住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

同席対面五百生

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仏教には、出会いの大切さを示すものが多くあります。

一期一会とか、袖振り合うも多生の縁、挨拶などと言う言葉は、みんな仏教の出会いについての心、心構え、覚悟を表していますね。「たった一度の出会いでも大切に」ということですが、これが身近な人になるとどうでしょう。家族や夫婦に対して「一期一会」なんてことを意識することはありませんね。しかしむしろ、身近な人との関係こそが、私たちにとっては大切なのではないでしょうか。

 

こんな言葉があります。

 

同席対面五百生

 

これは、たまたま偶然にバスで隣り合ったり、たまたま喫茶店の向かいの席に座った見知らぬ人であっても、そのように同席したり対面したりする人というのは、これまで繰り返されてきた前の世で、五〇〇回は一緒に生きた人である、という意味です。「袖の振り合わせも五百生の機縁」とも言いますが、袖を振り合わせてすれ違うだけのような人であっても、目には見えない、深い深い縁があるということなのですね。

 

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すると、家族は、どれほど深い縁なのでしょうか。

バスや喫茶店でたまたま同席対面の人でさえ、五百生という深い縁があるのですから、この世で親子となり家族となり、また夫婦となる相手というのは、もう500回どころの縁ではありませんね。千回とか、1万回とか? それはもう、ずっとず~っと長い長~い魂の旅を共にしている存在なんだな、そんな気がしてまいります。

 

身近な人ほど、些細なことで喧嘩になってしまったり、すれ違ったりしてしまうものですが、前の世、その前の世、もっともっと遥か遠い世からの深いえにしが、自分と身近な人との間にはあるのだと考えてみると、(本当に前世があるないかの議論はさておいて)、ムカツク親、うざい伴侶も、少し違った意味を持った相手として感じられてまいります。私の遠い遠い過去から遠い遠い未来に続く魂の旅の同伴者なのだと思うと、相手も、また私も、お互いにお互いのために何らかの大切な意味を持っている(のかも知れません)。

 

私たちは、どうしても凝り固まった考え方や小さな視野になりがちです。ときには、大きな眼差し、スケールの大きな考えかた、途方もない時の流れの側から、自分を見つめ直してみるのも良いのではないでしょうか。

「同席対面五百生」、道ですれ違う人、電車で隣り合わせた人、そして身近な人を、いつもとちょっと違う視点で感じてみる。心が少し柔らかくなります。

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