住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

チュンダよ、自分を責めるでない

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チュンダよ、自分を責めるでない

 

季節はめぐり歳はあらたまり、もうお釈迦様の涅槃会を迎えます。

この一年の間に、どれほどの別れがあったことでしょう。

遅れ先立つは世の習い、とは言いますが、大切な人を亡くすと、私達は時に自分を責めてしまいます。

 涅槃会に掲げられる涅槃図の物語に欠かせないのは、お釈迦様に「最期の食事」を捧げた鍛冶屋のチュンダです。

 チュンダは、憧れのお釈迦様に食事を供養できることを誇りに思って最高の食材を求めましたが、気の毒なことにその時の茸がもとになって、お釈迦様の体調は悪化してしまいます。

 チュンダは、自分の食事のせいでお釈迦様の死期が早まったことを嘆き、人々にも非難され、とうとう自分がお釈迦様を死なせてしまうと我が身を責めます。

 このチュンダの心情と周囲の動揺を察したお釈迦様は、チュンダに向け、そして周囲の弟子らにも聞こえるように殊更きっぱりとこうお説きになります。


チュンダよ、私が死んでいくのはお前のせいではない。

私が死んでいくのは、私がこの世に生まれたからである。


 私は、この一句を読んだり聞いたりするごとに、お釈迦様は、未来のすべてのチュンダに向かって語りかけているのだと思うのです。

「あの時に私がこうしていれば、あの人は死なずに済んだのではないか」

「いや、ああしていれば...」と、自分を責め、ひとり苦しむ多くのチュンダ。

そんなチュンダである私達に向かって、お釈迦様は、「あなたのせいじゃない、心の重荷を降ろしていいのだよ」と語りかけていると思うのです。

 皆さんのそばで、チュンダが泣いていませんか。

 知らずにチュンダを責めていませんか。

 あるいは、ご自分を責めていませんか。                                   


(奈良 明日香 岡本寺 はがき説法に寄稿)


 私が死んでいくのは、お前の食事のせいではない。

 私が死んでいくのは、私がこの世に生まれたからである。

 この当たり前すぎるひとことは、大切な人の死に直面して自分を責めてしまう我々チュンダにしてみれば、

 そんなこと言われたって、とか、

 そりゃそうだけども、と、

 戸惑うこともあるでしょう。

 一茶は、娘の死を受けて次の絶唱を残しました。

   露の世は露の世ながらさりながら  一茶

 この世が「露の世」であることは、一茶はよく心得ています。近代も近い江戸末期を生きた一茶は、俳人、詩人であると同時に、仏教への深い造詣と理解もあり、また信仰もありました。ですから、諸行無常というこの世の掟、仏教が説く無常迅速の定めも、頭では理解しています。

 けれど、この頭では理解できていても、心が、魂が追いつかない、あまりにも悲しい出来事がある。

 だから、「露の世」であることは分かっているよ、分ってはいるけれど「さりながら」と、その無常の掟に対して思わずつぶやかないではいられなかったのですね。

 私たちもまた、大切な人を亡くせば、自分を責め、また「だけど、どうして」と何度も何度も呟かないではいられません。

 お釈迦さまは、そんな私たち人間の情を知らない人ではありません。

 それを十分に知ってなお、無常の理を説き続けるのです。 

 なぜでしょう。 

 チュンダは、まだまだ自分の人生を生きていかなければなりません。

 一茶もまた、歌い続けなければなりません。

 だから、自責や嘆きの鉄の鎖につながれている私たちチュンダや、一茶を、

 再び自分の人生へと向き直らせる、働きが必要なのではないでしょうか。

 誰かが、生ある者は必ず滅する、とチュンダに対して、一茶に対して、我々に対して、全世界に対して、告げ続けなければならないのです。

 誰かが、告げなければなりません。

 嘆くのはやめよ、さあ、立ちなさい、と。

 そこには、仏法を生きるものにとって、今生とは、解脱に向けて功徳を積むかけがえのない精進の場であって、それ以外の場ではないし、嘆いたりくよくよしたりして解脱への道を怠っている時ではない、という、お釈迦さまのゆるぎない確信があるでしょう。

 でも、それは悲しみにくれ、嘆きに淵にたたずみ、我を失っている私たちにも、どこか遠くから聞こえてきます。

 最初は、悲しみや動転のあまり人の声も、励ましも慰めも耳に入りませんが、少しずつ聞こえてきます。

 やがて、そのお釈迦さまの声が遠くから聞こえてきます。

 そして、次第に、そうかもしれないな、ああ、この世というものは確かに、とその語りかける言葉が胸に届きます。

 鍛冶屋のチュンダとて、最初からお釈迦さまの言うとおりだと直ちに納得できたわけではないでしょう。

 でも、お釈迦さまの言葉が耳に残り、しだいしだいに、ああそうだなあ、と

 深く頷いたのではないでしょうか。

 引導を渡す、という言葉があります。

 つらい役目ですが、誰かが、もう終わり、と告げなければなりません。

 お釈迦さまは、チュンダを通じて、私たちに告げ続けているのです。

 引導を渡し続けているのです。

 それは、遠い遠い声ですが、不思議と、深く悲しむ人の耳に、聞こえてきます。

 振り払いたい、聞きたくない言葉なのですが、遠くから聞こえてきます。

 この世に、お釈迦さまの「諸行無常」という言葉が、小さく、遠くから、ずっと聞こえています。

 そして、いつも誰かが、「その通りだ」と、深く受け止め、涙を拭いています。

 チュンダよ、とお釈迦さまは語りかけています。


 私が死んでいくのは、お前のせいではない。

 私が死んでいくのは、私がこの世に生まれたからである。


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