民族によっていろいろだから、川に流す水葬や、鳥に食べさせる鳥葬が深い宗教的な文化を背景として行われているが、それを「アメリカの葬式はシンプルだ」という理由で批判するだろうか。

アメリカ人がクリスマスでその年に貯めた貯金の大半を使ってまで家族や友人たちに伝えたい心があるように、日本人には亡くなった人のために立派な葬式をすることによって、亡き人の例に向けて表現したいことや、故人に連なる人々に伝えたい思いがあるのではないのか。

 

もちろん、葬祭業者の競争の激化により、より安価でより楽な「商品」も出てくるし、「家族葬」とか「直葬」という新しい言葉が「発明」されてしまうことで、潜在的な需要を掘り起こすビジネス上の努力も盛んだ。

それらは常に新しい「葬の形」の提案かもしれないが、それらはいつも「遺族」に向けた提案ではなく「消費者」に向けた提案である。

「葬」は、死んでいく当人の意思と遺族の意思が大切であるが、消費者意識だけで葬儀を営めば、費用の抑制に成功しても終わった後でなんだか「これでよかったのか」と思うだろうし、遺族意識だけでとことんやれば費用もかさみ、今度は「これでよかったのだ」と思うに思えぬことにもなる。

 

かつての葬儀は、容易ならざる細かい慣わしによって行われていた。

遺族や親族が為すべきこと、地域社会が為すべきこと、または為してはならないこと、それらは故人との近親の距離によってその場で定められ、49日までさまざまな儀礼が行われた。それらの種々の儀礼や習俗は、それを勤め営むことによって、「やるだけのことはやった」という遺族に満足感を与える大きな「癒しの効果」があったであろう。

今我々は、その大半を端折り、棺おけの手配から、手続き万端を、業者に委託している。通夜振る舞いの食事を、自分たちで作ることはもうない。死者の為にしてあげられることが、ほとんどなくなったのだ。手触り感のない葬儀になったのだと思う。感触がない。いわば疑似体験に近い。

何もかもを業者任せにしてしまうと、葬式をやったはずなのにやったような気がしない、ということになり、そういうモヤモヤ感が「実感」や「感触」を知らず知らずに求めているのではないだろうか。数々あった儀礼や供養の作法を端折ってしまう分だけ、祭壇が大きくなり、死者の為に長く喪に服せなくなった代わりに大きな生花を上げる。おそらく、葬祭業者側にしても、顧客=遺族側の、「やるだけのことをやってやりたい」という部分をビジネスチャンスと捉えているであろうし(悪くいえば付け込んでいるであろうし)、そうやって遺族側は「気の済むように」しているのではないだろうか。

アメリカ人がクリスマスカードだけで済ませないように、日本人も簡素にし切れないのである。「親父が死にましたんで、よろしく」という葉書をもらって、「了解しました」で済むだろうか。亡き人にこの世での別れを告げ、何か弔意をこめた言葉やものを手向け、遺族に悔やみの言葉を伝えたい。

そのようなことを考えると、葬儀を簡素にするためには、今やっているものを安易にムダと切り捨てるのではなく、それらの諸要素が私たち遺族にとってどんな意味があるのかを知る必要がある。そして、誰かが亡くなったことによってもたらされる精神的、物理的、人間関係的な欠落を埋めていくトータルな葬・喪の行為として、現在行われている葬儀全般と同じ宗教的・世俗的・心理的な機能を有しつつなおかつ簡素なものを目指さなくてはならない。が、それは大変なことではないだろうか。大変だ大変だと、先送りしていたら、それこそ怠慢であるとまた批判されてしまうのだが、、、、。

一方で、葬儀には亡き人の霊を慰め、遺族を慰めるという大きなテーマと並行して、「昨日まで我々のネットワークの中に存在していた彼はもう今後はいないのである」ということを、関係者一同が強く確認しあう場面でもある。それは人間関係を再編成するための、大切な「儀式」であるし、祖先の知恵のたまものだと思う。彼の「社会的な死」を関係者が寄り集まって確認しあう辛くも冷徹な生者の場面なのだ。ある思想家は、葬儀を「社会的な殺人」とも評した。こういう深い働きを有する「場面」を、簡素化という観点からだけで新たに創出していくのは困難であろうし、仮にこうしたらどうかという提案をしても、大多数の合意には到らないのではないだろうか。

人は、完全に身元不明でない限り、何がしかの社会的な関係を有する存在であるから、その人の死を、その関係性にある人々が全体として承認しあえる場が必要であるし、そのための仕組みとして、今日の葬送のスタイルは不満や不備があっても、広い合意が得られていると思われる。

こういう広い合意というのはとても大切であると考えるが、知識人や、進歩的な人は、伝統的なことや十年一日のことを評価しないし辛らつに批判する。けれども、十年一日で進歩も変化も見られない物事というのは、それだけ「まあ、いろいろ不満もあるけれども、これでいいのではないか」という、流行に左右されない、時間的な検証に耐え、しかも同時代の広範な合意を得ているものではないだろうか。つまり大衆的な支持があるということだ。

本を出したりする人の多くは、広く深く勉強して、物事や世界や社会を鋭く観察・分析するが、そのためにかえって「普通」でなくなってしまう。中間層の意識から分離してしまうのではないか。

こう言うことをいえば、きっと「だから坊さんは保守的だ」とか「そういう全体の合意なんてものが"しがらみ"になって自由を奪い、個性を阻むのだ」という意見もあるだろう。でも、多くの人が概ね合意している葬の営みを自分もまた営むことによって、死者の霊を慰めることが出来た、と受け入れることが可能なのではないのか。その社会全体が、概ね合意している大きな死生観や霊魂間に沿った営みがあるから、私たちはそれをすることで安心できるのではないか。

進歩的知識人の問題意識と、無関心層の意識との間に広く暮らしいてる、普通の人々が「まあ、これでいいのではないか」というものが大切なのだと思う。

むろん、私も、華美に走る葬儀を肯定するわけではないし、遺族の癒しの機能を疎外する合理主義のプログラムや、葬儀の布施に大きく依存する日本の仏教界や寺の経済基盤のあり方が「正しい」と強弁するのではない。

それらが、巨大な市場になっていくのは、死者の争奪戦、人の死を待ち焦がれるというようなことになり、死者にたいする冒涜になっているし、携わる僧侶や葬祭業者一人ひとりの精神衛生上よろしくないばかりでなく、死を文化の根幹にすえてきた日本人の精神にとっても由々しきことだと思う。

その点では、我々僧侶一人ひとりはもとより、葬祭業者の皆さんには競争原理で葬儀を商品化するばかりでなく、自分たちが日本の精神文化の担い手であるという誇りを持ってほしいものである。実際、日本文化の根幹を支える仕事に他ならない。世界的にも誇れる、高度で深い死の文化の、担い手であり、伝承者なのである。映画『おくりびと』は、そんな葬に携わる人々や、日本人の死の文化そのものへの素晴らしいエールではないか。

「葬式仏教」は批判の言葉になっているが、人間の死の重みを真剣に考えるならば、日本人が葬式という重大な営みを仏教において為してきた意義を、僕ら僧侶自身が重く受け止めたい。死の場面をめぐる大切な勤めを、本気で、きちんと、心をこめて勤め、葬式仏教という言葉を批判するための言葉でないものとしたいものである。

 

それにつけても、何事も、批判する人、文句をいいたい人の声は大きい。ストレス社会の、憤まんのはけ口をビジネスチャンスにしているような商法もあり、特に既得権を持っているような業界(この場合は仏教界や葬祭業者)を叩く本の場合は、実際にそれらに対する問題意識を持っているかどうかより、社会全体に対してムカムカしている人が買っているケースが多いのではないか。

天下り叩き、相撲界叩き、教育界叩き、売れっ子叩きなど。

民主党の選挙手法みたいな本の売り方だ。

そんなわけで、そういうストレスのはけ口として売れている本は、都道府県別に売り上げの分布を公表してほしいものだ。

で、その本の内容が、普遍的な問題意識を備えたものなのか、都市型のものなのか、地方型のものなのかも知りたい。

そうしないで、50万部売れた、と言われても、もうよく分からない。

 

それに、真面目に、一生懸命葬式の導師を勤め、檀家の先祖の供養を日々に念じ、そのために修行もし勉強もし、地域の人々の幸福を祈り、伝えられてきた伝統を大切にし、お寺を守っているお坊さんもいるのです。同じように、一軒一軒のお客さんに、満足してもらえるように、厳粛に勤めている立派な葬祭の方もいるのです。

だから、声高に十把一絡げで、センセーショナルに批判するのはもう勘弁してほしい。

すくなくとも、新聞社や出版社は、そういう「結果」になる売り方は、控えてほしいものである。

 

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幽黙 :

愚生なんかも
いわゆる商業的葬儀は不要なんですよね
というかちょっと厭と言ってもいいです
ちょっと縁のある人が
こいつはアホやったなぁ
とでも言ってもらえればそれでいいくらいで
戒名もよくわからないので
死んだ人には戒名ってのは
ある意味どうでもよくて
残された人の満足じゃないのかなぁ
などと思うこともないでもないので
俗名のまま葬られることに
些かの抵抗感もないんです
埋葬にかんしても
墓石の下にはいるよりは
樹の根にまとわりつかれて
獣に食われて
虫に食われて
菌に食われて
溶けて行きたいんですが
日本ではそれは許されませんしね…
よく頭蓋骨に樹の根がしがみついて
それで祟りめいたことがおこって云々と
安倍晴明などの陰陽師伝承にありますが
愚生なんかはそれ嬉しいかなあって(笑)
常緑樹がいいな…
っと
白洲次郎と白洲正子の墓は
兵庫県三田市にあるのですが
実際に見た墓はそれが墓だと言われるから墓で
それといわれなければ墓とはわからない
五輪塔のシルエットのような石碑で
白洲次郎の墓石には不動明王の梵字
白洲正子の墓石には十一面観音の梵字
石は白洲次郎がどこかで見つけたもので
墓石デザインは白洲正子だそうです

幽黙さま

逝くものと遺されるものと、それはつながっているというのが、僕の感じているところです。

逝くものが望む葬のスタイルが最も尊重されるべきではりますが、それが遺されるものにとって取り付く島のないものであると、社会的な関係性の中における人生というのは全うできないのではないか、と思います。むろん、遺された人だけが満足するスタイルだけでもまた、全うされるものではありませんね。生物的な生命活動の不可逆的な停止以降も、ゆるやかに織物から一本の糸がすぅっと抜けていくように、時をかけてその人の死というものがすすんでいく。葬の諸儀礼にはそんなイメージがあります。

ヨリシロとしての墓石、また逝った人の人生の本質を物語る呼び名としての戒名(例えば、シラスケ)、それらは遺されしものたちの心が満たされるものであるといってしまえばそれ切りですが、そういうものが不可欠であると言い切れなくとも、あったほうが人生というのは安らかなのではないかな、と思います。


白洲夫妻の墓石は写真では意見したことがあります。

どこかで見つけた板碑のような感じでしたね。

ただ、こういう議論になると、歯切れは悪いです。

でも、避けては通れないのですよね。

すみません

>白洲夫妻の墓石は写真では意見したことがあります。

↑は意見→拝見

でした(苦笑)

雨ニモマケズ :

 日本人にとっての葬送の意味、そして葬儀が仏教の様式で執り行われることの意義は、和尚さまのおっしゃられるとおりだと思います。
 ただ、「葬式仏教」という批判的・軽蔑的な見方は、「葬式を司る」ということたけでなく、「葬式しかしない」というところにもあるのではないかと小生は感じています。
 近親の葬儀や、昨年は信濃三十三観音巡礼で多くのお寺をお訪ねすることもあって、住職の“法話”をお聞きする機会がたびたびあるわけですが、どうして仏法を、即ちお釈迦様の教えや高祖の教えを伝え説くということが少ないのでしょうか。
 多くのお寺は、その由来だの、仏教とは直接関係ない風習・歳時記だの、はたまた戦国武将など関係する歴史上の人物のことだの、果ては箸の持ち方だの(道徳・躾が法話の種になるとは、これには笑ってしまいました)・・・、この住職は仏に仕える身でありながら、何をしゃべっておられるのだろうと、不思議でなりません。
 住職は伝道師でもなければならないと考えます。縁日に観音信仰の心をお話くださる和尚さまのようなお坊さまが増えてくれることを願います。


雨ニモマケズ様

ありがとうございます。

確かにご指摘のとおり、日本の僧侶は仏法というものを積極的に説くという姿勢を持っていません。

この姿勢は、現代にあっては大きな問題と言えますが、日本の仏教の歴史の歩み(あるいは仏教の歩み)が、そういう道であったと思っています。

それは堕落してきたという一面とともに、長い年月をかけて、日本人は仏法をことさらに言葉にしたり意識化したりせず、文化の深層や意識のベースまで浸透させてきたという面があると思うのです。出家主義であった仏法が、大乗運動、在家仏教へと展開していく中で、生活を仏教化していく、生活文化が宗教化していく、大きな流れとして捉えることが出来ると思います。

秘仏もまたそういうものではないかと思いますが、あえで仏像を見なくとも、仏の姿が内面化された人々にとって、仏像というのはある意味で余計なものになった。そんなお姿をじかに拝むのは、奥ゆかしさに欠ける、と。

私たちの日本文化において、仏法は先祖の供養という営みの中に溶け込み、ことさらに説くことより、日常茶飯事の暮らしの営みの中に、法が染み透っていった。

そういう文化の伝統の中では、寺の住職は、ことさらに法を説くということが要求されないのだと思います。むしろ、道徳的な水準の話をしていれば事足りたのだと思います。説くとか語る、意識化するのではなく、さりげない日常の営みを通じて、無意識の世界に仏法が浸透していく道、それが在家仏教の進化のスタイルであったのではないでしょうか。

また日本の寺院のポジションも、深く一般世間に密着しているために、かえって反宗教的な世俗的枠組みに位置することになっています。オウムの若者が、「寺は風景に過ぎなかった」と言ったのは、返す返すも言い得ているわけです。日本の仏教は、まさに風景に溶け込むことは目指したと言ってもいいのではないでしょうか。

加えて、私たち寺院の、葬式に依拠する経済基盤は、その流れをいっそう強固にしてしまい、宗教的な場面に仏教寺院や僧侶が立ちにくいのが、日本の仏教の構造的な弱点であると思います。

日本人にとって不幸なのは、仏教が生活化し無意識化した頃合に、明治の近代化ということが起こって、自然科学的な方法論が学びや生活の基本的なスタイルに採用され、文化も宗教も、意識的にすることになった。伝統文化が、なかなか理解されにくいのは、こういうところに大きな原因があるのだと思います。

長々とかきましたが、法を説きにくい構造的な欠陥が得るからとはいえ、今や時代は仏法を意識化したい、言語化したいと望む人々が多くなっているのですから、いつまでも伝統的なスタイルに止まることなく、私たちも「法と伝える」と言うことを文字通り意識的に取り組まなくてはならないと思います。

また、出来得れば、一方的に法を説くのではなく、お釈迦さまがそうしたように、対話型による法の語らいが望ましいですね。

唐変木 :

>アメリカ人がクリスマスカードだけで済ませないように、日本人も簡素にし切れないのである。「親父が死にましたんで、よろしく」という葉書をもらって、「了解しました」で済むだろうか。
 済むかどうかは喪主の考え方次第と、親類次第ではないでしょうか。私は父の葬儀の時、母の弟夫婦だけに来てもらい、他の人には連絡しませんでした。全てが片付いた後にあらかじめ連絡先を聞いておいた人々にはがきで通知し、本人の遺言で香典は固く辞退しますと書き添えました。それでも送ってくる人がいるのでその人には頂戴した金額と同額のお茶をお茶屋から送りました。

 葬儀屋のお茶は高いばかりでさっぱりうまくないですが、お茶屋のお茶で少し良い物を送りましたのでおそらくうまいと思って飲んでもらったでしょう。

 葬儀も祭壇は要らない、花も要らない、写真も要らない、供物も要らない棺桶だけでよい、それもどうせ燃やすのだから一番安いのでよいと言うことで注文を付けましたが、花くらいは手向けてくださいと言うことなので、それだけ承知し仕切ったら30万程度で収まりました。まだ高いと思いますが、この程度は仕方がないのでしょう。

 写真なんか残しても、50年も経ったら誰が管理するのでしょうね、残された人は「この人誰?」てなことになり、捨てるにも困るでしょう。家内の時は田舎の連中が押し寄せ、あれこれ言うから仕方なく従い、結構の費用が掛かりましたが、祭壇は頑として断りました。あれが一番費用が掛かるようです。

 母の時は坊さんも頼まず、自分で戒名を付け、お経も自分で読もうと思っています。戒名が必要かどうかは分かりませんが一応付けないと他人とのバランスがあるのでその程度は自分でやろうと思っています。どうしても坊主が付けるというなら1万円位の戒名で頼もうと思っています。ただし、墓に彫るには自分で付けた戒名にします。

 私の戒名も自分で付ける予定です。

 坊さんの付け方を見ていると好きな物を取り入れているようなので、大のおっぱい(綺麗な物に限る)好きなので、おっぱい星人をもじって「乳☆介翁大院殿」とでもしようと思っています。自分が気に入ればよいことで、規則に則っている、いないはドウでも良いことでしょう。坊主が認めないかも知れないけど、どうせ菩提寺に入るつもりはないので、死後に備え献体手続きをしてあり、大学の墓に入れてもらうつもりですから、戒名などどんな物でも問題ないでしょう。
 仏罰が当たると言うかも知れないけど、当たらないように生前に十分仏教界に尽くしておきますよ。

長谷寺 :

唐変木さま

書き込みをありがとうございます。

唐変木さまのように、親はこう送るし、自分はこうやって死んでいく、というお考えがきちんとあるのであれば、それでよいのだと思いますし、ある意味でうらやましい気もいたします。

親鸞聖人は、私が死んだら鴨川に流して魚の餌にせよ、と弟子たちに遺言したそうです。弟子の中には、本当に自分の遺骸を川魚の餌食にした人もありました。それは、死生観が確立していたからこそできたのだと思います。

きっと、葬式にまつわるいろいろな習俗が膨らんできたのは、どうやって送ればいいのか、またどう死んでいくのか分からないからではないでしょうか。分からない者たちが、よってたかって、こうしたらどうか、ああしたらどうかと、やっているうちにこんなふうになったように思われます。これでいいんだ、と、真に腹に落ちてきたら、その「安心」の前では祭壇などはさしたる意味を持ちません。


坊さんを軽蔑するのはご随意だと思いますが、一緒に仏法も切り捨ててしまうのはもったいないと思います。ご自分でお経を読まれるとのことですから、どうぞ坊主は抜きにして、仏教を大切になさってください。ご自分の考えをきちっとお持ちの方ほど、仏教というのは面白いものです。仏教によって、そんな「自己」を検証なさってみてはいかがでしょうか。

仏教界に尽くすより、そのほうがはるかに功徳があります。

美しいおっぱいを愛しているのであれば、私ならどんな戒名でお送りするでしょうね。
それを公言できるのは、生き方としてはかなり個性的な人生であると推察いたします。
私の器とセンスでは、おっぱい星人に授与する戒名はなかなか思いつきません。まだまだ修行が足らないようです。

唐変木さまのような方に、おれの戒名を頼む、と言われる様になりたいものです。

墓守娘にはならない :

葬式不要論争に関する仏教界の方の反論は、本当に似通っていて驚いてしまいます。
必ず、「全ての仏教関係者が不誠実な訳ではない」と入っているのですが、そんなの当たり前の話でしょう。
どんな業界にだって不誠実な業者も誠実な業者もおりますよ。
問題になっているのは、仏教界関係者の圧倒的多数が不誠実であると思われているからです。思われているだけでなくて事実そうだと思いますが。
「利益目的ではないから」という理由で税金免除されている金で遊びほうけている坊主を見ていて、この連中の利益の為に金を払うなどまっぴらごめんと思わないとしたらオウムにやられた信者並みに頭がいかれているとしか思えません。
誰でも、自分の近くにはいないけど、どこかに何人かくらいは、徳の高い坊さんもいるんだろうな、ただしどこにいるのかわからんし、探す暇も気もないけど。別に坊主の世話にならなくとも生きてきたしね。と思ってますよ。
私だって、こんな辛口コメントを書いていますが、必ずまともな仏弟子は日本にだっているはずだと思っています。

誠実な仏教関係者を批判などしていないし、宝くじよりは当選確率が高いであろう、誠実な坊主と葬儀屋にあたった人は何も問題ないでしょう。

ちなみに私はアラフォーですが、これまで坊さんと話をしたことは1回しか無いです。
父方の田舎の法事で、父は長男で、家の墓の心配をしたんでしょうね。
うちは娘二人なので。
別にこっちに話など無いのに挨拶をするんだとかで待たされて(中学生のときです)
何を言うのかと思ったら、「あなたは女だけど、ちゃんと墓を守らないと云々」
生まれてこのかた、女だからどうのという扱いを受けたことも差別も無い環境で生きてきましたので、このアホ坊主と、このとき墓参りに行ったとき、地元の父の知り合いのばあさんとばったりあった時、「女しかいないのか。女だけじゃ役に立たんではないか」と言われたことだけがいわゆる女性差別経験ですね。

こんな目に遭う前から、葬式にしろ、墓にしろ、戒名にしろ、少なくとも自分は不要だと思っていましたし、現在もそうです。
戒名なんぞ、出家しなかった人間が、つけた坊主の弟子ということにして出家した状態であの世に行かせてやるとか言う意味だと聞きましたが、誰が見たことも無い坊主の弟子扱いなどしてほしいかということです。
ましてやあんなくそ坊主が(私より先に死んでるだろうから他になるにせよ)つけて、そいつの弟子扱いされるなぞごめん被ります。

ただ、葬式にしろ墓にしろ、それがあることで心休まるという人ならそれはそれで結構なことだし、謝礼金にしても、本人の自由意志で払いたいなら100万でも200万でも払えばよろしいと思います。他人が人の価値観に口出しする権利はありません。絵画やなんかと同じで、原価と販売価格の釣り合いが取れていなければいけないという種類のものではないですよ。
それがぜひとも欲しいという人にとっては、に限りますが。

棺桶なぞ、原価は5000円程度の物でしょう。
だったら運搬料や手配料含めても、この価格破壊の時代、今日注文して今日中に、という特殊事情を考えても、1万円がいいとこ。それ以上はぼったくりです。
戒名なぞは欲しいという奇特な人と、この人の弟子扱いでぜひともという坊さんがいるなら払ってもいいでしょうが、私はいらない。
花やら何やらはサービス次第ですから価格は好きにできるはず。
最後の砦、読経。これ、どう考えても高過ぎでしょ。
通夜と、葬式と、初七日と、49日?計4回として、1回せいぜい1時間。
結構いいスキルを持った技術者の時給で3000円、出張日や、予定が立たないことを考えたサービス業と位置づけても、いいとこ一件1万そこそこが妥当な線だと思いますけどね。これに出張費をつけて。
まあこれも、ぜひこの人に経を読んでほしいということであれば払う甲斐もあるけれど、面識も無い坊主に適当にお布施目当てで読んでもらうくらいなら、私なら気に入った声のCDで流してもらう方がずっといいですけどねえ。
お金もCD代だけだし。
田舎で人の数がそもそも少ないとなると、これだけではいくら税金かからないとはいえ、寺の維持どころか生活もままならないでしょうから、地域から必要とされているのであれば、お布施をいただいても罰はあたらないでしょうけど。
要は、仏教や、葬式自体を否定しているのではなく、価値ある葬式や仏教を提示できないから、無用どころか有害(ぼったくり)扱いされているだけだと思いますよ。

墓守娘にはならない様

実に辛口のコメントをありがとうございます。だいぶ辛いですね。

私は、「葬式不要論争に関する仏教界の方の反論」をあまり知らないので、私もその「似通った」反論の中にいるということでしょうか。

確かに、いいのもいれば悪いのもいる、それはそうですね。

それは当たり前なのですが、私はこの本の売り方に、そういう当たり前を無視するような違和感を感じています。

でも、売れているんでいすよね、いやはや。

葬式については、こうして私もいろいろと考えたり書いたりしてみますが、どうも僧侶であり住職である私の立場で何を言っても、結局は「既得権益」を死守する文脈になってしまうのが遺憾とするところです。

仏教も、また寺院も、社会に価値あるものを提供できると思いますし、また大切な価値を守るつとめもあると考えますので、辛口のコメントを励みに頑張ります。

どこかでお会いして、墓守り娘にはならない様にとって、人生二人目の僧侶としてお会いできたらと願っています。

いっそう失望させることが無いように、心して日々精進したいと思います。また辛口コメントをお待ちしています。

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