住職日記

「長谷寺の住職は現在35世代目。歴史ある寺を守ること、そこから仏教を発信すること、そこが地域に開かれた場となること。課題も夢も山積み。そんな住職の日々と思いをつづります。」

摘むか、注ぐか

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花を可愛がる人は、咲いている花を摘んで飾る。

花を愛する人は、咲いている花に毎日水を注ぐ。

子育ての話の中で、ある先生がこんな言葉を紹介しながら、「可愛がる」と「愛する」の違いについて教えてくれました。

現代人は、この二つを混同しているのではないか、という問いかけでした。

いただいたお花を枯らしてしまうことが多い私にはなんとも耳の痛い言葉で、思えば、私の子育てはどうだったろう? 

種から花を咲かせるまで根気よく水遣りをしたり、土づくりや環境を調えるよう心を配ったりしただろうか。

要するに、毎日毎日、心を使ってきただろうか。。。

子育てばかりではありません。

友人との関係や、仕事のお付き合い、地域の人との輪の中でも、そこに時間をかけて、根気よく、しっかり見つめながら水を注ぐようにして、ご縁を育んできただろうか。

摘んできた花々が咲くまでの時間を知らず、その花が開く仕組みも、その根っこの姿も知らないのに、自分は花を愛していると勘違いしてしまう。

昔から花盗人が非難されるのは、「毎日水を注ぐ」という生き方へのあまりの敬意の無さのゆえでしょう。

毎日水を注ぐ心は、その花はもちろんですが、その種に始まり、命の芽吹きから生長と開花、そして衰えや枯死までを含めた全体に注がれているのでしょう。

そのようにして花との関係を深める人は、家族や友人やものや世界とのつながりも丁寧に育んで、やがては、花の咲き散りの喜びや悲しみを知るように、より深く人生を生きるのだと思います。

時の流れの早さ、老の早さに戦慄する時、人は(私は)焦って何かしたくなり、慌てて花を摘んで飾ることでそれを可愛がり、心を満たしたくなるものですが、そんな時こそ、摘み取る手を止めて、ひと手間ひと手間を惜しむことなく、水を汲み、その根元まで水を運び、そっと注ぐ。

それを毎日毎日、続けていく。花にも、家族にも、友にも、地域にも、その繰り返され注がれた手間の分だけ、私の人生にも水が注がれると思って。

そのようにしてしか決して咲かない花が、人生にはあるのではないでしょうか。

明日香村 岡本寺 はがき説法 寄稿


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2019年8月

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